【短編】ビタースウィート、或いは紅蓮。⑥
梅の花。
春の訪れを思わせる薄紅色のその花弁は、裏腹にも、寒空の下に咲き始める。陽射し麗かな出会いの四月、冬の色を纏い現れたショーちゃんと、そういう意味では対をなすモチーフであるのかもしれない。
しかし今、私はそのショーちゃんに、梅の花を感じる思いでいる。
「来てくれてありがとう」
雪原を思わせる白い肌を、ほのかに上気させ。そこに灯る淡いピンクは、まさに彼の花が冬に咲く様。
春の香りを両頬に湛えたまま、照れ臭そうにショーちゃんは私に告げる。
「もう駄目だと思った。あなたがいなければ、どうなっていたことか」
水くさいこと言わないでよ。私たち、友達じゃない。
私はショーちゃんを抱きしめ、よしよしと頭を撫でる。氷が溶けるようにショーちゃんの身体から強張りが消え、私の肩に額をつけて泣き始める。
「ありがとう。そうね。私たちは一蓮托生、あなたは一生の友達よ」
ショーちゃんの腕が私の背に回る。顔を見合わせ、微笑みが交差。すると、ショーちゃんの目からまた涙が。泣き虫さん。私はハンカチを出し、赤みを帯びた頬に当て、それを拭う。
長い冬が去り、雪解けの季節。
もうすぐ春がやってくる。
……。
…………。
はい、カット。
言わずもがなと言うべきか、ご賢察の通りと言うべきか。これらすべて、私の妄想である。梅の花など一片足りとも咲いていない。
深夜の元銀行、現廃ビル。満身創痍で苦難を乗り越え、難敵《物乞い》を祓った私たち。勝利を讃え、絆を確かめ合ってもよさそうであるところ、しかし、ショーちゃんの頬に灯ったのは、花開いた梅の薄紅ではなく、狼狽による蒼白だった。
「……え、嘘でしょう。祓えた?」
よく考えたら『狼狽』って『蝋梅』とかかってんじゃん天才か、などと関係ないことを考えかけていた私だが、明らかにただ事ではない雰囲気のショーちゃんに、慌てて意識を引き戻す。
「……祓えてしまいましたね」
ミノもまた、青白い顔で加わる。「え、何どうしたの?」私は訊ねるが、構う余裕はないらしい。どちらも見向きもしてくれない。
「一応お聞きしますが、申請は出していらっしゃいますか」
「出すわけないじゃない、相手は『アタワズ』よ」
「ですよね」
「どうしよう。『アタワズ』を祓った損失なんか、兄様レベルじゃないと補填できない……」
「その割には前のめりで祓っていらっしゃいましたが」
「ミノだってあいつの身体を押さえてくれていたじゃない」
「いや、しかしまさか祓えるとは」
「私だってそうよ」
……うーん、と。
事情はよくわからないが、話ぶりから察するに、どうやらその場のノリで祓ってはいけない類の霊だったらしい。
いや、言うといてくれんと。
「もう駄目、限界」。突然電池が切れたようにショーちゃんが膝を折り、問答は一度打ち切りとなった。ミノが慌てて駆け寄り、ショーちゃんを支える。床に座り、いわゆる膝枕の態勢に。そのままスマートフォンでタクシーを呼ぶ。救急車でなくてよいのか訊ねたが、家に専門の医師を呼んでいるそうだ。なんだろう、専門の医師って。
「来た時のタクシーを入り口付近で待機させています。料金はかかりません。あなたはそちらで先にお帰りください」
ミノが言う。いやそちらが先に、とショーちゃんを見ながら固辞するが、「後始末の部隊が来ます。引き継ぎが必要なので、残らねばなりません」とのこと。有無を言わさぬ口調に、渋々ながら暗い廊下を戻り、出口へ。本当にタクシーが待っていたので、乗り込む。
事務的だ。エモーショナルの欠片もない。
友達が無事見つかった。友達の家族にタクシーを呼んでもらい、それに乗って帰っている。その旨、メッセージを家族に送る。わかりました。気をつけて。お母さんから端的な返信。帰ったらこっぴどく叱られるのだろうな、と憂鬱になる。
日常。
驚くほど現実的で、呆れるほど世俗的な。
つい先刻、命を差し出すまでの立ち回りをしていたことが、嘘のようだ。しかし、それもそうか。今回、私は答えを手にしたわけでも、光明を見出したわけでもない。ただ『止める』という選択を採らず、『続ける』と胸に決めただけ。何か劇的な局面を乗り越えたかに見えて、元の場所に戻ってきただけのこと。
だから、これでよい。私はここで今一度、私をやっていくことを望んだ。それがどんな形でなされるにせよ、ここが私のいるべき世界だ。
私のまま、生きることを続ける。
こうして親に謝ることも、そのために必要なこと。ここから続きを紡ぐ上で、避けては通れぬイニシエーション。その連続で、成り立つ道のり。
次は何だ。
いや、考えるまでもないか。
私は後部座席のシートに背中を預け、熱を帯び始めた身体をしばし休めた。
