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【掌編】嫉妬


桜庭君が格好良くなってきたのがゆるせない。

他のどのタイミングでもなく、私と別れた途端に格好良くなったので、なおのことゆるせない。大学デビューを絵に描いたようなべったりした茶髪に野暮ったいシルバーアクセ、女の子と喋る時も緊張して噛みたおしていたくせに、今や服もナチュラルカラーのこざっぱりしたものだし、顔立ちも精悍になって垢抜けたように見えるし、スタバでアルバイトとか始めちゃってるしで、もうゆるせない。
芋っぽいながらも素材の良さにいち早く気付いてやったのは誰だ、私だ。初キスもそれ以上も相手になったのは誰だ、私だ。
あなたがそうやって輝いているのは、私が磨きに磨いてやったからだということを忘れるな。文句を言いたい。罵りたい。頬っぺたにでかでかと©︎+私の名前を刻印してやりたい。
挙げ句の果てに、ミキちゃんを振ったなどと聞かされた日には、髪の毛に火でも点けてやろうかと思ったほどだ。
私が磨いたおかげで、誰から見てもイケメンに変貌した桜庭君なので、新しく入ったサークルの後輩ミキちゃんももちろんのこと「かっこいい吐く息すら尊い」ときゃーきゃーはしゃぎ、すぐにも彼にアプローチを始めたようだったが、その結果がひどい。飲みに誘って酔っ払った振りをして送ってもらうという古典的な作戦を決行したミキちゃんに対し、あの野郎指一本触れずにコンビニで買った胃腸薬とビタミン飲料だけ渡して帰りやがった。薬剤師かお前は。察せよ。いや、察した上でだと思うけれど、ミキちゃんに恥をかかすなよ。ただの酒乱ガールにさせるなよ。ミキちゃん、化粧とったらどうか知らないけれど、めちゃくちゃ可愛いじゃん。スタイルだって悪くないじゃん。そんな据え膳を前に、余裕なんか見せつけてんじゃないよ。誰に?私に、だよ。
そんないい男になったところを、今更になって見せてこないで欲しい。まるで私が彼のモテモテハッピーライフの踏み台になっただけの存在に思えて、とても惨めに感じると同時に、マグマのごとくふつふつと悔しさが込み上げてくる。
今の桜庭君になれたのは私のおかげなのに、どうして今の桜庭君と私は付き合えないのか。収支が釣り合わないだろう、どんなバランスシートやねん、これ。
もう本当心底納得いかないので、恥を忍んでここで一発桜庭君に電話でもかけてやろうかと思うのですが、いかがでしょうか皆さん。
A「異議なし」。B「異議なし」。C「止めはしないが、慎重に」。
賛成多数で、可決されました。
本日の議案は以上です。全体を通じてご意見やご質問のある方はいらっしゃいますでしょうか。
C「止めはしないが、慎重に」。
うるさいな、わかってるよ。
電話したところで、よりを戻せるなんて思っていないし、仮にそこで楽しくおしゃべりできたとして、得るものなんて何もない。別れた後も仲のいい元カノなんて真綿で首を絞めるポジションは御免蒙る。マジで。
では何のために電話するのかと問われれば、やっぱりそれはこの恨み辛みをぶつけてやりたいというのが本音ではあるものの、そこに何の活路もないこともまたわかっている。思いを吐露したその一時はスッキリするだろうが、後には虚しさが残るだけだ。そもそも桜庭君からしたら「はぁ、何言ってんの?」案件だろうから、別れた女が寂しさのあまりクレイジーになったとドン引きされること間違いなしである。私の自尊心はかえって傷つき、最悪もう立ち直れなくなるかもしれない。御免蒙る(その二)。
どうして私と別れたのかを聞いてみたい。
そうだ。
それが本案の立法趣旨なのであります。皆様。
別れ際に色々ともっともらしいことを語り合いはしたけれど、結局のところ私の何が悪かったのか、どこを直せば良かったのかを桜庭君は教えてくれなかった。「もっと自分を見つめ直すことに時間を使いたい」という桜庭君の言い分に最終的には応じる形にはなったけれど、どうしてその見つめ直す隣に私を置いてはくれなかったのか、不明のままである。
そこがはっきり明るみに出ない限りは、私は一歩も進めない。
そう、私は前に進みたいのだ。私こそ、こんな鬱々とした気持ちの渦からとっとと抜け出して、自分を見つめ直すことに時間を使いたい。いつまでも桜庭君に後ろ髪を引かれている場合ではないのだ。
桜庭君が離れていった理由が、私の納得のいくものであれば、それを直すことに注力すればいいし、納得いかないものであれば「なんだそんなことかくだらない」と桜庭君に幻滅することができる。そうやって踏ん切りをつけて、女を磨いて、私が磨き終わった今の桜庭君よりかっこいい超絶ハイスペックな誰かと恋に落ちて、私は私のハッピーライフを謳歌しなくちゃならないのだ。
今一度是非を問う。電話をかけるということでよろしいか。
A「異議なし」。B「異議なし」。C「いったれ!かましたれ!」。
そうと決まれば善は急げだ早速電話しよう、とスマホを充電して喉が乾いた時用にお茶を淹れて意味もないけど歯磨きまでして、私は発信ボタンに向き合った。付き合っているときはトータル何度押下したかと言うほどの、コミュニケーションアプリ内にある無料電話のアイコンだ。

