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【短編】ビタースウィート、或いは紅蓮。③

布団から一歩出れば、不本意の連続。そんな毎日だった。

親の仕事の都合により幼少期を欧州で過ごした私は、ようやく帰国した九歳の頃には、すっかり母国語を忘れていた。周囲とのコミュニケーションに難儀し、当初単なる没交渉であったそれは、やがて異質なものを排除せんとする力を持ち始めた。陰口、悪口。言葉がわからずとも明確に伝わる悪意を帯びたそれらに加え、陰湿な実力行使に及ぶ例も時折あった。

ようやく日本語に不自由がなくなったところで学校を移り、そこで私は多くの友達を確保した。そう、「確保した」という表現が正しい。数年に渡る不遇の日々に神経を衰弱させていた私は、二度と同じ思いはするまいと、「友達を作る」ために万策を講じた。悪目立ちをせず、空気を読み、自己主張は控えめに。求心力を持つ人材には逆らわず、付かず離れずの距離を保って。言葉に気をつけろ、態度を誤るな、表情を偽装しろ、そう自身に強く言い聞かせ、日々を過ごした。

不本意だった。
周囲に迎合している自分が。
恐怖に抗えない自分が。

中学二年で大病を患い、そこから奇跡とも言える生還を果たした私は、今を全力で生きることを自分に誓った。生きるためには死んではならず、死なないためには、私を殺そうとしているものを排除する必要があった。

それまで私を殺していたもの、それは紛うことなく私だった。

自分で自分を殺さない。
感情を殺さない。思考を殺さない。信念を殺さない。
生きるため、生き抜くため、そのような戒律を自らに課した。

真っ先に変化が表れたのは、交友関係だった。八方美人から一転して、不用意に阿ることも気遣うこともしなくなった私からは、自ずと人が離れていった。日々安寧に過ごすため「確保」していた「友達」が、糊が切れたようにぺらぺらと剥がれていく様は、悲しいどころか、半ば爽快ですらあった。

孤独。

自分らしく生きるため、自分の生き方を貫くためには、この状態が好ましいと感じた。今後、深く交わるとすれば、心からそれを望めるほどの魅力を備えた者だけ。そう選別基準を設けると、身の回りにそれをクリアする者は誰もいないことに気がついた。

高校受験には、周囲が誰も選ばない学校を志望した。自分の学力の果てを知るべく、目一杯背伸びをした結果、名門とされるそこに通うことが叶った。これまで出会わなかった魅力ある誰かが、そういう場所にならいるのでは、とも期待した。

そして、その「誰か」と出会った。

冬の色を纏った、孤高な存在。雪の結晶がごときその輝きに、触れたいと願い、運よく触れることをゆるされた。
積極的に人間関係を限定している私だが、それは「限定」であって「拒絶」ではない。ヘルシーなものしか食さない、と決めたところで、空腹にはなるのと同じこと。久方に訪れた他者との交友に、私は歓喜し、夢中となった。

彼女のためならば、自分を曲げることがあるのかもしれない。そんな微かな予感を抱いた。
それは希望でもありながら、一方で恐怖でもあった。
「自分を殺さない」と課された「自分」を、唯一「殺せる」脅威にも思えた。

親交とは、友とは、互いに感化し合い、存在に影響を与えるものであるとわかっていた。わかっていたからこそ、怖くなった。彼女の前では殊更に我を張った。彼女の持ち込んだ文化は殊更に異質で、そのギャップへの抵抗を装いつつも、その実、私の反応は単に、忍び寄る変化に対する防衛行為だった。

変わってしまう、という恐怖。
しかし、それはやはり希望でもあり。
もはや自力では止まれない生き方を選んだ私を、唯一止めてくれる存在なのでは。
そんな救世主の像を、彼女の姿に重ねもした。

だが、違った。

私を止めたのは、私を変える力を持つ彼女ではなく。
私が変えようとして変わらなかった、その日あったばかりのアンノウンであった。

そして不本意は続く。


安藤の怪我は足の骨を折る程度で済んだらしい。二階の高さからとは言え、打ちどころが悪ければ命の危険もあり得たところ、不幸中の幸いであったと言う。そんな所感と共に、私とショーちゃんは職員室でその報告を受けた。

