見出し画像

【掌編】浅瀬

足元に水気を感じて目を向けると、浅瀬に立っていた。

視界の片方には淡い色彩の砂浜が、もう片方には黒々とした大海原が広がっている。

どうしてこんなところにいるのか、わからない。直前までの記憶がない。ただ自分が自分であるという朧げながらの実感と、今からこの海に向かって歩を進め、ずぶずぶと沈んでいくのだろう、という予感があった。

この海は、なんなのだろう。
潮の匂いは一切しない。温く、少しばかりの粘性を備えた水が、とろとろとくるぶし辺りをくすぐっている。

羊水。
母なる海。
命のスープ。

連想される単語は、どれも正解に思えるし、どれも的を得ていないようにも思える。

一体いつから、ここでこうしていたのか。身体が凍りついたように冷たい。反して水はあたたかく、引き寄せられるように、海原へと足が向く。
ぴちゃりという小気味いい音と共に、水面は足から脛へ、脛から膝へと移動する。より深い場所へ進むにつれ、皮膚が溶け出すような浮遊感を覚え始める。心地がいい。このままこの心地よさにすべてを委ね、全身を浸してしまいたくなる。

「駄目よ」

声がして、周囲を見渡す。までもなかった。驚いたことに、あと十歩かそこら進んだ先に、彼女がいた。
白っぽい出立ちで、胸元までを水に浸して立っている。よく見知ったそのシルエットに、思わず声が漏れる。

どこから、いつから、どうやって。不思議に思うも、そんなことはどうでもいい。

まさか、またこうして会えるとは。

乱暴に、粘性の高い水をかき分けるようにして、彼女へ近づく。水飛沫が四方に飛ぶ。一秒でも早く、彼女に触れたい。

「駄目だったら」

悲痛さの混じった声音に、足を止める。
すでに身体の半分ほどまで迫った水面が、反動で揺れた。

「こちらに来ると、もう会えなくなる」

何を言っているのか。まさに今から、会いにいくというのに。

しかし、そこでようやく彼女の異変に気づく。
いや、それは彼女ではない。彼女の輪郭を象っている何かしらだ。波飛沫の泡が集まってできているのか、その表面はぶくぶくと揺らぎ、不安定でぎこちない。
一度意識すると、その泡は風で散り、重力に垂れ、みるみるうちに歪な様相へと変化する。

倒れ込むように距離を詰め、腕を伸ばす。勢いに任せ、彼女に見えたそれを抱き寄せた。力が強すぎたのか、泡の塊は一層醜くひしゃげ、ぼとりと水面に落ちてしまった。

落ちた泡は、宇宙の始まりのように無秩序に、水中で広がり、溶けていく。

絶望を覚えるも束の間、ふと悟りにも似たひらめきが過ぎる。そのひらめきを確かめるように、彼女が溶けた一帯に触れる。ほんの少しだが、周囲と比べて温かに感じる。

そうか。
形がある方が、おかしいのだ。

もともとは自分も、彼女も、この海の一部だった。
自分たちだけでない。ありとあらゆるものが、もともとはこの海の一部で、それが不躾に切り離されてしまっていたのだ。

戻ろう。
このまま全身を浸して、この身体を海へと還そう。
そうすれば、ずっと彼女と共にいられる。

目を瞑り、暗闇を感じたまま、潜り込む。全身が温かな水に包まれる。音は何も聞こえない。
地面を蹴って、さらに前へ。浮かぶ。泳ぐ。もっと先へ。そのうちに、身体の重みも、形の意識も、泳いでいるという感覚も、なくなる。

溶けていく。

そう、これでいい。

これで、彼女と会える。

あたたかい、この海の中で、彼女と。

彼女は、どこだろう。

さっき泡になった、彼女。

溶けて、泡になった。

泡。

自分ももうすぐ、同じ存在になる。

同じ。

あぁ、そうか。

もう、どこにいるとかじゃない。

同じなんだ。

自分も彼女も、もうこの海の一部。

あたたかい。

ずっと。

あたたかい。

それだけの世界。

きっと。

きっと、それが悲しくて、生まれてきた。

この海を忘れないように。

生まれて、生きて。時折この海を感じながらも。生きて。

そしてまた、あの浅瀬に立って、思い出す。

きっとその、一瞬のため。

そのためだけのもの。

だから悲しくない今は、この海で。

あたたかい。

それだけの世界で、漂う。

悲しくなるまで。

また、彼女に会いたくなるまで。


********************

Inspired by ”サカナクション『ナイロンの糸』”


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?