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【短編】眠る

眠るという行為は、俺にとっては自殺に等しい。

不謹慎な物言いに聞こえるかもしれない。実際、その向きはあるだろう。だが、時折そんなことを考える。
眠りにつく前、抱えている不安や後悔を無闇に反芻し、黒々とした思念に支配されることがある。柔らかな布団にくるまれているはずなのに、無数の刺を突きつけられ、拷問に遭っているような。
そんな夜に思う。このまま目蓋を閉じて、眠りにつくと共に、この生が終わりを迎えるとしたらどうだろう。今味わっている苦痛は捨て行くものであり、もう二度と自分を襲うことがなくなるものだとしたら。
自分という存在が朽ち果てて砂になり、纏わりつくしがらみから、するすると抜け出ていく。そんなイメージが、穏やかな安らぎを与えてくれる。雑念のボリュームは徐々に絞られ、やがて訪れる静寂の中、ひっそりと入眠できる。
そこで得られる安らぎや静寂は、実のところ錯覚に過ぎない。しかしながら、錯覚なりの救いをもたらしてはくれる。眠れぬ夜、精神の平穏を保つ上で、それなりに有効なメソッドに思える。
「危ういな、お前」
いつの機会だったか、ツクルにこの話をしたことがある。その際にくらった指摘が、これだ。
眠りで負の感情がリセットされ、それで心穏やかになる。そう思い込むのは別に構わない。錯覚で気を紛らわすことに異を唱える者がいるかもしれないが、マインドコントロールなんて、大半が錯覚に頼ったまやかしだ。お前の言うそのメソッドは、要は「気の持ちよう」という、ごく一般的な心理療法の域を出ない。
ただ、リセットをもたらす事象として、「自殺」という概念を選択すること。あまつさえそれを「救い」と表現すること。そして何より、お前のように身近な人間の死を経験したことのある者が、それを口にして平然としていること。
そこが危うい、とツクルは言った。
「端的に言うと、死にたがっているように見える」
随分な言われようだ、と思ったが、しかし、否定もできない。
もちろん、明確にその願望があるわけではない。ただ、世俗の浮き沈みにとらわれない、安寧な世界に心惹かれるのは確かだ。死に対し、そこまでお気楽なイメージは持ち合わせていないものの、日常で生じる悲喜交々と絶縁する手段として、際たるものであることは間違いない。
つまり、これもまた不謹慎な話ではあるが、「死にたい」というよりも「生きていたくない」という心境にあるのかもしれない。いや、「生きるのが億劫だ」と言った方が近いか。
生きる気力がない。生への執着が乏しい。
だからこそ、こんな不敬なモノローグをつらつらと紡げるのだろう。

ふと我にかえると、制服のボタンを留めている最中だった。自分の指先が胸元にあるのを見て、あぁ、そうだったと思い出す。
思考を巡らし深みにはまり、あるいは思考がとっ散らかり、結果、現実世界の感覚が希薄になってしまうのが、俺のよくない傾向だ。この世に自分を繋ぎ止めておくものがなくなり、放たれた風船のごとく、ふわふわと落ち着かない心地になる。そのままどこかへ飛び立ってしまえれば楽なのだが、そうも言っていられない。
時計を見る。午前七時二十三分。
深呼吸をして、空気と肺の摩擦に意識を向ける。自分がここに在る、という実感が徐々に取り戻されていく。
急ピッチでボタンを留め終え、簡単に髪を整えた。下から順にピアスを付ける。三つ目、一番上のフープが、ちかりと瞬く。
遮光カーテンの隙間から、陽光が射している。床に届いたそれが、細い道を作っていた。綱渡りのロープのごとく、廊下に続くドアへと繋がっている。
その光の道を辿るようにして、俺は自室を出た。


<1>

キッチン兼ダイニングに続く珠暖簾をくぐると、テーブルに朝食が用意されていた。白米に味噌汁、ほうれん草のバター炒めを巻いたいつものオムレツ。各々がその香りと共に、ふんわりと湯気を上らせている。テーブルの奥には、おそらく先に食べ終えた母親の食器を洗っているのだろう、婆ちゃんの丸まった背中があった。
「婆ちゃん、おはよう」
呼びかけるが、返答はない。もともと耳が遠いのに加え、洗い物の音で聞こえないのだろう。だが不思議なことに、俺が椅子に座り、箸に手を伸ばすと、「あら、時雨。おはよう」とこちらを向いた。
味噌汁に口をつけ、オムレツ、白米の順に箸を伸ばす。咀嚼の度、舌の上でそれぞれの旨みが一体となっていくのを堪能して、また味噌汁でそれを流し込む。
洗い物を終えたのか、婆ちゃんが真向かいの席に、ゆっくりと腰掛ける。
「美味しいかい」
「うん」
「嬉しいねぇ」
微笑みに合わせ、骨張った頬の上に皺が密集する。
婆ちゃんとは幼少の頃から共に暮らしているが、いつもこのように穏やかで、裏表がない。人が良過ぎて変な詐欺被害に遭ったりしないか、心配になるほどだ。現に母親と俺がいない日中、「お孫さんの病気に」と勧められ、高額な水を買わされそうになったことがあった。最近はそれに加えて、物忘れで困る事態も散見される。
しかし、こうして家のことをこなしているのだ。まだまだ、意識はしっかりしている。むしろ案じるべきは、身体面での老化の方だ。
「婆ちゃん、腰の調子はどう」
「うん。まずまずだねぇ」
「痛い?」
「痛いね。痛いのが普通だねぇ」
年寄りだからさ、と乾いた喉を鳴らしてみせるが、笑えない。
もう一年ほど前になるが、婆ちゃんは背骨を圧迫骨折し、しばらく動けなくなってしまった。今もコルセットを巻いて暮らしているが、実際、立っているのも辛いはずだ。
それでも、少し前までは「大丈夫」と気丈に振る舞ってはいた。素直に「痛い」と申告してくるようになったのは、ここ最近のことだ。身体を動かす際、顔を歪めて腰を押さえる動作も目立ってきている。家事もさることながら、妹の世話が特に堪えるのだろう、と想像できた。
「どれ、そろそろ胡桃にご飯を持って行こうかね」
婆ちゃんが立ち上がろうとするので、手を出し、それを制した。口にしたばかりの味噌汁を急いで飲み込む。
「俺が行く」
「でも、あんた。もう出ないと間に合わないよ」
「大丈夫。マスク、もう終わった?」
「そろそろだけど……」
「じゃあ、拭くよ」
「悪いねぇ」
掻き込むようにして朝食の残りを平らげ、食器を流しに持って行く。米の入っていた碗だけ軽く水洗いして、後はそのままシンクに置いた。
グラスに水を注ぐ。すでに一人分の朝食が載った盆にそれを加え、ダイニング奥、胡桃のいる部屋に向かう。
「お兄ちゃん」
襖戸を開けると、胡桃はちょうどマスクを外したところだった。ベッドの上、畳んだ上布団を背もたれに、半身を起こして、脚をでろんと伸ばしている。
「おはよう」
「おはよう」
俺が盆を持っているのを見てとり、胡桃はゆっくり腰を回して脚を縁から下ろした。
「胡桃、トイレ大丈夫か」
食事を前に聞くことではないが、大事なことだ。できるだけ婆ちゃんに負担を残しておきたくはない。
「うん。お母さんと行った」
「そう」
ベッド脇にある可動式の机に盆を置き、胡桃の前まで引き寄せる。位置を微調整して、キャスターをロック。続いて胡桃からマスクを受け取る。
いわゆる医療用の酸素マスクで、口に着ける部分が硬く透明な素材でできている。そこから管が伸び、それが押入れの中のボンベと繋がっている。
ずっとマスクをつけていて、喉が渇いたのだろう、胡桃はグラスの水を半分ほど一気に飲んだ。そのまま箸に手を伸ばすかと思いきや、グラスを持ったまま、丸々した瞳を俺に向ける。
「どうした」
「おばあちゃんは?」
「向こうにいる」
答えるが、胡桃の目線は、なお何か聞きたげな様子で、俺に固定されている。
「何だ」
「おばあちゃん、しんどい?」
嫌な問いだった。
しんどいかしんどくないかで言えば、それはしんどいだろう。だが正直に答えれば、そんな婆ちゃんがお前の世話をしてくれているんだ、と告げることにもなる。
「いつも通り」
そう答えて、「母さんは?もう行った?」と話を逸らした。
「うん。さっき、行ってきます、した」
「そう」時計を見る。そろそろ急がないといけない。「早く食べろ。冷めるから」
「はい」
ようやく胡桃は、グラスを置いて、箸を握る。すべて左手での動作だ。
「胡桃、右手」
「ごめんなさい」
ベッドの上、だらりと垂れた右腕を、体を傾かせ、肩を揺らすようにして持ち上げる。どん、と勢いよく拳が机に着地した。
これでいい?という顔で、胡桃が俺を見る。俺が頷くのを見て、「いただきます」と食事に入った。
妹の胡桃は幼い頃に病気をして、その影響で右半身に麻痺が残っている。簡単に言うと、右手右脚が自由には動かせない。右の掌を開いたり閉じたり、また腕を自在に振るうことも難しい。脚の方も曲げ伸ばしの勝手が効かず、歩けないことはないが、誰かの補助がないと危なっかしい。
脳性の麻痺らしく、その影響か、知能の発育も十分でない。胡桃は今年で十四歳になるが、交わす会話は小学校低学年と同程度の内容だ。
中学には籍だけ置いて、通ってはいない。自宅でリハビリを続けている。アメリカのなんとか法というメソッドに従い、手足の運動のほか、呼吸を深める訓練がある。脳に酸素を送ることが目的で、今俺の手にあるマスクも、そのための器具だ。
アルコールティッシュを取り、マスクの内側を軽く拭いて、壁際のフックに掛ける。胡桃の側に戻り、すでに机からずり落ちそうな右手の位置を、そっと直す。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「もう行く?」
「うん。ゆっくり食べろ」
「はい」
立ち上がり、部屋を出る。後ろ手に襖を締めると、俺がシンクに置いた食器を洗う、婆ちゃんの姿があった。

