【掌編】彼女が飛び降りない理由
会社のビルの屋上。柵の向こう側で彼女は、半身をこちらに向け、虚な目で僕を見た。
遅れて入った昼休み、日差しを浴びながら弁当でも食べようとたどり着いたそこで、まさに飛び降りようとしている彼女に遭遇したのだ。
「やめろ、馬鹿な真似はよせ」
僕の呼びかけにも、眉ひとつ動かさず、ただただじっとこちらを見つめている。今にもその視線がぷつりと途切れ、その身体を宙に投げ出してしまうのでは、という危うさがあった。
「飛び降りちゃいけない」
「どうして」
ただ黙ってこちらを見ているだけだった彼女が、急に口を開いた。
「どうして、飛び降りてはいけないの」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。飛び降りたら死んでしまう」
「馬鹿はあなたじゃない。私は死にたくてやっているの。そうでなければ、こんな危険な場所にわざわざ立ったりはしない」
言われてみれば、その通りだ。
「でも、とにかく、駄目だよ。死んではいけない」
「どうして」
「どうして、って……」
「私の命よ。私の好きにしていいはず。どうして死んではいけないの」
「それは……」
「もし私を止めたいのなら、納得のいく説明をしてちょうだい。どうして、私はここから飛び降りてはいけないの」
彼女の目は、虚だったそれから、こちらを射抜くような鋭いものに変わっていた。
納得のいく説明を。
もし僕の返答が、少しでも疑念が残るものであれば、すぐさま地面を蹴ってやる。そう言わんばかりの気迫を感じる。
彼女は会社の同僚で、面識はあるもののそこまで深い仲ではない。今日この場であったのも、ただの偶然だ。彼女の身に何が起こり、自ら命を絶とうとしているのか、その経緯は僕にはわからない。
だが、たとえ誰であろうと、どんな理由であろうと、この状況で「はいどうぞ」と好きにさせることなどできないだろう。
僕は、ごくりと唾を飲んで、続けた。
「まず、死んだら元には戻らない」
「知っている」
「戻らない、ということは、君の未来がなくなるということだ。今はそれでいいと思っているかもしれない。だけれど、これから先の未来、今の苦しみが馬鹿馬鹿しくなるくらいの幸せが、君を待っているかもしれないだろう。その可能性が、ゼロになってしまうなんて、損だとは思わないか」
「そのデメリットも考慮した上で私はこうしているし、そもそも死んでしまった時点でそれをデメリットと感じる私そのものがなくなるのだから、関係がない」
なんて完璧な論理だ。ぐうの音も出ない。
しかし、黙るわけにもいかない。一瞬でも沈黙を生み出してしまえば、その隙に行動を起こしかねないのが、今の彼女だ。
「君が死ぬと、悲しむ人がいる。人を悲しませるのはよくない」
「よくないことを今からする、という自覚はある」
「迷惑を被る人だっている」
「それも、申し訳のないことだと思うわ」
はぁ、と息を吐いて、彼女は眉を顰める。
「あのね。そういう、これから自分に起こること、近しい人や見知らぬ人に起こること、あらゆる想定をした上で、私はこの方法を選んだの。周囲に与える悪影響を抑えるよう、できる限りの準備はしたつもりだし、それでも足りない部分については、業を背負う覚悟もできている。もちろん、苦しみから逃れるには、他の方法があるであろうことも承知しているわ。それでも、私は飛び降りるの」
熟考の上での選択。
決意も覚悟もある。
そしておそらく、その権利も。
「だけれど、あなたは言った。『飛び降りてはいけない』と。本当にそうなの?私が思いもつかなかった、私を止める正当な理由が、果たしてあるというの?」
正当な理由。
そう言われると、わからない。
何故僕が彼女を止めているのかと言えば、それはとどのつまり、僕が彼女に死んでほしくないという一点に尽きる。それも、ただ顔見知りが目の前で飛び降りるなんて見たくはない、という程度のものだ。
理由。死んじゃいけない理由、ってなんだ。
命を粗末してはいけない、とか。
自分を殺すことも人殺しの一種だ、とか。
生きたくても生きれない人だっているのに、とか。
そういうありふれた倫理観をぶつけたとしても、もうそれが届かない領域に彼女はいる。
本当は彼女だって、自ら死を選ぶことなんてしたくはないのだろう。でなければ、わざわざ僕とこんなやりとりなどせず、すぐにでも身を投げ出しているはず。
望んだわけでもなく、ましてや衝動的な行動でもなく。熟考の末、これしかないと思ってやっているのだ。
理知的に考えた末での、選択。
それを覆せるのは、倫理ではなく論理。
それが、僕にはあるか。
答えは、ノーだ。
「わかった。確かに僕は、君を納得させるだけの理由を持ち合わせていない」
僕の言葉に、彼女の表情が、ふ、と緩むのがわかった。
「そう」
涼しげに言い放って、彼女は僕から顔を背けようとする。
「その上で言わせてもらうと、この問答はまるでイーブンじゃないな」
彼女の動きが止まった。ゆっくり、再び僕へと目線を戻しながら、「……イーブン?」と訝しげに訊ねてくる。
僕は彼女を睨み返した。
「だってそうだろう。君は時間をかけ、熟慮を重ねて今の結論に辿り着いた。しかし、僕の方はどうだい。今日たまたまこの屋上に来て、飛び降りようとする君を見つけた身だ。気が動転している上、シンキングタイムだって十分には与えられていない」
「それは……」
「せめて君と同じ分の時間、冷静になって君が死んではいけない理由を考える権利があるんじゃないかな」
彼女は口をへの字に曲げて、押し黙る。
「加えて、君と僕との思考力の差も考慮してもらいたいね。君は頭脳明晰で理知的なタイプなんだろうけれど、僕はとりたてて取り柄もない凡才、どちらかと言えば感情で動くタイプだ。こんな僕が君と同じ時間を思考に費やしたとて、果たして君と同等に思慮をめぐらせることができるものか、甚だ疑問だよ」
僕の言葉を、味のしないガムを噛むかのような顔で聞く彼女。
「そんなの、屁理屈だわ」
「屁理屈でも理屈だ」
僕は答える。
「どうかな。僕が君を止める理由を時間をかけて探してはいけない、正当な理由を君は持ち合わせているかい」
悔しげに顔を歪め、彼女は諦めのため息をついた。
僕は弁当を足元に置き、彼女が柵をまたぎこちらに戻るのを手伝うべく、腕まくりをする。
ふと腕時計を見ると、ここにたどり着いてから随分と時間が経っていた。
果たしてこれは、昼休みを延長する正当な理由になるだろうか。
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