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【掌編】サイドテーブル方式

生きていくには考えなくちゃいけないことが山ほどある、と知って、これは何か方策を考えないといけないぞ、と思った。
何せ僕と来たら、ひとつの物事に向き合うことで精一杯で、同時にいろいろな問題を抱えたまま人生を進めていけるほど器用な人間じゃないことは、目に見えていたからだ。
学校の勉強も、今年入った卓球部も、まだ不確かな将来の夢も、友達付き合いも、片想い中の恋愛も、健康管理も、お小遣いのやりくりも。いずれもおろそかにならぬよう、上手に回していかなくてはならないのだけれど、どうしてもどこかに比重が寄ってしまう。そんな時に、「あれもやらなきゃいけないのに」なんて思い始めると、もう駄目だ。結果、目の前のことにも集中できなくなり、出来が悪くなったり、作業が遅くなったりする。そのリカバリーにまた時間を割かれ、「あれも」と考えていた事柄に手を付ける暇がさらに無くなってしまう。焦りが焦りを呼び、失敗に失敗を重ねる、悪循環に陥ってしまうのだ。
「え、そんなことあるか」
僕がその話をすると、兄ちゃんは怪訝そうな顔をしてそう言った。
「宿題やっている時に部活のこと思い出したり、友達と盛り上がっている時に好きな子のこと想像したり、ツトムの言っていることって、そういうことだよな」
「うん」僕は答える。
「そんなの、逆に難しいだろう。宿題中は宿題のことしか考えられないよ、俺」
この春から高校生になった兄ちゃんは、成績優秀で、スポーツもできて、いつも頼れる、僕の憧れだ。だから、兄ちゃんにそんなことを言われると、何だか自分に重大な欠陥があると申告されたようで、途端に不安が襲ってきた。
「じゃあ兄ちゃんは、目の前のことをやっている時に、ふ、と違うことが気にかかったりしないの。例えば、教室で先生の話を聞かなきゃいけないのに、次の試合のスタメンに自分が選ばれるかどうか、気になったりさ」
兄ちゃんはサッカー部に所属していて、一年生ながら早くも試合に出させてもらえるかもしれない、と以前話していた。そのエピソードを引用しての投げかけだった。
だが、それも叶わなくなってしまったことを思い出す。
一瞬、この例えはまずかったかな、と心配になったけれど、兄ちゃんは嫌な顔せず答えてくれた。「うーん。まぁ、確かにつまんない授業の時とか、集中が途切れて思考が脱線することはあるかな」
少し安心して、僕は質問を再開する。
「そうなると、先生の話とか聞いていられなくない?」
「聞かなくていい授業なら聞かないけれど」
「授業は聞かなきゃ駄目だよ」
真面目だなぁ、ツトムは。笑って、兄ちゃんは一度目線を上にやり、再びこちらを見た。
「サイドテーブルに載せる、かな」
「サイドテーブル?」
「イメージだけれど。今やってることが、机の上に広がってるとするだろう。で、ツトムの言うように、別の何かが気になって仕方なくなったり、他に考えなくちゃいけないことを思い出したとする。それを今やっていることの上に広げちゃうと、もう机の上はごちゃごちゃだ」
だから、サイドテーブルに載せるんだよ。兄ちゃんは空中で、両の掌を向き合わせて平行に浮かべ、それをそのまま横にスライドさせてみせた。
「今はこっち、それは後、って感じでさ。ちょっと横に置いておくんだよ。そうすれば、机の上はそのままだ。目の前のことが終われば、今度はその案件をサイドテーブルから引っ張ってくりゃあいい」
はあぁ、と僕は声を漏らすことしかできなかった。
確かに理に適ってはいるけれど、それは器用な兄ちゃんだからこそできる芸当であって、僕には到底無理そうに感じられた。サイドテーブルに物を置いたとして、今度はそちらに気を取られてしまい、やはりメインテーブルの課題に手がつかなくなってしまうだろう。
結局は、今取り組んでいる物事に、いかに集中して向き合うことができるか。その技量にかかっているのだ。
「僕には無理だよ」
少ししょげた声で僕がそう言うと、兄ちゃんは「そうでもないぞ」と笑みを浮かべた。
「お前も、すでにできてるよ。サイドテーブル方式」
「できてる?僕が?」
兄ちゃんは頷く。
「今までお前が生きてきた中で、ずっと側にありながら、お前はそちらを見ようともしないものがある」
「え、何。なぞなぞ?」
「なぞなぞだ。答え、わかるか」
わからない。あれもこれもで注意散漫になってしまう僕に、そんなものがあるだろうか。
「死ぬこと」
兄ちゃんは言った。
はっとして僕は兄ちゃんの全身を見る。病室のベッドにパジャマ姿で寝そべる兄ちゃんは、右脚にガッチリしたギブスを嵌めて、それを天井から吊るされた紐に引っ掛けている。顔にも大きなガーゼが貼られ、開いた襟から覗く胸元にも、包帯が巻かれている。
十日ほど前、兄ちゃんは坂道を急スピードで下ってきた自転車と衝突し、一時意識不明の重体になった。ICUに入れられ、僕はお父さんとお母さんと一緒に、控室で兄ちゃんの動向を夜通し見守った。
幸にして意識は戻ったけれど、全身に強い打撲の痕があり、特に右脚は複雑骨折をしていて安静が必要だ、と主治医の人が言っていた。再びサッカーができるようになるまでは、長い時間がかかるだろうとも告げられた。
病室に入って、会話をすることが許されるようになったのも、つい数日前のことだ。
「よぉ」といつも通りのトーンで迎えてくれる兄ちゃんに、僕も他愛ない会話しかこれまでしてこなかった。こうして事故を連想させる話題に兄ちゃんが触れるのは、初めてのことだった。
「死ぬことは、常に付きまとっている問題だけれど、お前はそれを上手に無視して生きている。お前だけじゃない、他の人だってみんなそうだ。生まれた時からサイドテーブルにずっと置いてあるのに、それに正面から取り組もうとは誰もしない。そこにあることすら忘れてしまっているんだ」
誰もが死へと向かっているのに、死と向き合っている人は少ない。
ちょっと格言めいた言い回しをして、兄ちゃんは窓の外を見る。最初は両隣がいるベッドが当てがわれていたけれど、長期入院することになって、窓際の床に移動してもらったのだ、と母さんが言っていた。
文字通り生死の境をさまよった結果、兄ちゃんはこんな達観した目線を身につけたのかもしれない。確かにそれは含蓄のある言葉で、心に留めておくべき教訓をはらんでいるように思えた。
でも。
「そんなの、いいよ」
僕は言った。兄ちゃんの顔が、窓から戻ってくる。
「そんなの、ずっと置いておけばいいよ。無視していて構わないものだよ」
何故だかわからないけれど、つん、と涙がこみ上げてきて、僕の声はわなわなと震え始めていた。頭がぐちゃぐちゃになり、いいよ、いらない、と自分でもよくわからない言葉を、振り絞るように出すことしかできなくなった。
「ツトム」
兄ちゃんの手が僕の背に回る。その温かさに、身体の強張りが一気に解けて、僕は前屈みになり泣き出してしまう。
「兄ちゃん。無事でよかった」
支離滅裂な頭の中、やっと言いたかった言葉が見つかり、僕は涙混じりにそれを口にした。
うん、と答えた兄ちゃんの声も、どこか湿り気を帯びているように感じた。

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