玄関を出て、階段を降りる。俺が住んでいるのは公営団地の三階で、建物は古く暗い。一階の郵便受けを通り過ぎ、ようやく外の光を浴びる。九月も中頃に差し掛かり、日差しは幾分弱まってきたものの、まだまだ暑さは変わらない。
申し訳程度の生垣の向こう、トタン屋根に守られた自転車置き場に着くと、そこにツクルが立っていた。
黒髪に楕円フレームの眼鏡、俺と同じくらいの背丈に、色白で細身の身体。これと言った特徴の少ない、薄味の顔をしている。校章の入った白い半袖シャツに、グレーのスラックス。スクールバックを肩にかけ、自転車の鍵を手に持っていた。
お互い軽く手を上げ合うだけの、短い挨拶を交わす。同じ団地に居住している俺たちは、幼い頃から面識がある。中学まで同じだが、今はそれぞれ別の高校に通っている。
「今からで間に合うのか」
ツクルが言う。こいつは自転車のみで通学可能だが、俺は自転車で駅まで行き、そこから電車に乗らなくてはならない。
「多分」
聞いておきながら興味がなさそうに、ツクルは「ふうん」と俺から目を逸らした。横幅三メートルほどのスペースに、乱雑に格納された自転車達。その中から、愛車のハンドルとサドルに手を掛け、車体を引き抜く。方向転換のために一度持ち上げた前輪を地面に下ろし、前かごにスクールバッグを入れ込んだ。
俺も自分の自転車の前に移動する。このままこの場は別れることになるのだろうと思ったら、「シグ」と昔からの愛称が耳に入った。
自転車のハンドルを握りながら、ツクルがこちらを見ている。
「元気?」
それ、最初に聞くやつじゃないのか。
「誰が」
「お前と、胡桃ちゃんと、おばあさん」
「いつも通り」答えて、すぐに思い直した。「婆ちゃんは、あまりよくない」
「そう」
しばらく待ったが、続く言葉はない。「じゃあ」と自転車に跨り、ペダルを漕いで離れて行く。一体何のヒアリングだったのか。
団地の敷地を抜け、視界からフェイドアウトしていくツクルを眺める。
あいつとのやりとりはいつも短く、時間をかけてじっくり話をしたことは、ほとんどない。同じクラスになったこともあるが、教室でもまず接触しようとはしなかった。別に仲が悪い訳ではないのだが、なんとなく互いに不干渉を貫いている節がある。模索してちょうどいい距離感を見つけ当てたわけでなく、最初からこの形でスタートして、それがそのまま続いている、という感じだ。
よって、十分なコミュニケーションをとっているとは言い難いが、それにしても、変わったやつだと思う。表情が乏しく、口数も少ないなので、何を考えているのか掴みどころがない。
すみません、と声をかけられる。すぐ傍に、スーツ姿のサラリーマンが立っていた。俺が邪魔で、自転車が出せないらしい。頭を下げて、場所を譲る。
スマートフォンを取り出し、ディスプレイを見る。気が付けば、始業に間に合うか、怪しい時刻になっていた。