「まず、どうしてあなた達があの部屋にいたのかを聞かせてもらうわ」

目の前、『山口』とネームプレートをつけた女性教師が言う。安藤の所属するクラスの担任とのこと。歳は四十手前ぐらいか。黒い髪を後ろで束ね、上半身は真白いシャツとこざっぱりした身なりをしていた。

職員室の奥。パーテーションで区切られた一画にある、向かい合った二人がけソファ。出入り口側の一脚に私たちは並んで腰掛け、その真向かいで山口は、鋭い目線をこちらに向ける。

「安藤さんに相談があると言われ、三人で話をしていました」

黙りこくっている私の横で、ショーちゃんが答えた。

「どんな相談?」
すかさず山口が訊ねる。
「私たちからは答えられません。安藤さんのプライバシーに関わるものなので」
ショーちゃんが返す。

「あのねぇ」語気を荒くする山口。「わかっている? 安藤さんはあなたたちと一緒にいるときに、窓から飛び降りたの。明らかな異常事態。何があったか、ちゃんと話しなさい」
「ですから、先ほど申し上げた通りです。三人で話をしていました」
「どうしてあんな場所で」
「これも先ほどお伝えした通り、話し合う内容が、非常にプライベートなものでした。誰にも聞かれたくはなく、人気のない場所を選びました」

臆することなく、ショーちゃんは答える。

「私たちも、安藤さんがあんな行動に出るとは思いませんでした。慌てて止めようとしましたが、間に合わず、すぐに先生方にお伝えし、また自分達で救急車も呼びました」

あぁ、そうだった。霞がかかった頭で、私はぼんやりと思い出す。
「私たち」という言葉を使ったが、そのどちらも対応したのはショーちゃんだ。地面に落下した安藤の元へ駆け寄り、その場で119番。遅れてたどり着いた私に場を任せ、職員室に走った。

脂汗をかきながら、脚を抱えて呻く安藤を、私は立ちながら呆然と眺めていた。
大丈夫、と身を案じることも、平気だから、と勇気づけることもできなかった。

だって、私がやった。
私のせいで、あの子は窓から。

私がいなければ。

「いい加減にしなさい」

一際高い山口の声に、我に返る。「何がでしょう」ショーちゃんの冷静な声が、隣で。山口は、ふ、と息を吐き、声のトーンを落として続けた。

「以前からあなたたちについては、あまりいい評判を聞かないの。春先にも、美術室を二人で滅茶苦茶にした、っていうじゃない」
「それには事情がありました」
「一体、どんな事情だと言うの」
「お話できません。私のプライバシーにも関わりますし、学内での情報共有は校長先生に一任しています。先生がそれをご存知ないと言うのなら、なおのこと私からは話せません」
「プライバシープライバシー、ってさっきからあなたね」音を立て、二脚のソファの間にあるローテーブルを山口は叩く。「いい。私には、安藤さんの親御さんに、何があったかを説明する義務があるの。納得のいく答えが得られない限りは、こちらだって引き下がれない。単刀直入に言うわ、もし違ったらごめんなさい。だけど、あなたたちが安藤さんを人気のない場所に連れ込み、暴言だか暴力だかで苦しめた挙句、窓から飛び降りるよう仕向けたんじゃないの」
「違います」
「あなたたちのような目立つタイプが、安藤さんのような子をいじめるケースを幾度となく見てきた。正直、今回もそうではないのか、と疑っている」
「誤解です」
「あなたたちが彼女を追い込んだんじゃないの」

そうです。

胸の内で答えると、膝に置いた手がぷるぷると震えた。飛び降りる直前振り向いた、安藤の赤い目が脳裏に蘇る。

そうです。
私が、私の言葉が、彼女を追い詰めた。
私の、生き方が。

「安藤さんは不安定な状態でした。そこに対する配慮が足りなかったのは事実です」

震える手の上に、温もりが載る。ショーちゃんが机の下で、掌を被せてくれている。

「申し訳ありませんが、同級生が突然あんなことになり、私たちも動揺しています。特にこの子は、ご覧の通りショックを受けている。どうか今日のところは帰らせてください」
「私の話を聞いていた? 納得のできる説明をして頂戴」
「疑うのは先生の自由ですが、誓って安藤さんを傷つける意図はありませんでした。それ以上の詳細は、安藤さんの許可を得てからお話します。あぁ、加えて校長の許可も」
「どうして校長が出てくるのかしら」
「私のプライバシーにも関わる話だからです」
「そう。じゃあ、あなたの方は?」山口が血眼の形相で、私を見る。「さっきから黙りこくっているけれど、あなたはどうしてあの場にいたの? 何のため?」

