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【掌編】エチュードは鏡の前で


「お仕事は何系ですか」

お決まりの質問が来て、私は瞬時に思考を巡らせた。

質問の主の年代は、見たところ三十代前半。長身の男性で、美容師らしく小洒落た衣装をまとっている。シャンプーの時の会話も軽妙で、アップテンポなノリで絡んでくるタイプだ。

「出版社に勤めています」

私は答えた。
カットクロスを付けられ、てるてる坊主に似た格好のまま、鏡越しに美容師を見る。

角田と名乗ったその美容師は、指先で私の髪をつまみ上げながら、「出版社っすか」と呟き、しばし黙った。これからのカットのイメージを思い描いているのだろう。真顔で鏡をしばし見つめ、ひとつ頷いて、腰からハサミを抜き出す。

「すごいですね。雑誌の編集者さんとかですか」
「まぁ、そんなところです」
「もしかして、週刊少年ジャンプ?」
「いやいや、そんなメジャーな雑誌じゃないです」
「そうすかぁ」

ラリーを続けながらも、ハサミを動かす手は止めない。刃が擦れる音が軽快にリズムを刻む。

「ざっくり、何系の雑誌っすか」
予想通りの質問が来た。
「まぁ、いわゆる情報誌ですね」
「へぇ。うちにも置いてあったりしますかね」
「職業柄、ざっと見させてもらいましたけれど、残念ながらなかったなぁ」
「あ、さーせん」
「いやいや。もうちょっと上の年代の方向けですから」
「上の年代って言うと……」
「リタイア前の、おじさま世代がメインターゲットです」
「あぁ、じゃあちょっと無いかもなぁ」

ハサミが前髪に回ってくる。自然、私は目を閉じて会話を続けた。

「普段、雑誌とか読まれます?」
「いやぁ、実は全然っす。それこそジャンプぐらいで」
「そうですかぁ」
「なんか自分、雑多な情報に触れるのが苦手で。ネットとかも、知りたいと思ったものを調べて、それで終わりってタイプですし」
「じゃあ、ネットサーフィンとかしないですか」
「しないっすねぇ」

前髪が終わり、角田美容師は一度ハサミを仕舞って、櫛を取った。襟足を揃えて、またハサミを取り出し、刃を縦に入れる。

「どういう雑誌だったら、読みたいと思いますか」
「えぇ?急になんすか」
「いや、角田さんみたいな方にも読んでもらえるものって、どんなのだろう、って」
「うーん。どうだろう。とにかく、無駄な情報はいらないっすね」
「無駄な情報」
「広告とか」
「あぁ。それは痛いところですねぇ」

私は顔を顰めてみせた。それを見て角田美容師は、一度手を止める。

「痛いんすか」
「痛いですよ」
「やっぱ広告ってなきゃいけない?」
「なんだかんだ、そこが収入源だったりしますんで……」
「へぇ」
「そもそも、特にうちみたいな情報系の雑誌自体、広告のためにあったりしますし」
「あぁ、それわかります。うん、そう、それだな。どこそこに美味しい店がありますとか、流行のファッションはこれですとか、そういうのをすげえ押し付けられてる感じがあるんですよね。いや、知らんがな、って思っちゃうみたいな」
「なるほどなるほど」

「角田さん、すみません」

鏡の中に、唐突に新しい影が侵入してきた。若手のスタッフなのか、店の雰囲気に合わない坊主頭で、猫背でヘコヘコ近づいてくる。角田美容師に何やら耳打ちし、指示を仰ぎ始めた。

「すみません。ちょっと失礼します」

おもむろに角田美容師が立ち上がり、別の客の元へと向かっていく。残ったのは冴えない顔でそれを見送る坊主頭のスタッフだ。
せっかく興が乗ってきたところ、水を差された気分だ。私は鏡の中で、その坊主頭を軽く睨んでやった。すると視線を感じたのか、坊主頭の両目がこちらを見る。一瞥をくれる、といった程度ではなく、むしろまじまじと見つめ返してくるような圧があり、やや不気味さを感じた。

「何か」
「あ、いえ」視線を外し、「少々お待ちください」と営業スマイルを残して去って行った。

すぐさま別のスタッフが、「よろしければ」と雑誌を数冊、扇状にして差し出してくる。「あ、いえ。結構です」と断り、鏡の中の自分を見た。角田美容師と同じく、自分も当てもない情報収集に興じるような時間の使い方は好きではなかった。

「お待たせしました」

角田美容師が戻ってきて、カットの続きを再開する。話題は切り替わり、昨今社会を賑わせているニュースについて、いくつか私見を交わす運びになった。編集者らしい視点を心がけるも、さしてそれを発揮するような場面もなく、いささか不完全燃焼な気分になる。

やはり先程の流れのまま、雑誌論を展開させ、熱い思いを語ってみたかった。編集者たる自分に没頭し、これから求められる雑誌とは何か、移り行く社会情勢の中で出版の占める役割とは、なんて話に花を咲かせて見せたかった。

