![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/44866762/rectangle_large_type_2_a7dd104214a242cd05986561c37bd855.png?width=1200)
【掌編】浅瀬
足元に水気を感じて目を向けると、浅瀬に立っていた。
視界の片方には淡い色彩の砂浜が、もう片方には黒々とした大海原が広がっている。
どうしてこんなところにいるのか、わからない。直前までの記憶がない。ただ自分が自分であるという朧げながらの実感と、今からこの海に向かって歩を進め、ずぶずぶと沈んでいくのだろう、という予感があった。
この海は、なんなのだろう。
潮の匂いは一切しない。温く、少しばかりの粘性を備えた水が、とろとろとくるぶし辺りをくすぐっている。
羊水。
母なる海。
命のスープ。
連想される単語は、どれも正解に思えるし、どれも的を得ていないようにも思える。
一体いつから、ここでこうしていたのか。身体が凍りついたように冷たい。反して水はあたたかく、引き寄せられるように、海原へと足が向く。
ぴちゃりという小気味いい音と共に、水面は足から脛へ、脛から膝へと移動する。より深い場所へ進むにつれ、皮膚が溶け出すような浮遊感を覚え始める。心地がいい。このままこの心地よさにすべてを委ね、全身を浸してしまいたくなる。
「駄目よ」
声がして、周囲を見渡す。までもなかった。驚いたことに、あと十歩かそこら進んだ先に、彼女がいた。
白っぽい出立ちで、胸元までを水に浸して立っている。よく見知ったそのシルエットに、思わず声が漏れる。
どこから、いつから、どうやって。不思議に思うも、そんなことはどうでもいい。
まさか、またこうして会えるとは。
乱暴に、粘性の高い水をかき分けるようにして、彼女へ近づく。水飛沫が四方に飛ぶ。一秒でも早く、彼女に触れたい。
「駄目だったら」
悲痛さの混じった声音に、足を止める。
すでに身体の半分ほどまで迫った水面が、反動で揺れた。
「こちらに来ると、もう会えなくなる」
何を言っているのか。まさに今から、会いにいくというのに。
しかし、そこでようやく彼女の異変に気づく。
いや、それは彼女ではない。彼女の輪郭を象っている何かしらだ。波飛沫の泡が集まってできているのか、その表面はぶくぶくと揺らぎ、不安定でぎこちない。
一度意識すると、その泡は風で散り、重力に垂れ、みるみるうちに歪な様相へと変化する。
倒れ込むように距離を詰め、腕を伸ばす。勢いに任せ、彼女に見えたそれを抱き寄せた。力が強すぎたのか、泡の塊は一層醜くひしゃげ、ぼとりと水面に落ちてしまった。
落ちた泡は、宇宙の始まりのように無秩序に、水中で広がり、溶けていく。
絶望を覚えるも束の間、ふと悟りにも似たひらめきが過ぎる。そのひらめきを確かめるように、彼女が溶けた一帯に触れる。ほんの少しだが、周囲と比べて温かに感じる。
そうか。
形がある方が、おかしいのだ。
もともとは自分も、彼女も、この海の一部だった。
自分たちだけでない。ありとあらゆるものが、もともとはこの海の一部で、それが不躾に切り離されてしまっていたのだ。
戻ろう。
このまま全身を浸して、この身体を海へと還そう。
そうすれば、ずっと彼女と共にいられる。
目を瞑り、暗闇を感じたまま、潜り込む。全身が温かな水に包まれる。音は何も聞こえない。
地面を蹴って、さらに前へ。浮かぶ。泳ぐ。もっと先へ。そのうちに、身体の重みも、形の意識も、泳いでいるという感覚も、なくなる。
溶けていく。
そう、これでいい。
これで、彼女と会える。
あたたかい、この海の中で、彼女と。
彼女は、どこだろう。
さっき泡になった、彼女。
溶けて、泡になった。
泡。
自分ももうすぐ、同じ存在になる。
同じ。
あぁ、そうか。
もう、どこにいるとかじゃない。
同じなんだ。
自分も彼女も、もうこの海の一部。
あたたかい。
ずっと。
あたたかい。
それだけの世界。
きっと。
きっと、それが悲しくて、生まれてきた。
この海を忘れないように。
生まれて、生きて。時折この海を感じながらも。生きて。
そしてまた、あの浅瀬に立って、思い出す。
きっとその、一瞬のため。
そのためだけのもの。
だから悲しくない今は、この海で。
あたたかい。
それだけの世界で、漂う。
悲しくなるまで。
また、彼女に会いたくなるまで。
********************
Inspired by ”サカナクション『ナイロンの糸』”
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?