*
翌日。
午前に隣のクラスを覗いてみたところ、ショーちゃんは出席していないようだった。心配になり、まずはミノに連絡をとる。メッセージを送ると、『療養中。大事ない』との返信。詳細は不明だが、無事ならまぁいい。無理に立ち入ることはせず、本人への連絡も避けた。
反対側のクラスを訪ねる。安藤もいない。半ば予想していたことではあったが、職員室へ行き、担任の山口に事情を確認する。骨が動かせる状態に至るまで、一週間ほど入院する運びとなった、とのこと。見舞いに行きたい旨を告げると、途端に山口は渋い顔をした。そのまま昨夕の説教の続きが始まるかと思いきや、諦めたような様子で、「自分も同行する」と条件を付した。
放課後、山口の車に乗り、近くの総合病院まで移動した。入院病棟に赴き、山口が受付で話をしている間、ロビーで待つ。山口が戻ってきて、一緒に病室まで移動した。
扉越しに聞こえるくぐもった会話。消毒液の匂い。薄暗いリノリウムの廊下。壁沿いの低い手摺り。全国共通、私にとっては見慣れた『病院』の景色だが、患者ではなく見舞う側として訪れるのは、これが初めてであった。
「あなたたちのこと、学校から聞いたわ」
病室の前で立ち止まり、山口が私を見る。
「あなた、”たち”?」
「えぇ」
おそらくショーちゃんの家の事情について話しているのだろう。が、そこに私まで含めた物言いは、引っかかる。
それとも、私はもう『言主』として、”そちら側”に括られる位置にいるということだろうか。
学校がそれを認知しているということは、ショーちゃんの家がそれを学校に告げた、ということだ。何をどう伝えているのか知らないが、自分の親にすら打ち明けていない事情を、勝手に教員へ共有されるのはいただけない。
「霊がどうとか、私にはわからない世界よ。正直、気味が悪い」
嫌悪とも怯えとも取れるしかめ面を見せ、山口は吐き捨てる。
「安藤さんに変なことはしないでね」
言いたいだけ言って、こちらを見向きもせず、病室のドアを開けて中に入る。四人部屋のうち左手、窓際のカーテンが閉まった一角。待っていて。私に顔を寄せて告げ、「安藤さん」と呼びかけた。返答を確認し、山口のみが中へ。カーテンの向こうで一言二言交わし、「どうぞ」と私を招き入れる。
安藤は足を吊るされ、固定された格好でベッドに座っていた。半身を起こし、こちらを見ている。表情からは、昨日と同じ恐怖に加え、明らかな疲労が窺えた。
途端、何を話せば良いかわからなくなった。謝罪のためにここまで来たことは確かであったが、それ以外、いや、それ以前の用件があるような気がしてきた。昨日はひどいことを言ってごめんなさい。足の具合はどう。想定していた切り出しは声にはならず、違う言葉を探して、舌が彷徨う。
「お姉さんのこと、訊いていい?」
逡巡の結果、口を出たのはそれだった。その問いの必要性、必然性を後追いで私は自覚した。
無言の安藤の目を見て、私は続けた。
「お姉さんがどんな人だったか、あなたにとってどんな存在だったか」
私があなたの何を傷つけ、壊してしまったのか。
「教えて」
しばらくの間、病室を無音が支配した。安藤は口を開かず、じっと虚空を見つめている。無理はしなくていい、と山口が告げたが、それにも反応を示さない。こちらもただ黙って待っていると、やがて、ぽつりぽつりと安藤の口から言葉が漏れ始めた。
話の組み立てなど皆無で、要領を得ない内容だった。些細なエピソードとそれに関する感情の記憶。そうした断片をまばらに散りばめたような語りが、取り留めもなく、長々と。
だが、伝わる。
安藤が姉の妹であったこと、今もあること、この先もあり続けたいと願っていること。
しかし姉はもういないこと、今も受け入れられないこと、受け入れてひとり進んでいかなければならないこと。
それが怖くて、仕方がないこと。
「……無理だよ、私には」
昨夕と同じ台詞で、安藤は語りを終えた。あの瞬間、私を向いた赤い目がフラッシュバックする。激情を携えていた瞳。反して、目の前の安藤には生気がなく、途方に暮れた様子が見てとれた。
同じだ、と思った。
一度体感した死への恐怖に取り憑かれ、そこから逃れようと必死にもがいていた私と。
その必死さ故に、傷つき疲れ、もう終わりにするしかない、と諦めかけていた私と。
同じだ。でも、違う。
私も、無理だと思う。それでも続けてみようと思う。
私にもできることがあったから。救えた人がいたから。そんな一時の充足で、まだやれると感じる私がいるから。
だから、あなたも。
そんなことを言いたくなった。でも、言うべきは今じゃない、と思った。
「話してくれてありがとう。突然来てごめんなさい」