タップする。
コール音が鳴る。
待つ。どきどきする。

『応答なし』。

諦めずタップ。
コール音が鳴る。
待つ。どきどきする。

『応答なし』。

あれ。
ちょっと待てこれ。まさかとは思うがこれ。

コメントを打つ。
『久しぶり。いきなり電話してごめんね。元気かな』。
しばらく待つ。
既読つかず。
一度席を立って、玉ねぎとじゃがいもと人参と豚コマを切ってお鍋で炒めて計量カップのお水とルーを入れ、コトコト煮込んでいる間にもう一度スマホをチェック。既読つかず。動画サイトで、さして興味はないけど「必修科目」と周りがうるさいから渋々観ている昔流行ったアニメを一話視聴。既読つかず。お鍋の火を止め冷凍庫にあるラップに包んだご飯を電子レンジで温めお皿に移してその上にとろとろになったルーをかけたら美味しいカレーライスの出来上がり。

既読つかず。

ふざけんな。
こいつふざけんな。ブロックしてやがるふざけんな。どれだけ決死の思いでコールしたと思ってんだマジでふざけんな。
カレーをスプーンですくって、ばくばく食べる。食べながら、アニメの続きをもう一話観る。全然泣けるシーンじゃないのに涙が溢れてそれが唇の隙間から浸透してきてカレーがますますしょっぱくなる。
本当にブロックされたか、その実確証はもてないけれど女の勘で私にはわかる。おそらく私のメッセージに既読がつくことはない。
金輪際。未来永劫。
なんだよそんなに私のことが嫌だったのか、邪魔だったのか、もう顔も見たくないレベルなのか。
桜庭君がいい男になる踏み台になってしまったと嘆いていたけど、踏み台ならまだいい方で、彼にとってはむしろそれを阻む足枷だったのだろうか、私は。
ちくしょう。ちくしょう。ずびずば咽び泣きながらカレーを食べる。
どうしよう。もうこれ詰みだわどうしよう。
このまま私はこのやり場のない想いをやり場のないままに抱え込んで時と共に風化するのを待ちながら惨めな気持ちを毎朝起きるたび思い出して過ごさなくてはならないのか。その辛さに耐えかねるあまり桜庭君の昔の彼女ということを逆にプライドに感じちゃったりして一層桜庭君の呪縛から逃れられず、仮に逃れられたとしてもその先も同じように自分の価値を他者に依存しちゃうようなつまらない女になっちゃうのだろうか。
詰みだ。どうしよう。いやどうしようもないからこそ詰みなんだけど、それでも考えてしまう。どうしよう。
A「どうしようもない。諦めよう」
B「どうしようもない。諦めよう」
C「どうしようもない。諦めよう」
D「でもよく考えれば、桜庭君に電話して桜庭君の言葉を聞くことで桜庭君への想いから解放されようとしている時点で、すでに桜庭君に依存してしまっているよね」
……。
そうだ。確かにそうだ。
D「さらに言えば、恋愛なんて、依存とまでは言わないまでも、心の拠りどころを追い求めてするものじゃないかしら。そこに嫌悪を感じてしまっている時点で、すでにあなたは桜庭君から精神的に自立している状態と評価できるのでは」
むぐぅ。難しくなってきたぞ。結局どういうことだ。
D「結局のところ、あなたはもう一度桜庭君と話したかっただけ。頭では意味がない行為とわかっていても、桜庭君とコンタクトをとることで、かつての幸せの残滓に触れてみたかった。何に繋がるわけでもない、行き止まりの選択肢と知りながら、あえてそれを選んでしまったの。どうしてか。答えは単純、寂しかったからよ。まさにあなたの言った通り、寂しさのあまりクレイジーになっちゃってたのよ」
おおぅ、そうか。
つまるところ、私は寂しかったのか。
そう自覚すると、なんだかこの報われない気持ちが、ほんの少し成仏してくれたような気がしてくる。ほんの少し成仏するってどういう状態か今いちよくわからないけれど、ニュアンス的にはそんな感じだ。
血塗れになり、化膿して腫れ上がったりしていたけれど、元々は単純な「寂しさ」という傷が痛みの原因だった。
きちんとした診断書がもらえると、不思議と心が落ち着いてくるものだ。
一度キッチンに立ち、常温のミネラルウォーターをグラスに移して、テーブルに戻る。再びカレーを食べ始めると、ヴヴヴ、と音がして、それは私のスマホの着信なのだけれど、私はそれが桜庭君からのものであることを期待しない。嘘。期待している自分を自覚しつつもそれを宥めてあげられる。どんなもんだい。この数分間で目を見張る成長を遂げた自分に満足を覚えながら、スマホを取り上げ着信を確認する。後輩のサユリちゃんからで、これまたミキちゃんと同じく私と桜庭君がいたサークルの女の子だ。確かに連絡先は交換しているけれど、こうして直に連絡が来るのは初めてである。
メッセージを開く。