何のため。

何のためでもない。私はたまたま居合わせただけ。その場にいてもいなくてもよかった。必要だったのはショーちゃんだけ。そのショーちゃんから、余計な真似をしないようにと、釘を刺されていた。

それなのに。
それなのに、私は。

「先ほども申し上げた通り、この子はショックを受けています。質問に答えられる状態じゃない」ショーちゃんの掌、その圧が強まる。「すみません。今日は失礼いたします。それから、次に聞き取りをする際は、別の先生のご同席をお願いいたします。失礼ながら、可能であれば先生より上役の方を」
「偉そうに、何を……」
「行きましょう」

ショーちゃんが私の手を握ったまま、立ち上がる。引きずられるようにして私も立ち、共にパーテーションの向こうへと。「待ちなさい」山口の制止が背中に届くが、ショーちゃんの腕が、力強く私を引っ張る。

そのまま職員室を出て、廊下を歩いた。今、何時だろう。もうとっくに日が暮れた校舎内は薄暗く、私たち以外に人はいない。真っ直ぐ伸びる道を、ショーちゃんに手を引かれたまま、無言で歩み進める。靴音が嫌に響いた。

「あなたのせいじゃない、とは言わない」

ショーちゃんが言った。

「だけど、憑かれていようがいまいが、祓い師へ相談にくる人は、極めて不安定な場合が多いの。無事に祓えた後であっても、動揺がおさまらず、今回のように思いもしない行動に出ることもある。そのために、祓った後の『清め』があるのよ。まぁ、実態はセラピーの真似事、言わばアフターケアね」

『検め』、『祓い』、『清め』。数時間前に聞いた説明が頭を過ぎる。

「はっきり言って、『清め』を行う例はほとんどない。そこまでは必要性を感じず、お金を払う人が少ない、というのもあるし、祓った後の心理的なケアは、請け負う業種も別にある。正直なところ、私も知識としては知っているけれど、やったことはない」

だから、安藤さんに対しても省略した。
後はあなた次第。ただそう言って、立ち去ろうとした。

「今回の件は、プロとして私に責任がある。無料とは言え『祓い』まで請け負っていながら、『清め』を怠った。もっと言えば、あなたをあの場に連れてきた。『言主』の力を借りるかも、と思ったからだけれど、本来なら、自分一人の力で対処できる範囲で依頼を受けるべきだった」

だから、あなたのせいではあるけれど、決してあなたの責任じゃない。

立ち止まり、ショーちゃんの手が離れる。声が降る角度から、こちらを向いているのだとわかる。しかし、その顔を見れない。ショーちゃんの言葉が、優しさが痛くて、俯いたまま動けない。

瞼が熱くなるのを感じる。泣くな。私に泣く資格はない。下唇を噛んで、懸命に涙を抑え込む。

ふと、スマートフォンが震える音が鳴った。私のじゃない。ショーちゃんがカバンを漁る音が聞こえる。「もしもし」やがて通話が始まる。

「うん。……うん。…………え、今から?」

顔を上げる。ショーちゃんがしかめ面で、こちらを見ていた。目が合うと、慌てて逸らされる。

何だ。

「ちょっと今は……そんなに急なの? …………えぇ、わかった。いいわ、とりあえず何とかする」

ボタンを押して、ショーちゃんは通話を切る。「ミノから」。小さく告げながら、カバンに仕舞った。そして、「ちょっと面倒なことになった」と舌打ちをする。

「…………面倒?」
「以前、私がこの学校に来た経緯を話したでしょう。この近辺にいる、とある霊の様子を視察する。そういう名目の下、私は遅ればせながらの学生体験を許されている」