<2>

俺の通う学校はいわゆる進学校で、国立大学や有名私大、医学部の合格者を年々多数輩出している。その中でも俺の成績は比較的上位の方だ。それは俺が勉学に励んでいる結果だが、その励んでいる理由はと言えば、俺の場合、その成績以外の素行への評価が芳しくなく、下手をすれば退学になりかねないからだ。
俺は髪色を金に染め、耳に複数のピアスを開けている。長めのヘアスタイルも、だらしない部類に入るだろう。小学生の頃から、変わらない。
どうしてそんな格好をするのか、と問われれば、これがしっくりくるから、としか答えようがない。誰しも髪型やファッションを選ぶ理由など、同じようなものなのではないか。
見た目は幾分派手に映るだろうが、特に悪ぶりたいわけでも、何かしらへの反骨精神を抱いているわけでもない。だが、中学に入った辺りから、似たような出で立ちの連中によく絡まれるようになった。時に友好的に、時に敵愾心を剥き出しに声をかけられ、騒がしい場所に連れられたり、態度が悪いと言いがかりをつけられたりと、望まぬ展開に巻き込まれた。法を犯す気も喧嘩をする気もないところ、それを無理強いされ、断れば制裁を喰らう、という理不尽に、辟易としながらも耐える時期を過ごした。
偏差値の高い高校に入れば、そうした人種から距離を置けるかと思い、今の高校を受験した。おかげで入学以降、不穏なお誘いを受けることはまるでない。一方で、こうした校則違反のアウトローにすこぶる厳しいのがこの学校の風潮であったため、そのマイナスを補わんと、より一層成績向上への努力が必要となった。正直、受験生の頃よりも、今の方が机に向かう時間は長い。
しかし、その辺りは、よくも悪くも進学校だ。入学当初は事あるごとに説教が始まり、退学、停学といったワードを散らつかされたものだが、真面目に授業を受け、試験結果で高順位をキープし続けている現在、それほど口うるさくものを言われずに済むようになった。
それでも規則違反は事実であり、それなりのペナルティは甘んじて受け入れなくてはならない。だが、そのペナルティでさえも、いくらか形式的になりつつあるのが現状である。
「あの、村井君」
放課後、カバンに教科書を詰め直し、帰り支度をしている最中、話しかけられた。相手は同じクラスの男子、確かサトウ君だったか。色白で大人しそうで、頬にニキビが赤々と広がっている。
クラスメイトから話しかけられるのはめずらしい。皆、この風貌に気後れしているのか、どこか遠巻きに俺に接してくるのが常で、下手をすれば一日誰とも会話せずに下校することもある。
「何」
朴訥とした言い方がまずかったのだろうか、サトウ君は少し怯えた風に顔を強張らせた。
「あの、秋葉先生が、進路指導室に来いって」
「あぁ……」
確かに今日は第二水曜、面談の日だ。別にサボろうとしていたわけではないが、日頃、俺がそれほど熱意ある素振りを見せないからか、たまにこうして使者を寄越してリマインドしてくる。
「どうも」
俺は軽く頭を下げて、カバンを背負った。サトウ君は「うん」と、この場を乗り切ったことに安堵した様子で、そそくさと俺の元から去っていく。俺も立ち上がり、教室を出た。
毎月第二、第四水曜日は、進路指導室で秋葉先生の「指導」を受けることとなっている。始まったのは、一年の三学期だったか。きっといくら説教をされても俺が言うことを聞かない反面、俺の成績が着々と向上してきたのを見て取り、教員が講じた妥協策なのだろう。「定期的に指導をしている」という体裁をとることで、事実上俺の校則違反を黙認し、日々の生活指導にかけるマンパワーの抑制を図っているのだ。
進路指導室は一階、職員室の隣にある。ノックをして、俺はその引き戸を開けた。
「おう」
上座に設置されたソファに、秋葉先生が座っていた。頭は禿げ上がり、赤いポロシャツが丸々した体躯に引っ張られてはち切れそうだ。ハの字に固定された眉の下、三白眼がこちらをギロリと睨んでいる。
「お前、今日サボるつもりだっただろう」
「いえ」
「まぁいい、座れ」
秋葉先生が座っているソファの対面、低いガラステーブルを挟んで設置されたソファに、カバンを置いて腰かける。
ガラステーブルには、もはや見慣れた、折りたたみ式の将棋盤が載っていた。
「とりあえず、指すぞ」
「はい」
とりあえずも何も、いつも指すだけだろう。同じくテーブルに置かれたプラスチックケースから、駒を盤上に出す。振り駒はせず、いつも先行は俺の方だ。「ほれ」と玉将を差し出されて以降、やりとりは何もなく、お互い駒を黙々と並べ、そのまま対局が始まる。
将棋はこの部屋に通うようになって、初めて覚えた。秋葉先生から指導らしい指導を受けたのは、初日だけだ。二回目からは、すでにこの盤が持参され、「お前、将棋指せるか」、「指せなきゃ覚えろ」、「次から毎回一局指すぞ」とこの恒例行事が始まった。
ぱちん、ぱちんと駒を置く音が、狭い指導室に不規則に響く。
「村井、お前将来の夢とかあるのか」
対局も中盤、各々持ち駒が増えてきた頃に、雑談が始まる。これもいつものことだった。
「いえ、特にないです」
ちらりと、部屋に備え付けのキャビネットを見る。進路指導室と言うだけあって、全国各地の大学の過去問や、パンフレットの背表紙が並んでいる。
そろそろ、高校生活も残り半分だ。文理の選択に始まり、どこの大学を受験するのか等、的を絞った対策をしていかなくてはならない。
だが、秋葉先生がしたい話は、そういうものではないようだった。
「派手なナリしているんだ、モデルだか俳優にでもなったらどうだ」
冗談めかしてではなく、真顔でそう持ちかけてくる。
「そういうのは、あまり」
「つまんねえな。大金持ちになりたいとか、女にキャーキャー言われたいとか、ないのか」
教師、しかも進学校の学年主任の言葉とは思えない。無視してやり過ごそうとするが、しかし、「若いんだ、色々野望はあるだろう。低俗なものでもいい」と突っかかってくる。
「まぁ、強いていうなら」桂馬を手に取り、右前方に駒を進めて、俺は言う。「金は欲しいです」
「おう。いいじゃねえか。でかい家に、いい車か」
「いえ、家計の足しになれば」
ふと、胡桃と婆ちゃんの顔が浮かんだ。今は母親の稼ぎで賄えているが、その母親だっていつまで働けるかわからない。
秋葉先生は、ふん、と鼻息を漏らして俺を見下ろす。つまらん、と憤慨している様子だ。
「でもよ、そういう意味では、いいんじゃねえか」
「何がですか」
「芸能界。稼げるだろう」
「厳しい世界ですよ」
「じゃあ、ホストはどうだ」
本当に、さっきから何を言っているのか。
「無理です」
「どうして」
「さぁ」
「さぁ、ってことはないだろう」
「それよりこれ、俺の詰みですかね」
盤面を見て、俺は問う。自陣に攻め込まれた飛車と金の動きに、防戦を強いられていた。
「知るかよ。自分で考えろ」
考えている。その上で無理そうだから、聞いてみたのだ。しかし、何故だか今日は不機嫌そうなので、口ごたえはしない。一分ほど、新しい道筋を考える振りをして、「負けました」と頭を下げた。
「おいおい、なんだ。もうちょっとなんとかなるだろう」
先生のボリュームが上がる。どうやら何をやっても、怒られる流れらしかった。
「お前な、もうちょっと粘れよ。すぐ投げ出すな」
「でも、どうせ負けますし」
「どうせ、じゃねえ。一回ぐらい、俺に勝ってみせろってんだ。つまらねぇ」
まだ二十分しか経ってねえじゃねえか、と鼻息を漏らす。お前は帰るからいいけれど、俺は仕事に戻るんだぞ、とよくわからない説教を始めるので、早々に駒を仕舞って、立ち上がった。
「何だ、帰るのか」
「はい」
「次も来いよ」
丸く膨らんだ腕を上げる秋葉先生。たまに忘れそうになることはあれど、毎度こうして顔は出している。それでもこうして釘を刺したり、クラスメイトを通じての注意喚起だったりを止めることはない。理由を聞くと、「なんかお前、不意に来なくなりそうな雰囲気があるんだよ」とのことだった。
頭を下げ、部屋を出る。扉を開けた瞬間に、むわりとした暑さが肌にまとわりついた。今までいた部屋が、いかに空調が効いていたか、その落差で知る。


