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【掌編】『わたしの行きたい世界』

緑の絵の具が切れかかっている。

正確には緑ではなくビリジアンだが、とにかく残り少ない。チューブはすでにぺちゃんこで、隣に並ぶカーマインやセルリアンブルーのつやっと太った様と比べると、干からびた魚のごとく貧相に見える。

どうしてこの色ばかり消耗するかと言うと、森を描いているからだ。

中学二年の夏休み。出された水彩画の課題は、『わたしが行きたい世界』。
そのテーマを受け思い浮かんだのは、草木が鬱蒼と生い茂る、深い森だった。
人工物はおろか、月の灯りすら入る隙もない、自然の要塞。そんな情景を、紙の上に描き起こそうとしていた。

微かに差し込む陽光に炙られ、幾重にも層をなす緑の影。それを具現化しようというのだから、この色だけが嵩を減らしていくのも、必然というものだ。画用紙の上では、いまだ四分の一近くが下絵のまま、筆が下ろされるのを待っている。残りの容量では、明らかにカバーできそうにない。

さて、どうしようか。時計を見ると、近くの文具屋はまだ開いている時刻だ。だが、今は盆休み中ではなかったか。昨日前を通った際、貼り紙を目にした覚えがある。
弱った。
一度作業を止め、店が再開する日を待つこともできるが、それまで未完の絵を放置しておくのも気持ちが悪い。元来、嫌々のところ、なんとかやる気を振り絞って取り組んでいるのだ。一度手を離してしまったら、再度モチベーションを高めるのに、またエネルギーを費やしてしまう。

できることなら、今日中に片づけてしまいたい。

「仕方ない」
自分に言い聞かせるよう、わざと声に出し呟いて、部屋を出た。冷房が効いていない廊下には、むわりとした熱気が漂っている。それに顔を顰めながらも、斜め向かいにある部屋のドアを見た。

ノックをしようとしたところで、不意に笑い声が聞こえた。家の外からだ。
廊下の先、明け放した小窓から届くそれは、おそらく同年代の男子たちだろう。自転車の車輪が回る音と共に、遠慮のないはしゃぎ声が家の前を通過していく。夕下がりの住宅街に響くそれは、無秩序に跳ね回るスーパーボールを想起させた。

浮かれやがって。

ああいう連中は、一体いつ夏休みの課題をやっているのだろうか。きっと最終日にやっつけで適当なものをこさえるか、手をつけぬままに新学期を迎え「まだやっていません」と厚顔な態度を見せるかのどちらかだ。
やるべきことをやらず、それでいて我が物顔で振る舞うのだからたちが悪い。クラス内にいる同種の面々が思い出され、憂鬱だった気持ちが、余計に陰った。

気を取り直し、ノックをした。「はい」と内側から声がして、ドアを開ける。

開けた扉の真正面に、姉はいた。腰掛けた椅子を半回転させ、こちらを向いている。何か動画でも見ていたのか、外したヘッドフォンを首にかけており、コードは正面のデスクトップ型パソコンにつながっていた。

「何」
「あぁ、えっと……急に、ごめん」
「要件は」

にべもない態度。これだから、気が進まないのだ。
昔から姉には「愛想」というものが微塵もない。いつも直球、ストレート勝負だ。本人に悪気はないのだろうが、どうにもとっつきにくい。対峙すると緊張が走り、自然、伏し目がちに応対することになる。

「お、お願いがあって」
「お願い?」
「絵の具、貸してくれないかな、と思って」
「絵の具」
「そう」
「色は」
「緑。ビリジアン」

臆しながらも、一問一答のラリーを紡げているのは、一つ屋根の下で鍛えられた成果か。次に来る質問もなんとなく予想ができた。

「理由は」
「美術の課題で、絵を描いていて、その色が切れてしまって」
「何の絵?」
「え?」

目線が上がる。まともに目が合ってしまい、反射的に顔を背ける。

「何の絵を描いているの」
「えっと」この問いは予想外だ。「……森」
「森を描く課題なの」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「じゃあどういう課題」
「いや、その、テーマがあって」
「どんなテーマ」
「その……」

何故だか躊躇われたが、仕方がなく答えた。

「『わたしが行きたい世界』」

回答を受け、姉は黙った。何を考えているのか、思案顔で宙を見つめている。続く言葉を待ちながら、その様子をしばし眺めた。

姉は県下の私学に通う女子高生だ。と言っても、乙女らしいイメージとは無縁で、制服のセーラーよりも、今着ているようなキャミソールにホットパンツがしっくりとくる。美人な方だとは思うが、隙が無さ過ぎて、男にもてるとは思えない。そもそもこの性分だ。恋人どころか友達だっているか、あやしい。
まぁ、友達云々については、自分も言えた立場ではないのだけれど。