今はそれしか言えない。今の私ではまだ、いつ何時、目の前の安藤と同じように折れてしまうかわからない。それが明日とも限らぬ以上、不用意に手を差し伸べるわけには。下手をすれば、共倒れになってしまう。
共倒れ。
私の中で、それを許容できる距離に、この子はいない。
その位置にいるのは、一人だけ。
不用意な言葉に、祈りを込めて。伝えたい相手は、ただ一人。
「お大事に。また会いましょう」
言い残し、私は病室を後にした。去り際、変わらず私を気味悪がるように見つめる山口に、深々と頭を下げた。
*
帰り道は、ひとり電車で帰った。とりあえず改札をくぐり、スマートフォンで乗換検索をかけていると、お母さんからメッセージが来た。あなたの同級生という子が、家に訪ねてきている。待っていてもらっているから、早く帰ってきなさい。そしてその子の名と共に、次の二文字が添えられていた。
『眼福』
この親にしてこの子ありだな。
昨夜しこたま怒られた記憶と相まり、思わず笑みが溢れる。
すぐに帰る、と返事を打ち、乗換検索に戻って到着時刻を確認。家に着くまで四十分はかかりそうだったので、その旨も送った。
家に同年代の子が来るなど、何年ぶりだろう。昔は多少あったものの、闘病時期を境に私の交友関係は断絶、全くのゼロとなった。口に出してはこないが、このことについて、お母さんも気にかけていたように思う。久しぶりの来訪者に、胸が躍っているのではないか。
そんな予想を胸に家に帰り着くと、案の定、鼻息を荒くしたお母さんが玄関で出迎えてくれた。
昨夜、探しに行ったのはあの子か。
わざわざお詫びに来てくれた。
礼儀正しく、とてもいい子だ。
そのすべてに対し、首を縦に振り相槌を打つ。
しかし続く言葉を聞いた瞬間、全身が固まって動けなくなった。
あと、祓い師なんでしょう。
止まった呼吸を再開することもなく、私は靴を脱いで廊下を走る。そして突き当たり、リビングのドアを開けた。
入って左手、ソファに座るショーちゃんがこちらを見る。学校には来ていなかった癖に、きちんと制服を着用している。低い座面に姿勢よく腰を下ろしたまま、無表情で小さく手を上げてきた。
「……話したの?」
私は訊ねる。
「話した」
真顔のまま、こちらを見つめるショーちゃん。そこに浮かんだ覚悟を見てとり、じわりと胸に熱いものが広がる。
別に明確な取り決めがあったわけではない。ただ、何となく暗黙の了解として、察すべき不文律として、私たちはそれを互いに守り合ってきた。
祓いの世界を実生活に持ち込まない。
それとこれは一緒にしない。混ぜない。
「いや、話した、じゃないな。話せた」ショーちゃんは言う。「腹を決めたわ」
苦い顔をして、ショーちゃんが笑う。
胸のマグマはなお滾る。それに煽られるように、鼻の奥がつん、と痛んだ。
そうなのだ。
ショーちゃんは祓い師であり、女子高生。私も祓い師であり、女子高生。今まで、あちらの世界ではこちらを、こちらの世界ではあちらを、まるで無かったことにし続けてきた。いずれの時においても、どちらか一方の自分を犠牲にしてきた。
しかし、どちらの自分でも生きていくなら。どちらの自分も生かすなら。
ひとつの同じ世界に、双方を許容させなくてはならない。
女子高生で、両親に保護され生きていて、そして一度は死にかけていて。そんな私が『言主』ならば。
祓い師としてのショーちゃんが、私と関わっていく上で、これは避けて通れない儀式なのだ。
そしてまた、私にとっても。
「あなたのことはまだ話していない」
立ち上がり、ショーちゃんが言う。
「話してもいい?」
ほんの少しの逡巡を経て、私は頷く。ほんの少し逡巡したことを恥じて、後悔する。この後悔も引き連れて進むことを、誓う。
「うん、話そう。一緒に話して」
廊下を進み、こちらへ近づいてくるお母さんの足音が聞こえる。
昨日と同じ。これで何かが劇的に変わるわけではない。
私が私であることを、誇り、戒め、落ち込み、立ち直り。季節が巡っていくように、ただただその繰り返し。
きっとそれが、私が選んだ道。生きていくということ。
次がいつかは知らないが、あの甘く生温い走馬灯を見る日まで。
それまでは苦く、そして苛烈なまでに熱い今に、この身を晒す。晒し続ける。
いや。ただ苦いというわけじゃあ、ないか。
「これで一連托生ね」
ショーちゃんが私の隣に立ち、小さく告げる。そして、こそばゆいのを堪えるように、口の端を歪めた。
「ありがとう」
真白い頬に、灯る薄紅。
ほのかに甘い香りを感じながら、私たちは次の季節に進む。
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