<3>

初任給で数万円、生涯年収で数千万円。サイトにより額にばらつきは見られるものの、高卒と大卒では、それほどの差があるらしい。
では、文系と理系ではどうか。再びスマートフォンで検索をかけると、こちらは諸説あるようだった。裏を返せば、どちらにも稼げる仕事はあるということだろう。
となると次は学費の多寡が判断要素となる。国公立であることは前提として、学部によりどれほどの違いがあるのか。
「時雨、いいかい」
廊下から婆ちゃんの声がした。スマートフォンを手にしたまま、ドアを開ける。こちらを見上げる穏やかな顔があった。腰が辛いのか、左手を壁につき、体重を支えるようにしている。
俺はしゃがみ込み、婆ちゃんに目線を合わせた。
「ありがとうねぇ」
婆ちゃんは、うふふ、と目を細める。
「どうしたの」
「そろそろ晩ごはんの仕度をするから、胡桃をお願いしていいかい」
言われて、スマートフォンで時計を見る。慣れないネットサーフィンに没頭している内に、帰宅してから結構な時間が過ぎていた。
「大丈夫かい?」
婆ちゃんが、俺の手元を見る。
「え?」
「携帯。お友達と連絡しとったんじゃないかい」
手に持っていたことが気になったのだろう。確かに、常にこうしたガジェットを持ち歩くタイプではない。
「別に。ちょっと調べもの」
「調べもの?何だい」
「たいしたことじゃない。大学どこ受けようとか、そういうこと」
「そりゃあ、大事なことじゃないか」
時雨、とめずらしく神妙なトーンで俺の名を呼ぶ。子供の頃、叱られた時によく聞いた声音だ。さすがに説教をくらうことはないだろうが、こうなると少ししつこいのが、婆ちゃんである。
「あんた、将来の夢とかあるのかい」
「特にないよ」
「やりたいことは」
同じようなやりとりを今日先生としたな、と思い出す。俺は黙って首を振った。
「そうかい」
婆ちゃんは苦笑して、ふ、とため息をつく。
「あんたは昔から、おもちゃが欲しいとも、遊びに行きたいとも言わないし。強情だったのは、その格好にしたときぐらいで」
俺の頭を見やる。確かに、当時婆ちゃんは、髪を染めたり、耳に穴を空けることには反対していた。社会通念上どうこう、と言うよりかは、奇抜な容貌になることで、もともと人当たりのよくない俺が、さらに周囲と馴染めなくなるのでは、と心配してくれていたようだった。
「時雨」
「うん」
「迷ったら、あんたが毎日楽しい、と思える方を選ぶといいよ。おばあちゃんは、それを応援するから」
「……わかった」
そんなことを言われてもな、というのが正直なところだったが、俺は頷いてみせた。満足げに笑う婆ちゃんに、後ろめたい気持ちになる。「じゃあ、胡桃のところに行くよ」と足を伸ばして、そそくさと廊下に出た。
「ありがとう。すぐ作るね」
廊下を抜け、珠暖簾をかき分けてダイニングへ。婆ちゃんも後ろからついて来る。まだスマートフォンを持ったままであることに気付いたが、ポケットに押し込んでそのまま進んだ。
テーブルを迂回し、奥の襖戸を開ける。
胡桃はベッドの上、クッションを背もたれに、半身を起こした状態で、テレビを観ていた。
「また観ているのか」
「うん」
襖を閉めて、画面を覗き見る。もう何度再生したかわからない、長編アニメーション映画のDVDだ。俺が幼少の頃から我が家にあり、パッケージも色褪せてぼろぼろ。胡桃はこの作品がお気に入りで、おそらく三桁に及ぶ回数視聴している。傍で流し見している俺ですら、ストーリーやセリフ、BGMが入るタイミングまで脳内再生できるほどだ。
「もうすぐ、みっちゃん、来るよ」
胡桃の目が輝きを増す。
「みっちゃん」は主人公のクラスメイトで、朝、家の前まで来て、一緒に登校しようと誘ってくるシーンがある。胡桃の予言通り、ちょうどそこが流れるところだった。
「ぷひゅー」
コミカルな描写に、胡桃はいつもここで噴き出すように笑う。ひとしきり肩を揺らした後も、にやけ顔のまま、目線は画面に釘付けだ。よくもまぁ、同じ場面で、毎度新鮮に楽しめるものだ、と感心する。
「胡桃、右手マッサージしよう」
「うん」
床に座り、胡桃の右手をとる。筋肉が固まらないよう、日中は数時間おきに解してやらないといけない。
普段動かさない分、小さく、赤ん坊のように丸々とした掌。その指の間に自分の指を入れ込み、押し広げるように力を加える。
「痛かったら言えよ」
「うん」
アニメに夢中で、上の空だ。俺も手を動かしながら、画面を見る。
主人公の父親が、庭で遊ぶ幼い娘を眺めるシーンだった。仕事で行き詰まっているところ、娘が摘んできた花を眺め、心を和ませる。確かこの父親は、大学に勤めているのだったか。
ふと自分の父親を思い出す。思い出すと言っても、ほぼ記憶などないから、思いを馳せると言った方が正しい。胡桃に至っては、全く覚えていないだろう。いなくなったのは俺が小学校に入る前のことだ。
父親は、何か仕事をしていたのだろうか。すでにいないものとして定着しているからか、今まで考えもしなかった。
母親が法律系の仕事だから、似たような職種か。しかし、朝、背広を着て出掛けるところなど、いよいよもって記憶にない。
もしかしたら、夜の仕事か。そう言えば、格好も派手だった気がする。あの母親がそういう男と接点があったとは、にわかに想像がつかないけれど。
奇しくも「ホストはどうだ」という、秋葉先生の提案とリンクして、気が滅入った。真っ先に水商売を勧めるとは、とんだ進路指導もあったものである。
先生に言われるまでもなく、今後の進路については目下の検討課題であった。が、そこまで本腰を入れて情報収集していたわけではなかった。
この先を見据えようとすればするほど、漠然とした不安が広がり、靄がかかったように視界が遮ぎられる。待ち受ける障害や試練、それらを直視することを、無意識が拒んでいるかのように思えた。まともに考えるな、悩むな、さもないと出口のない闇に引きずり込まれるぞ。そんな警鐘が響く中、あえてその靄を振り払う作業は、途方もない気力が必要であるように思えた。
今日の先生との会話で、「金を稼ぐ」という指針が見出せたのは僥倖だった。指針が定まれば、あとはそのためのルートを模索すればいい。ルートを見つければ、あとは進むだけ。考えることも、迷うこともなくなる。
目的があるというのは、楽なものだ。安心できるし、安定している。ナビゲーションを入力した車の運転のように、指示に従いハンドルを切ればいいだけ。余計なものに惑わされずに済む。
「お兄ちゃん」
「ん」
「ちょっと痛い」
「あぁ、悪い」
知らず、力が入っていたらしい。手にかける圧を緩め、絡めていた指を解く。
がたん、と大きな音がした。
襖の向こう、ダイニングだ。
「婆ちゃん」
反射的に声が出る。
返事がない。胡桃の手を離し、立ち上がる。
襖を開けると、キッチンで仰向けになっている婆ちゃんがいた。


