【短編】SHINONOME〈5〉④
「……怖い?」
訊ね返すと、榊は頷き「なるほど。そういうリアクションなんですね」と興味深げに私を見た。
「どういうことでしょう」
「そのままの意味です。助手としてシノノメさんの傍にいて、恐怖を感じることはありませんか」
恐怖。
「ありません。今日のように、尾行されたりするのは初めてのことですし、直接的な危害を加えられたことも……」
「あぁ、違います。そうじゃない」榊は首を振る。「私が言いたいのは、シノノメさんの能力、《オーダー》についてです」
榊は半身を乗り出し、私に顔を近づけた。
「《オーダー》、一昔前は《催眠音声》と呼ばれていましたが、シノノメさんのその能力は、対象者の意思を強制的に奪うものだ。しかも貴女はその力により、記憶を消された経験がある。つまり《オーダー》という異能が実在することを、身をもって知る数少ない一人だ」
「……はぁ」
「反応が薄いですね。質問を変えましょう。貴女が助手として働き始めて以降、シノノメが能力を使う機会はありましたか」
「……いいえ、ありません」なんだ、この質問は。「あの、何が仰りたいのでしょう」
「ですから、恐怖です」
榊の顔がさらに近づく。
「相手の意思を奪う、というシノノメさんの能力。それが貴女に対して向けられる、という危険性について考えることはありませんか。彼がその気になれば、貴女に何をさせることだってできる。そんな圧倒的な暴力を真横に置いたなら、幾許かの恐怖を感じて然るべきではないでしょうか」
確かに。考えたこともなかった。
「言われてみれば、そうですね」
答えると、榊は目を丸くして、しばし動かなくなる。やがて俯き、肩を小刻みに揺らし始めた。笑っているのだ、とわかるのに数秒を要した。
「あの……」
「これは凄い。予想以上だ」くくく、と小気味よく喉を鳴らす。「ただの聡明なお嬢さんかと思いきや。しかし、そうか。これぐらいぶっ飛んでいないと、異能者の助手など務まるはずもないか」
異能者の助手。
まるで別の種族を語るかのような物言いに、不快感が募る。
「質問の意図がわかりませんが」
「いやいや、失礼。最初に言った通り、単純な興味からお尋ねしたものです」言って、人差し指の背で目尻を拭う。「“シノノメ“、“ヒトカゲ“、“イロリ“。数ある異能の中でも、シノノメの《催眠音声》はとりわけアンタッチャブルな代物だ。我々が細心の注意を払って接近を試みる相手、そのバディでいる心境はどんなものか、と」
榊の細い目から、ナイフのような眼光が放たれる。
そして静かに、右腕を持ち上げた。
「瀧本さらささん、あなたへの警戒レベルを一段引き上げます」
次の瞬間、背後から強い圧力。続いて右前方へ押し出される。何が、と疑問に思った時にはもう、身体の動きは止まっていた。
背後に立っていた男が、私の左腕を折り曲げ、手首を背中に固定している。男の右手は私の右肩に。自然、私は前のめりになり、テーブルに顔を近づける格好になっている。
乱れた前髪の隙間から、榊の組んだ脚が見える。
「無礼をお許しください。貴女のようなタイプには、何度か煮湯を飲まされていましてね。頭が回るくせに、損得勘定が通じない連中というのは実に厄介だ」
「……ここには交渉に来たつもりでしたが」
「ご安心を。私もそのつもりです。多少、お互いの立場をわかりやすくしたもの、と捉えていただければ」
いけしゃあしゃあ、と言ってのける。
捻り上げられている腕が痛い。息も苦しい。
まともな交渉材料の用意があるならば、こんなことをする必要はない。
つまり、この時点で確定だ。
「私の過去を知っている、という話は嘘ですね」
ふ、と榊が息を漏らす。
「そんな話をした覚えはございません。見返りとして『貴女の消された記憶』をご提供する、と申し上げただけです」
「知りもしないことを、どのように提供するのですか」
「簡単ですよ」榊は言う。「シノノメさんがここに来たら、こう頼めばいい。”かつて貴方が消した瀧本さらささんの記憶について、教えてあげてください”」
そのまま貴女の左腕を捻り上げながら、ね。
冷ややかな声音で付け加える。
「……シノノメが嘘を吐く可能性は」
「なるほど。確かにそれはありますね」何故だか嬉しそうに、榊は肯定した。「では、こうしましょう。シノノメさんには、《オーダー》の力を使って、貴女にこう命じていただく」
「は?」
「『思い出せ』」
違和感が走る。
《オーダー》で消した記憶を《オーダー》で思い出させる。
そんなことが可能なのか。
いや、問題はそこではない。
どうしてそんな回りくどいことをさせようとするのか、だ。
こうして実力行使に及んだ時点で、私に出した交換条件など反故にしてしまえばそれで済むはず。
どうして。
今までの会話を思い出す。
何か不自然なところ、同じような違和感はなかったか。
思い出す。
どうして。
「……あぁ、なるほど」
ふと漏れた呟きに榊が動きを止めるのと、私のジャージのポケットでスマートフォンが震えるのが、同時だった。
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