「行きたいの」
「へ?」急に会話が再開した。慌てて記憶をリロードする。「えっと、行きたい?」
「『わたしの行きたい世界』」
「あぁ、森に、行きたいのかってこと?」
「そう」
「いや、別に……」
「別に?」顔をしかめる姉。「じゃあ、なんでそんなの描いているの」
「なんで、って……」
「課題。『わたしの行きたい世界』でしょう」

答えに詰まる。

「その、なんとなく、それが浮かんだからで、特に思い入れがあるわけじゃ……」
「森に行って、何をするの」
何を、って。
だから、そういう明確なビジョンがあるわけじゃないのだけれど。
「特に、何もしないよ」
「何もしないの」
「うん」

姉は首をひねる。

「それはさ、何もしない、をしたいの。それとも、何もしたくないの。どっち?」
「……はい?」

何もしない、と、何もしたくない?

姉は無言でこちらを見つめ、答えを待っている。冷房の音が聞こえるほどの静けさ。沈黙が更なる緊張を煽ってくる。
「……ごめん、よくわからないよ」
「そう」
さして興味もなかったのか、それ以上の追及はなかった。姉は椅子を回転させ、パソコンへ向き直る。
拍子抜けしたのも束の間、

「まぁ、絵の具はないんだけれどね」

姉が言う。「うちの高校、美術系は選択制。私は音楽だから」

なんてことだ。じゃあ、今までのやりとり、全部無駄じゃないか。

「でも、中学時代使っていたものとか、あるんじゃないの」
向かって右のクローゼットを見る。あの中を漁れば出てくるのではないか。
「まぁ、確かに、あるかもしれない」
「じゃあ……」
「面倒くさい」
いやいやいや。
「頼むよ。今日中に仕上げたいんだ」
ここはさすがに引き下がれない。何なら自分があのクローゼットを捜索しても構わない、とも言った。

しかし、

「特に行きたくもない場所の絵を描くために、特に貸したくもない画材を貸す義理はない」

こちらを見もせずそう言って、姉は首にかけたヘッドフォンを装着した。

仕方がなく、再び熱気の漂う廊下を渡り、自室へ戻る。アクリル絵の具の鼻をつく匂いと、余白を残した塗りかけの画用紙。その正面にある椅子を引き、勢いよく腰を下ろした。

「はぁ……」

疲れた。
絵の具を借りるというミッションを達成できず、苦手な姉との交渉も無駄骨に終わってしまった。
いや、それだけではない。
姉から食らった言葉が、いまだ脳内で反響している。

目の前にある、描きかけの絵を見る。
不完全な緑の世界。

姉が示唆した通り、何か積極的な理由があって、この森を題材に選んだわけではない。これもまた姉の言葉を借りるなら、「何もしない」をしたいのではなく、「何もしたくない」が正解だ。

笑い合える友達もおらず、情熱を向ける対象もなく、そんな張り合いのない生活を送りつつも、それを変えようともしない自分。

勝つことも、戦うこともない世界に行けば、こんな自分を是とできるのではないか。
この絵は、そんな願望の表れなのかも知れない。

もしかしたら、こんな僕のあり方を見透かしたからこそ、姉は絵の具を貸そうとしないのだろうか。
そんな逃げ場所は存在しない。現実と戦え。
暗にそれを理解させようと、突き放すような対応をとった。

「……なんだ、それ」

僕は、立ち上がり、棚に置いたスマートフォンと引っ掴んだ。
ブラウザを立ち上げ、検索エンジンに文字を打ち込む。
『緑、絵の具、代わり』。
すぐに結果が表示された。どうやら、黄色と青を混ぜればよいだけの話らしい。
椅子に戻って、コバルトとイエローの絵の具をすぐさま取り出す。

完成させてやる。

仮にこの絵が、僕の不甲斐なさの象徴だとして。
一体それの、何が悪いと言うのか。
これが僕が行きたい世界。その願望に、嘘偽りはどこにもない。

せめてその願いぐらいは、形にしないと、きっと僕はどこへも行けないだろう。
そう、思った。

パレットで絵の具を混ぜる。

出来上がった緑は、ビリジアンよりは幾分淡く、画用紙の上に明るい陽射しをもたらした。


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