<4>

時刻は、十六時三十二分。
ぼんやりしている内にホームルームが終了していたらしい。教室には、帰路につく者、部活動に向かう者、居残って会話に興じる者が入り混じり、独特の開放感とそれに伴うざわめきがあった。
帰り支度を済ませて、念のためスマートフォンを取り出す。電話やメールの着信は入っていない。
「あの、村井君」
背後から声をかけられる。振り返ると、ニキビ面のサトウ君だった。
彼が声をかけてくるということは、今日は秋葉先生との面談日か。すっかり忘れていたので、教えてくれて助かった。
サトウ君に軽く頷いて、カバンを肩に立ち上がる。先生に一声かけて行かなくてはならない。時間は間に合うだろうか。
「村井君」
あらためて声がして振り向くと、サトウ君が困った顔でまだそこにいた。
「大丈夫?顔色が悪いよ」
「え」
そうだろうか。自覚はないが、最近どうにも眠りが浅いので、そのせいかも知れない。
「大丈夫」
顔をしかめたままのサトウ君にもう一度頷いて、教室を出る。下校する面々の間を縫うようにして、進路指導室に向かった。
思えば、婆ちゃんが倒れたのも、前回面談があった日だ。あれからもう二週間経つのか、と今更ながら思い至った。
ドアの前にたどり着き、ノックをする。扉を開けると、いつもと同じ奥のソファに秋葉先生が腰掛けていた。
「おう、座れ」
手を上げる先生に、俺は頭を下げる。
「すみません。今日は帰ります」
「あん?どうした」
「用事がありまして」
「何だ。デートか」
「いえ」一呼吸置いて、続ける。「祖母がまた背骨を痛め、入院していて。着替えを持っていかなくてはいけないので」
先生の顔が険しくなる。元々強面のところ、一層凄みが増して見えた。
「何だそれは。大丈夫なのか」
「正直、あまりよくはありません」
あの日、戸棚から何かを取り出そうとして、椅子に登った婆ちゃんは、背中から床に落ちて倒れてしまった。立ち上がることもままならず、救急車を呼んだところ、そのまま運ばれた先の病院で入院することとなった。
途中から駆けつけた母親とバトンタッチしたため、詳しい検査結果まで聞いてはいないが、どうやら以前の骨折が再発したらしい。しばらくは寝たきりで、回復には相当な時間がかかるとのことだった。
あの日あの時まで、調子を崩しながらも元気に過ごしていた婆ちゃんだが、今や誰かの介助がないとベッドから起き上がることすらできない。本人もその急激な変化に気落ちしたのか、塞ぎがちになり、見舞いに行っても言葉数が少なくなってしまった。病院のスタッフにも同じ態度らしく、コミュニケーション不足が原因か、にわかに痴呆の方も進行しているようだった。
「お前、それ鈴木先生には言ったか」
秋葉先生が睨んでくる。「鈴木先生」とは、俺のクラスの担任教師だ。
「いえ、言ってません」
そりゃ俺も知らないはずだ、と不機嫌そうに舌打ちをされた。
「家のことは。妹の世話はどうしている」
「当座は、母親が有休を取得しています。その先のことは、まだ」
「そうか」
「すみません。しばらく来れないかもしれません」
「学校にか」
この面談に、という意味だったが、もしかしたら先生の言う通りになるかもしれない。俺は黙ったまま、その可能性について考えた。
「まぁ、そりゃあ、落ち着くまではそうかもな」
沈黙をイエスととったのか、先生は独り言のように呟く。落ち着くまで。それは、いつまでだ。まさかこういう形で、通学できない事態になるとは、思いもしていなかった。
「あ」
重要なことに気が付いて、思わず声が出た。
「何だ」
「そもそも俺、退学になりますか」
「あ?」
「この面談が受けられないと、俺、退学ですかね」
秋葉先生が、おもむろにソファから立ち上がる。そのまま巨体を揺らし、こちらに近付いてきた。先生が一歩踏み出すたび、のしのしという効果音が聞こえてくるようだった。
「お前な」
怒鳴りつけん勢いで人差し指を俺の胸元に突きつけたかと思うと、急にそれが萎んで、溜息を吐いた。
「まぁいい、行け」追い払うように手を縦に振る。「何かあったら、俺か、鈴木先生に話せ」
「何か、ってなんですか」
「何でもいい」
「はぁ」
時計を見ると、いよいよ時間がない。一礼して、その場を去ろうとしたが、「村井」と呼び止められた。
「投げるなよ」
何を、と訊ね返したかったが、また絡まれるのが面倒で、俺はそのまま部屋を出た。

家に帰ると、母親が出掛ける支度をしているところだった。すでに仕事着になり、化粧も済ませている。その格好のまま、箪笥の前で、ボストンバッグに婆ちゃんの衣類を詰め込んでいた。
職場から急な連絡が入り、どうしても出なくてはならなくなったらしい。着替えを病院へ持って行くのは俺の予定だったが、職場へ向かう行き掛けに、母親が済ませてくるとのことだった。
「代わりに胡桃をお願い」
「わかった」
「あと、あんた、明日ちょっと学校休める?」
もしかしたらお願いするかもしれない、と母親が言う。
「……わかった」
「悪いわね。学校には私から言うから」
「明日だけでいいの」
「ひとまず大丈夫」
本当だろうか。
前回、婆ちゃんが骨折した時も、単発的に俺が学校を休むことはあった。だが、今回は勝手が違う。
果たしてどれだけの日数を賄えるのか知らないが、有休にも限りがあるのは確かだ。また、そう簡単に仕事の都合がつくとも思えない。現にこうして緊急で呼び出されているところを見ると、そろそろ限界なのではないか。
ふと、自分の席に置きっぱなしの教科書類が気になり始める。次に取りに行けるのはいつになるだろう。家で自習するにしても、教材がないと難しい。
「じゃあ、行くから」
母親がボストンバックの口を閉め、立ち上がる。
「胡桃は何してる」
「部屋で、ジジ」
ジジとは、これもまた胡桃御用達のアニメーション映画に出てくるキャラクターだ。我が家ではタイトルではなく、そのキャラクター名で映画そのものが呼ばれている。
「マッサージと、マスクお願い」
母親は胡桃の部屋に向かう。行ってくるね。お兄ちゃんがいるからね。そんな趣旨の言葉がくぐもって聞こえる。俺は母親がまとめた荷物を肩に、玄関でそれを待った。
母親が来る。俺から無言でバッグを受け取り、ヒールに足を入れる。
「帰りは」
「わからない。また連絡する」
「気をつけて」
「ごめん。よろしく」
慌ただしくドアが開いて、閉まる。しん、とした玄関の静寂に、胡桃が観ているアニメの音声が、微かに混じって聞こえた。
ダイニングを通り抜け、部屋に入ると、いつものごとく、胡桃は食い入るようにテレビを見ていた。画面に目を向けると、ちょうど胡桃のお気に入りのジジが映っている。
「胡桃、トイレ大丈夫か」
「うん」
床に腰掛け、胡桃の右手をとる。いつもの要領で、固まった筋肉を解していく。ベッド脇の置き時計を見ると、時刻は十八時を回っていた。
マッサージが終われば、マスクを着用させて、その間に夕食の準備だ。冷蔵庫に何か入っているだろうか。最悪、レトルトのカレーがあるだろうから、それで済ませるとしよう。
今日はそれで事なきを得ても、明日はどうだろう。母親に、朝食を作る余裕があるとは思えない。連絡して、帰り際にパンでも買ってきてもらうか。昼の分は、自分で買いに行こう。出前という手もある。
明日の夜は。明後日は。
母親がこの先も継続して休暇をとることはできない。また、残念なことに、婆ちゃんの退院もすぐには難しそうだ。
となると、やはり俺が学校を辞めるしかない。
その場合、大卒どころか、最終学歴は中卒となる。いよいよもって、優良な就職先は望めなくなるだろう。高卒の認定を受け、大学受験を目指すにしても、独学でチャレンジすることになる。仮に母親が働き、俺は胡桃の世話をしながらという生活で、どこまでそれが可能だろうか。
いや、よしんば合格できたとしても、大学に通う時間がない。大学を卒業しても、いずれは外に出る必要がある。そのための方策を考えないと、根本的な解決にはならない。
「胡桃、ちょっとごめんな」
マッサージしていた右手を離す。ポケットからスマートフォンを取り出し、ブラウザを立ち上げた。
思いつく限りのワードを組み合わせ、検索をかける。
個人のブログに、ヘルパーを雇った、との記載があった。自治体で提供しているサービスのようだ。オフィシャルなページに移行して調べると、背負っているハンディキャップに応じて、受けられる補助にも違いがある。在宅でつきっきりとなると、それなりに重度の者が対象のようだ。
胡桃の場合は、対象となるだろうか。母親の戸棚を漁れば、何らか記載があるものが出てくるはずだ。
「お兄ちゃん」
スマートフォンから顔を上げる。映画は続いているが、胡桃はこちらを見ていた。
「ごめんなさい。トイレ」
「あぁ」
リモコンのボタンを押し、DVDの再生を止める。胡桃が立ち上がるのを手伝い、寄り添いながら一緒に進む。
部屋を出て、ダイニングを抜け、廊下へ。しばらく力を入れていなかったからか、地につけた右足の痙攣が激しい。身体がよろけて重心がぶれる度、それを添え木のように正しながら、少しずつ前に進む。
ようやくたどり着いた個室に胡桃を入れ、ドアを閉める。一度ダイニングまで戻り、椅子を引いて腰掛けた。
今一度、ポケットからスマートフォンを取り出す。先ほどまで見ていたページが画面に映る。
ヘルパー。訪問。介助。補助。無機質に並ぶ文字を流し見し、俺はスマートフォンを床に置いた。
胡桃の震える右足を思い出す。
ヘルパーを雇えたとしても、さすがに、今取り組んでいるリハビリまで手伝ってはもらえまい。生活行為の補助を受けるだけでは、筋力は衰え、手足の麻痺は残ったままだ。
さらに言えば、仮にリハビリをこのまま続けたとしても、麻痺が改善される確たる保証はない。その場合、補助を続ける母親や俺は、どこまで胡桃に寄り添い続けられるだろう。
腰を落ち着けている床板が溶け出し、そのまま底のない沼に沈み込んでいくような感覚を覚える。このまま目を閉じ、何もかも忘れて眠ってしまいたくなる。
水を流す音が聞こえた。立ち上がり、トイレまで戻る。出てきた胡桃の手を取って、また同じ速度でベッドへ。再び、先ほどアニメを見ていた体勢になる。
「お兄ちゃん」
「何」
「ごめんなさい。トイレ、大丈夫って言ったのに」
「あぁ」
俺が気難しそうな顔をしているから、怒っていると勘違いをしたのだろう。恐々と様子を伺うように、こちらを見ている。
「大丈夫」
胡桃の注意を逸らすように、DVDの再生ボタンを押す。幾度も見たシーンが、寸分狂うことなく画面に映る。