『突然すみません。猪俣です。ちょっと角田さんに聞きたいことがあって、連絡しちゃいました』

メッセージが続く。

『実は先日、同じサークルの桜庭さんに告白して、ふられてしまいました。理由をなかなか教えてくれなかったので問い詰めたら、前に好きだった人が忘れられない、と言われました』

『角田さんって、以前、桜庭さんと付き合ってたんですよね。一体どんな別れ方したんですか。ていうかもしかして今も会ってたりします?「その人に見合うような自分になりたい」とかそういう感じのことを、すごい未練たらたらに言われて、いや今私が告ってるんだけどみたいな。正直ちょっとムカついちゃいました』

『すみません。八つ当たりしてるのはわかってるんですけれど、もし桜庭さんとちゃんと切れていないなら、その辺はっきりして欲しいな、って思います。きっと桜庭さんに対しても良くないだろうし』

……おおっふ。
ちょっと待て。

『実際のところ、どうなんですか』

いやいやいやいやこっちが聞きたいよどういうこと。せっかく持ち直したというのにこんなタイミングでそんな新事実を持ってくるんじゃないよ話が変わってくるでしょうが。
え。え。ちょっと待って。
別れ話を、この部屋で別れ際にした小一時間ほどの会話を、記憶から引っ張り出す。鮮明には思い出せない。それでも桜庭君の話は割としっかり再生できて、それを必死にたどる。
言ってない。そんなことは言ってない。自分自身を見つめ直したいとかそういうことしか彼は言っていない。その真意を補足するような説明は何一つ言っていない。
言っていないぞ、桜庭よ。
なんだよあいつ。ちゃんと学校で国語習ったのかよ。言語による情報伝達は、日本国民が初等教育から叩き込まれてきた初歩中の初歩でしょうが。
使えよ、言葉を。言えよ、真意を。
いや、違う。
確かに、言っていない。でも、サユリちゃんには言った。
私じゃない誰かにだから、言えた。
そう。
そういうことだ。わかっている。
私たちは付き合っていたのだ。話したくても話せない状況を作ってしまったのは、私の方かもしれないのだ。話せないその真意を汲み取れなかった分、私にも非があるのかもしれないのだ。
セレクトショップで服を選ぶ。小洒落たカフェに連れ回す。ミニシアターの映画に付き合わせる。それが通過儀礼だと言わんばかりに。
ものの見方や趣味嗜好も、どんどん私色に染まっていく自分に、不安を覚えていたのかもしれない。他人の思うように変わっていく自分を、不憫に感じていたのかもしれない。
自分の意志で自分を変えて、いつか私の横にいられるように。
そんなことを思ってくれたのかもしれない。
お皿のカレーはすっかり冷めてしまって、もう食べる気もなくなっている。そう言えば、彼が唯一作ってくれた手料理も、同じくカレーだったな、と思い出す。自分の実家ではマヨネーズを入れると言っていたけど、私は試してみようともしなかった。
この先桜庭君がどんな桜庭君になろうとも、もう私とカレーを食べることはない。私がマヨネーズを入れて、どんな反応をするかを彼に見せてあげられることはない。
そう思うと、ようやく晴れた心が、再び黒い渦に沈み込んでいくように感じた。

ゆるせない。

桜庭君と一緒にいた、かつての私に、私は嫉妬している。

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