そう言えば、言っていた。強力な霊で、ここのところ異変が見られるとか。

「さらに変調の兆しあり、と上が判断したらしい。速やかに状況を確認し、報告を上げるようにと指令が来た」もう一度、舌打ち。人使いが荒いわね、と小さく吐く。そして私を見た。「……話の途中でごめんなさい。そういうことだから、行ってくる。あなたは帰って、よく休んで」

駆け足で、ショーちゃんはその場を離れていく。

私は行かなくていいの。そんな問いが口から出かけたが、思いとどまる。私が行ってどうなる。今の今、邪魔をしてしまったばかりではないか。できることは何もない。むしろいない方がいい。任務のため去っていく、ショーちゃんの後ろ姿を見送る。

暗くなった街を通り、電車に乗って帰宅する。最寄り駅まで、片道六十分を超える長丁場を、ほとんど瞼を閉じてやり過ごす。そこからまた、暗闇を徒歩。ようやく灯の漏れる玄関を開けると、遅かったわね、とお母さんが出迎えてくれる。
ご飯ができているらしいが、まるで食欲がない。友達と食べてきた、連絡しなくてごめんなさい。謝り、自室に引き上げる。

嘘。
食べてきていないし、そして、友達でもない。
そう思われては、いない。

どっと疲れが押し寄せ、電気も点けず、制服のままベッドへ倒れ込む。首の後ろがチリチリと痛い。目を瞑り、眠ろうとするが、疲労とは裏腹に、思考は燃えたぎるように回転を続ける。

私が私でいることが、安藤を傷つけ、ショーちゃんの邪魔をした。否。今日に限ったことではない。私は出会った頃からショーちゃんの邪魔であったし、安藤に限らず、きっと誰かを傷つけてきた。

何様だろう、私は。そう問われたとしても、少し前までは「これが私だ」と言い張ることができた。しかし、その強情が、傲慢が、あちこちで害を成していたであろう可能性にようやく思い至った今、途方もない後悔が押し寄せてくる。

駄目だ。
このままの私じゃあ、駄目。ショーちゃんの側にいては、駄目。祓い師という人の深淵に触れる職。あの子がそれである限り、そしてその横に私がいる限り、今日のような悲劇はきっとまた起こる。取り返しのつかないことに、きっとなる。

何が『言主』だ。私がそれでいることが、誰かを苦しめることになるのなら、そんなもの辞めてやる。辞められないなら、私ごと消すしかない。

そう。殺すしかない。
いつかの日々のように、自分で、自分を。

お風呂に入るのも億劫で、その場でそのまま布団を被り、また固く目を瞑った。今はもう、これ以上は考えたくない。ドアの向こうでお母さんの声がするが、寝たふりを装い無視をする。あの日、私が死の淵まで追いやられた日のように。

そうしているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。

劈くような振動音で、私は目覚める。カーテン越しの薄明かりの中、鼓膜を通じ脳を刺してくる、そいつの出どころを探る。スマートフォン。ベッド脇の床に置いたカバンから、寝そべったままそいつを抜き出す。

着信を知らせる明滅が、目を焼く。細目で認める光る画面には、『ミノ』の二文字。そう言えば先日、連絡先を交換した。
微かに躊躇したが、通話ボタンを押し、耳に当てる。

『あなた一人ですか』

挨拶もなく、いきなり声が飛び込んできた。

「……ミノ」
『あなた一人?』

また、同じ問い。

「……うん。何?」
『今、どちらです』
「家だけど」
『ウツシ様は』
「知らない。指令が来た、って先に帰った」
『…………一緒に行ったのではなかったのですか?』

ミノの声が震える。ここでようやく、私の頭で警鐘が鳴る。

「え、何。どうしたの?」
『どうして一緒に行かなかったんですか。相手は『アタワズ』ですよ』
「『アタワズ』? ごめん、何の話。何があったの?」

胸がざわめく。電話の向こう、ミノの声は明らかに狼狽し、揺らいでいる。
今、何時だ。咄嗟に思ったが、画面を見直す気も起きない。ただ端末を耳に当て、ミノの言葉を待つ。

『……帰ってきません』

ウツシ様が、帰ってきません。

消え入りそうな声に、布団から飛び出る。
本意か不本意かなど気にかける間もないまま、私は部屋を飛び出した。


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この作品は、こちらの企画に参加しています。


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