<5>

めずらしく、夢を見ていた。
夢の中で、俺は父親と一緒にいた。白い光に包まれた空間に、何故か我が家の食卓があり、二人向かい合って座っていた。
いつもは朧げな父親の顔が、夢の中でははっきりと見えていた。そうそうこんな目鼻立ちだったな、と、妙な納得感があった。ただ、髪の色や耳のピアスが何故だか俺と全く同じもので、そこにだけはリアリティがなかった。
元気か。最近どうだ。と訊かれるので、婆ちゃんが入院して大変だ、と答えた。母さんに任せておけばいいだろう、と能天気に返されたので、じゃあ、胡桃の世話は誰がするんだよ、と睨んでやる。お前さえいれば、もう少しなんとかなったのに、という恨み節を言外に滲ませたつもりだった。
しかし、またもや飄々とした態度で、そんなもん、胡桃自身がやりゃあいい、と言ってくる。いよいよ俺は語気を荒げて、言い返した。
「一人で思うように動けないから、誰かが付いていないといけないだろ」
「なんで」
「忘れたのかよ。病気なんだ」
「覚えてるよ。でもそんな四六時中、ずっと側にいなきゃいけないもんなのか」
「メシやトイレの世話がある」
「誰かに頼みゃいい」
「誰かって、ヘルパーとか?」
「まぁ、そういうの」
「リハビリをやっているんだ。そこまでは頼めない」
「リハビリ?何だそれ」
「ずっとやってるんだよ。少しでも麻痺が良くなって、動けるようになるように」
そのために、俺は学校を辞めなくちゃならないかもしれない。そう告げると、父親は、ふむ、と顎を摘んで、言った。
「じゃあ、胡桃がよくなるのを諦めりゃあ、いい」
思わず俺の口から「おい」と強い言葉が出る。
しかし、親父の態度は変わらない。
「どうしてだ。別に手足に麻痺があっても、楽しく生きることはできるだろう」
「麻痺がなくなった方が、胡桃にとってはいいだろうが」
「そのためにお前の人生が犠牲になるんなら、本末転倒だ」
親父が、俺と同じ金色の髪を掻き上げる。余裕ぶった振る舞いが、憎たらしくて仕方がない。
「本末転倒、ってなんだよ。胡桃に、俺の人生がどう関係するんだよ」
「はぁ?」そこで初めて親父も表情を険しくした。「違うよ。お前に、お前の人生が関係してんだよ」
父親の意図するところがわからず、俺はただ口をあんぐりと開けて、続く言葉を待った。しかし父親はそんな俺を見て、「ははん。さては」と元のしたり顔に戻る。また顎を軽く触って、ぐい、と身を乗り出してきた。
「お前、ビビってんだろ。生きることに」
アップに迫った父親の顔は、影になったからか不鮮明で、まるで能面のように感じた。
そこで目が覚めた。
俺の無意識がどのように作用して、あんな夢を見たのか。よくわからない。
だが、久しぶりに父親と対面できたのは悪くなかった。嬉しかった、とも、懐かしかった、とも違う。自分にもこんな存在がいたな、という漠然とした安心感を覚えた。
久々に仏壇に手を合わせようか。そんなことに思い至って、一気にまどろみの世界から意識が浮上した。
慌てて上体を起こす。ダイニングのテーブルに座っていた。夢と同じテーブルだ。
時計を見ると、すでに十九時を過ぎている。
いつの間に寝てしまったのか。
「胡桃」
立ち上がり、襖を開ける。
胡桃は外したマスクを手に、ベッドに座っていた。こちらを見る顔色に異常は見られず、とりあえずほっとする。
そう、マスクを着用させ、夕食の準備をしようとダイニングに向かったのだ。後追いで記憶が蘇る。
「お兄ちゃん」
テレビを見ると、すでにDVDは終了し、メニュー画面が表示されていた。
「悪い。寝ていた。腹減っただろ」
「お兄ちゃん、電話鳴ってた」
「え」
床に目線を移す。先ほど右手をマッサージした際に置きっぱなしにしていた、スマートフォンがあった。近付き、拾い上げる。なるほど確かに着信の通知が来ていた。ほんの数分前だ。
市外局番こそこの地域のものだが、未登録の番号だ。通知をスライドして開こうとする。と、そこでまた電話が鳴った。同じ番号がディスプレイに表示される。
訝りながらも、通話ボタンを押し、受話口を耳に当てた。
「もしもし」
「あ、もしもし。こちら、S総合病院のシバウラと申します。村井、えっと時雨さんのお電話で間違いございませんでしょうか」
一気に、緊張が身体を走る。婆ちゃんが入院している病院だ。
「はい。時雨です」
「あぁ、よかった。突然すみません。お母様にもご連絡したのですが、なかなか繋がらなかったので……」シバウラさんは、そこで一拍間を空けて、声のトーンをひとつ落とした。「実は、とみ江さんなんですが」
婆ちゃんの名だ。
「お一人のときにベッドから無理矢理出ようとして、床に背中を打ってしまって。とりあえず薬は打ったんですが、その、気持ちが落ち着かないのか、うわ言のようなものを繰り返して、なかなか安静にしてくれないんです」
背中、薬、うわ言。細切れの単語が脳内を縦横無尽に漂う。それらをなんとか繋ぎ合わせるようにして、意味を追った。
病床で、点滴に繋がれながら、苦しそうに暴れる婆ちゃんの姿が浮かぶ。
「また患部を痛めたばかりなので危険ではあるんですが、さっき打った薬との兼ね合いで、鎮静剤もすぐには打てなくて。できればご家族の方に来ていただければ、いくらか安心されるとは思うのですが」
「わかりました。行きます」
「えっ、大丈夫ですか」
「はい」
電話を切る。心配に顔を曇らせた胡桃が目に入る。そこで初めて、思い至った。
しまった。俺が病院へ行けば、胡桃が一人になってしまう。
「お兄ちゃん」
どうする。
「ちょっと待ってな、胡桃」
再びスマートフォンを操作して、母親に電話をかける。反応を待つが、コールが繰り返されるだけだ。諦めて、切断ボタンを押す。
「電話、おばあちゃん?」
「うん」
「おばあちゃん、しんどい?」
「うん」
仕方がない。
「胡桃。晩御飯、ちょっと我慢できるか」
言ったものの、深夜まで及ぶ可能性だってある。それまで一人、空腹に耐えさせるわけにはいかない。
「ガマン、できるよ」
「いや、やっぱり先に何か買ってくる」
「おばあちゃんは?」
「いいから待ってろ!」
思わず出た大声に、胡桃の顔がしわくちゃに歪み、やがて嗚咽と涙が溢れ出た。ごめんなさい、ごめんなさい、と震える声で叫び出す。
謝るな。謝らないでくれ。
お前は何も悪くない。
「すぐ戻る」
財布を引っ掴んで、外へ出た。通学用革靴の踵を踏んだまま、廊下を走り、階段を駆け下りる。踊り場を幾度か折り返し、飛び降りるようして、一階に着地。そのまま建物の外へ。夕闇にくすむアスファルトを、外灯の明かりが丸く切り取っている。
自転車置き場に向かおうとして、鍵を忘れたことに気付く。家の鍵も一緒だ。思えば、玄関も施錠していない。
振り返る。家は三階だ。戻るか。しかし、コンビニはそう遠くない。走ればすぐに帰って来られる。走れ。
勢いよく足を踏み出すと、左の靴が脱げて前方へ飛んだ。地面に当たって一度跳ね、そのまま外灯の光が及ばぬ闇へと転がっていく。
片方が素足のまま、それを追いかける。気が急いてか、また前のめりに転びそうになる。
何をやっているんだ。
頭の中を焦燥が小蝿のように飛び交う。
落ち着け。焦ってどうする。
時間は。今、何時だ。
落ち着け。
靴が見える。
ちゃんと履いていないから、こうなった。
俺がちゃんとしていないから、こうなった。
俺が。