結局、最後は花粉症対策の話題となり、角田美容師との時間は終了した。二度目の洗髪とドライヤー、その後の微調整を経てワックスを付けられ、手持ちの鏡で見せられた後頭部の出来栄えに「大丈夫です」の一言を告げると、角田美容師は私の座る椅子を半回転させた。

「お疲れさまです」

導かれ、会計へと向かう。

カットの出来はなかなかだった。
あまり短めが似合わない私でも、これからの季節暑くなりすぎないよう、空きバサミで適度な毛量に調整してくれている。それでいて毛先にはボリュームを残し、全体として落ち着きやすい仕上がりになっていた。
ノリのいいトークを交わしつつも、角田美容師の目線はずっと私の髪を向いていた。意識がこちらに向いたのはほんの数回で、その他はこの髪型を作り上げることに心血を注いでくれているように見えた。

プロなんだな、と思う。
それも、自分の仕事に誇りを持っているタイプの。

「このアプリ入れていただくと、ポイントが貯まるんで」

会計時に案内を受けたアプリを、QRコードの読み込みだけ済ませ、「後で登録しておきます」とスマートフォンを仕舞う。同じ胸ポケットに、角田美容師から差し出された名刺も入れた。

「また是非、よろしくお願いいたします」

頭を下げる角田美容師に、会釈を返す。
残念ながら、もうこの美容室には二度と来ない。最初からそう決めてきている。

角田美容師に見送られ、店を出た。切り立ての髪の隙間に風を感じながら、通りを進む。すると程なくして、慌ただしい靴音が背後から迫ってきた。

振り返ると、あの坊主頭のスタッフがいた。
忘れものでもしただろうかと思ったが、特に思い当たる節はない。
坊主頭のスタッフは、少し息を弾ませながら、「あの」と私を見て、言った。

「役者、辞めてしまわれたんですか」

どきり、と心臓が跳ねる。思わず「え?」と声が漏れた。
こちらのリアクションに驚いたのか、「あ、すいません」と坊主頭はトーンを落とした。

「自分、以前N区のお店でスタッフをしていて。その時、お客さまから、役者をされているとお話伺った記憶があって」

なんと。

「そうでしたか……」

N区と言えば、上京したての頃、住んでいた土地だ。ならば以前、通っていた美容室のスタッフだった、ということか。
確かにあの頃は、正直に身分を明かしていた。しかし、もう二年以上前のことになる。よく覚えていたものだ、と感心した。

「いえ、辞めていません」
「あ、でも、出版社って……」
「すみません。あれ、嘘なんです」
「嘘?」

まさかこんなきっかけで年貢を納めることになるとは。

「役者の訓練として、行く先々の美容室で、自分のとは異なる職業を偽るようにしているんです。髪を切ってもらっている一時間ぐらいの間、初対面の美容師さんの前で、違う人格を演じ続ける。今日は出版社勤務のサラリーマンでしたけれど、漫画家やタクシードライバー、大胆な時には、こちらも美容師を名乗ることもあります」

ご気分を害されたなら、すみません。私は頭を下げた。
坊主頭は「あ、いえ」と口ごもる。言葉が見つからないのか、呆気に取られた顔をしている。

「でも、それも今日で終わりにします。一度でも、演技をしていると見破られたなら、足を洗おうと思っていました」
「あ、でも自分は、もともとお客様を知っていたから……」
「もともと知っている人にも、見破られないようにするのがプロの仕事です」
「そんな……」
「僕はやっぱり、プロじゃなかった」

坊主頭は顔を歪め、意を決したように私に詰め寄った。

「あの、役者、辞めないでくださいね」
「え?」

真剣な顔で、坊主頭は続ける。

「自分、前のお店で、お客様の役者に対する意識っていうのか、そういうのお話されているの見て、すごい感化されたっていうか。当時は入ったばかりで、今も全然ハサミを握らせてもらえないんですけれど、たまにお客さまの話を思い出すことがあって」

正直、何を話していたかは覚えていない。ただ、あの頃は夢と熱意に溢れていた。身の丈に合わぬ、大言壮語を吐いたに違いない。
しかし、それが響いている者が、ここにいた。

「あの、自分もがんばるんで、どうか、辞めないで」

お願いします、と、短く刈り込まれた頭頂部が、私に向けられる。

正直、唐突に向けられた熱量に戸惑いを覚えたが、しかし、悪い気はしなかった。
いや、むしろ長らく燻っていた胸の奥のものを、久方ぶりに煽られたような。

「辞めませんよ」

自ずと、笑みが溢れた。

「覚えていてくださって、ありがとうございました」

坊主頭に背を向けて、私は歩き出した。
しがない役者の端くれの客を、しっかりと記憶に残していた彼に敬意を抱きながら。

プロですね。

心の中で、呟く。

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