【掌編】ダストテイル、朧げ。
妹の指は丸い。
赤ん坊のように膨らみがあり、ぶよぶよしている。脂肪ではない。動かすことがないので、浮腫んでいるのだ。
不自由なのは右手だけで、健常である左の指はそうではない。五歳の子に相応しい長さと器用さを備え、そちらであればピアノを弾くのに支障はない。
「お兄ちゃんとレンダンしたい」
何がきっかけか、急に妹はそう主張を始めた。僕と同じ教室を選び、同じ先生に師事。当然ながら演奏できるのは左手のみで、通常僕らが右でなぞる主旋律を、妹はそちらで辿々しく鳴らす。
次の発表会は、お兄ちゃんと一緒に弾こうか。半年ほどのレッスンを経て、先生が告げた。曲目は『聖者の行進』。
ドミファソ・ドミファソ・ドミファソミドミレ。
妹が左手で弾くその更に左側、和音を崩し伴奏する。隣でリズムが狂う度、調子を合わせなくてはならない。が、それぐらいは朝飯前だ。妹も妹でコツを掴んだのか、何度か練習しただけで、ほぼ完璧な仕上がりとなった。
右手を使ってはどうか。
ふと、思った。
発表会までまだ時間はある。この子の将来を考えると、チャレンジしてみるべきではないか。
勿論、左手と同じようにはいかない。せいぜいできるのは、鍵盤に向け、動かぬ指達を叩きつけるぐらいだろう。
先生はよく「彗星が尾を引くように」と言う。一音一音に余韻を効かせろ、と。それで言うと、妹の右手はさながら隕石か。鍵盤の大地に激突し、破壊音を撒き散らす。
だが、それでいい。
歪な音が響いても、僕が後付けでアレンジを加え、フォローできる。
「ユイちゃん」
休憩中も飽きもせず、ドミファソドミファソを繰り返す妹に、呼びかける。
が、その熱心さと、どこか楽しげな様子に思いとどまる。
兄のサポートの下、不自由な手指を懸命に使い、発表会に臨む。側から見れば美談だろう。だが、当人はそれを望むだろうか。
大勢の前で、不協和音を轟かせる。
その経験が自信ではなく、大きな傷を作りはしないか。
「お兄ちゃん、何?」
決めるのは本人だ。しかし、幼いこの子に選択を委ねるのは、あまりに酷では。
今後、自分のハンディキャップとどう向き合っていくか。その命題と対峙させ、決断を強いることになる。
耐えられない。妹も、僕も。
「いや、楽しそうだな、と思って」
笑顔を浮かべ、取り繕う。
「楽しいよ」妹は答える。「お兄ちゃんとレンダンすると、両手が使えてるみたい」
呼吸が止まる。
思わず両腕を伸ばし、妹の右手を握った。
丸い指。
身体の一部であるように自分を頼ってくれていること。
しかし、すべてをこの子に捧げられるわけではないこと。
心を鬼にし、ひとり生きていく強さを身につけさせてもやれないこと。
それらが一緒くたになり、胸の中を暴れ回る。
「お兄ちゃん?」
練習再開。先生の声。僕は僕で、与えられた課題曲を仕上げる必要がある。
「今、行きます」答え、妹から両手を離した。
彗星が尾を引くように、とはいかない。
余韻を振り切り、僕は自分の鍵盤へ向かう。
(1,200字)
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