「シグ」

靴を拾う視界に、白いスニーカーが入り込んだ。そこから辿るように目線を上げると、月明かりを逆光に、こちらを覗き込むツクルの顔があった。
精一杯、平静を装いながら、靴を履く。
「大丈夫か」
「誰が」
「お前」
当たり前だろう、とでも言いたげだが、こちらも当たり前だろう、と返したくなる。大丈夫じゃねえよ、見ればわかるだろうが。
無視して立ち去ろうとして、ツクルの傍らに自転車があることに気が付いた。いつも通学に、こいつが使っているものだ。
「自転車、貸してくれ」
考えるより先に、そう頼んでいた。
「なんで」
「頼む」
「理由は」
まどろっこしい。
「婆ちゃんが大変で、胡桃を置いて出なきゃならない。飯がないから、先に買う」
ツクルは意表を突かれたように目を広げた後、いつも無表情な顔をめずらしく顰めてみせた。俺の容貌から何かを読み取るように、不躾な視線を浴びせてくる。いい加減こちらが不快になってきたところで、また口を開いた。
「馬鹿か、お前」
「あ?」
「大変な状況なんだろ。急いで、おばあさんのところへ行けよ」
「だから、行く前に飯が必要なんだ、って」
いいから早く、自転車を寄越せ。怒鳴りつけたい衝動に駆られる。
しかし、ツクルは応じる素振りを見せず、俺に向けて空っぽの掌を差し出してきた。
「何だよ」
「鍵」
「カギ?」
「家の鍵、貸せ。俺が胡桃ちゃんの飯、用意するから」
思考が固まる。
何を言っているんだ、こいつ。
「そんなこと、頼めるわけないだろう」
「どうして。緊急事態だろう。俺なら面識もあるし」
「そうじゃなくて」
「言い合ってる時間が惜しい。鍵」
「でも……」
「おい、シグ」
ツクルは差し出していた掌を伸ばし、俺の胸ぐらを掴んで引き寄せた。思いのほか強い力で引っ張られ、バランスが崩れる。
前のめりに踏み止まると、目の前、至近距離にツクルの顔があった。
「お前、無闇に背負い込むことで、考えることから逃げていないか」
ビビってんだろ。
ついさっき夢の中で聞いた父親の声が、重なって聞こえた気がした。
「投げやりになるな。できることをやれ。俺に頼るのは、そのできることのひとつだ」
ツクルの瞳の中に、不鮮明ながらも、反射した俺の姿が見える。
顔を背けたい気持ちと、それをしてはいけないという予感めいたものが、ごちゃ混ぜになってせめぎ合う。
そんな葛藤の行方を、俺自身が見守るような時間が、しばらく流れた。
電話が鳴った。ツクルが手を離す。病院からかと思い、スマートフォンを取り出すと、意に反して母親からの着信だった。
通話ボタンを押す。
「あぁ、時雨?私だけど。あんた、もしかして今、病院に向かってる?」
「あぁ、えっと」ちらりとツクルを見る。すでに俺から離れた場所で、腕時計を確認していた。「いや、これから向かうところ」
「胡桃は?大丈夫なの?」
「うん。ツクルに頼むつもり」
「ツクル?」
「うん」
「ツクルって、三科さんとこの創君?」
「そう」
「何、あんた達、まだ親交あったの」
「まぁ、少し」
「へえ」
何故だか気恥ずかしくなり、ツクルに半ば背を向けた体勢になる。「で、何」と仕切り直すように聞き返した。与太話をしている暇はない。
「あぁ、そうそう。あのね、おばあちゃん、ひとまず落ち着いたから」
「え?」
「入院する時に持って行った、タブレットあったでしょう」
曰く、それで病院とビデオ電話を繋げ、画面越しに婆ちゃんをなだめたのだという。
「それ、本当?」
「本当よ。私の顔を見たら、幾分安心したみたい。病院の人も、これぐらいで連絡して来ないで欲しいわね」
そんなにうまくいくものなのだろうか。やってみたことがないのでわからないが、にわかには信じがたい。
「とにかく、あんたは行かなくて大丈夫だから。一応、帰りに私が寄るわ」
急いでいるのか、それだけ言い残して、母親はそそくさと電話を切った。
強風が吹き去ったかのように、しん、とした静まりに取り残される。
「何だって」
ツクルの声に振り向く。
「なんか、大丈夫みたいだ」
「病院から?」
「いや、母親から」
「おばさんが病院に行けたのか」
「いや、ビデオ電話でなだめた、って。嘘みたいだろ」
「嘘かもしれないぞ」
どきり、と動揺が身体を走る。
「どういう意味だ」
「言ったままだよ。お前に無理させないために、おばさんが嘘をついた」
確かに、あり得る話だ。
先ほどの焦燥が再燃しかけるが、それを制するように、ツクルは続けた。
「甘えていいんじゃないか。まだ嘘で誤魔化せるような状態だってことだろう。大丈夫だよ」
「そういうわけにはいかないだろう」
「どうして」
「どうして、って……」
「清廉潔白なのは美徳だけれどな。いい加減、これぐらいの毒は飲み込めるようになれ」
ツクルは言った。
誰かに貸しを作ったり。
嘘に騙された振りをしたり。
なんてことはない、怖がるな。
「すぐに慣れるよ。そうすれば、少しは楽になる」
知った口を、と思うが、こいつの場合、本当に「知っている」と思わせる雰囲気がある。かと言って鵜呑みにするのも癪なので、言葉として覚えておくに留めておいた。
ツクルが、おもむろに腕を振った。動きに合わせ、銀色にきらりと光るものが宙に浮いて、差し出した俺の掌に収まる。
自転車の鍵だった。
「今日はお前の家で飯を食うよ。俺が作る」
適当に食材を買ってこい、と言う。
「別にいらねえよ」
「顔色が悪い。栄養のあるものをとった方がいい」
「大丈夫だって」
「お前はともかく、胡桃ちゃんが心配」
そう言われると、返す言葉がない。ほら、と手を上げるツクルが「お前んちの鍵、早く」と促す。
「……ねえよ」
「は?」
「家に、忘れてきた」
外灯がちょうど逆光になり、ツクルの顔はよく見えない。ただ、ゆるゆると上げた手が下がっていくモーションだけが、見てとれた。
その手が、静かに頭に向かう。
「あぁ……」
ツクルが漏らす。僅かながら、笑みが混じった声だった。
「本当、馬鹿だな。お前は」


<6>

「お袋さん、自宅で勤務できるようになったのか」
いつもの進路指導室。盤上で駒を動かしながら、秋葉先生が言う。
「はい。まぁ」
「妹さんは」
「特に変わりなく」
「よかったじゃねえか」
「ひとまずは」言って、頭を下げる。「ありがとうございます」
本当は、秋葉先生が母親に働きかけてくれたことを知っている。俺が学校に通い続けられるよう、何か打てる手筈はないか。できるだけ俺の環境が変わらない方向で調整したい、と。
そして、それを先生が「時雨君にはご内密に」と釘を刺していたことも。よって何も知らない振りをして、ただ礼を言うだけに留めた。
実のところ、先生に言われるよりも先に、母親は自宅勤務の話を勤め先と進めていたらしい。書類作成をメインとした事務に移行したのだそうだ。勤務形態の変更に伴い、幾分手取りは少なくなるものの、俺たちを養えないほどではないとのことである。
「お父さんが残した貯蓄もあるしね」
ざっくりとした金額を教えてもらったが、それなりにインパクトがある数字であった。一生困らない、とはいかないものの、家族四人、向こう数年は心配がなさそうに思える。俺が独り立ちをすれば、さらに余裕はできるだろう。
勝手に背負っていた肩の荷が、するすると落ちていくような気分だった。
だからと言って、問題が解決したわけではない。母親の負担は明らかに増えているし、婆ちゃんの具合も芳しくないままだ。
だが、不思議と以前のような閉塞感は消え去っている。これもまた「気の持ちよう」なのかも知れないが。
「ほう」
秋葉先生が、小さく漏らす。俺が飛車を大幅に横へスライドさせた、その一手への反応だった。相手の動きを誘う思惑があったが、瞬間で勘付かれたようだ。その手には乗りませんよ、と言わんばかりに、王将を金将の後ろに隠される。
「さすがに最後ともなると、仕掛けてくるじゃねえか」
嬉しそうに笑う先生。
二週に一回のペースで続いたこの面談だが、今日をもって最終となる。理由は至極単純で、指導を行う必要が無くなったからだ。すなわち、俺の髪が黒く染まり、耳のピアスが外れたためである。
「まったくよ。髪を黒くしたお前なんて、ただの優等生じゃねえか」
心底つまらない、とでも言うように、先生は吐き捨てる。
「もうすぐ受験生ですから」
と言っても、具体的な進路はいまだ定まっていない。先行きを決めかねている現状では、とりあえず選択肢は多くあるべき。そう思っての判断でもあった。
「そこまで畏ることもねえのによ。やりたいな、とぼんやりでも思えることをやりゃあいい」
秋葉先生が言う。
「そのやりたいと思えることがないんです」
「何もないわけじゃあないだろう。例えばお前、家で普段何してんだ」
「勉強」
「楽しいか」
「いえ」
「じゃあ、駄目だ」首を振る。「他には」
「妹のリハビリの手伝いとか、買い物とか、あと最近は料理とか」
「そういう必要に迫られてやるものじゃなくてよ。なんか娯楽はねえのか、娯楽」
「娯楽」
「将棋は駄目だぞ、向いてねえ」
「あぁ、妹の横でアニメを見ています」
「おう。面白いか」
「まぁ」
ぷひゅー、と噴き出す、胡桃の笑顔が思い出された。
「じゃあ、それだな。お前、アニメ監督になれ」
「そんな単純な」
「単純でいいんだよ、特にお前みたいな考えすぎなタイプはな」大雑把に言い放って、秋葉先生は太い腕をぶん、と振るった。「それより、早く指せよ。お前の番だぞ」
「いえ、ちょっと待ってください」
「何だ。長考か」
「はい」
「何でまた」
「劣勢ですから」
答えると、先生は「ふ」と笑った。早くしろよ、とソファの背もたれに豪快に寄りかかる。
「もうお前に構っている時間はないんだ。仕事があるからな」

夕食の食器を片付け、風呂に入って、自室に戻る。
時刻は、二十一時十五分。
まだ生乾きの髪のまま、ベッドに横になる。スマートフォンでいくつかニュースをチェックし、ブラウザを閉じる。続いて、別のアプリを立ち上げた。登録者がレシピを投稿・閲覧できるアプリで、俺でも出来そうな初心者向けのものも多く掲載されている。いくつか見繕い、ブックマークを付けた。
不意に目蓋が重くなり、スマートフォンを枕元に置いて、目を閉じた。
アニメ監督になれよ、という秋葉先生の話を思い出した。
想像してみる。
自分が作ったアニメがDVDになり、それをあの部屋で胡桃が楽しそうに観ている。
時折、くすぐられたように、ぷひゅー、と噴き出す。
できれば、何度観ても楽しめるものがいい。
そんな作品を、何作も、何作も、作る。
胡桃が飽きることのないように。
楽しく生きていけるように。
考えると、悪くないと思えてきた。と同時に、何故だか涙が滲んできた。

立ち上がり、電気を消す。布団を被り、身体を丸める。
今日という日を終えることに決めた俺は、今一度目を閉じて、蹲る。
だんだんと遠のく意識の中、少しでも安らかな夢を見られるよう祈って、眠る。

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