見出し画像

【掌編】簑沢さんの話をします。

簑沢さんとは高校二年の一年間、同じクラスでした。

簑沢さんは、目立たない女の子でした。
年頃の男子にありがちな、「クラスで誰が可愛いか」といった論争にも、簑沢さんの名前が挙がることはありませんでした。決して、顔立ちが整っていないわけではありません。長い黒髪は艶やかで、白い肌に、おはじきのような黒い目と慎ましい鼻、さくらんぼサイズの唇が載った様は、十分にチャーミングなものでした。多分。そう、多分です。記憶にある彼女の姿はおぼろげで、クリアに思い出すことができません。そういう、言ってしまえば影が薄い、印象に残りにくいタイプの女の子なのでした。

しかし、この簑沢さんに、僕は密かに着目していました。今思えば、着目していた僕ですら、顔を思い出すのに時間がかかるとは、簑沢さんの目立たなさは筋金入りです。もはや「目立たない」という事実が彼女を目立たせていると言っても、過言ではありません。いや、実際は目立っていないのだから、やはり過言です。何を話しているのかわからなくなってきました。忘れてください。

とにかく、簑沢さんの話をします。

簑沢さんは喋らない女の子でした。
ただ大人しいのではありません。本当に喋らないのです。授業で当てられたときなど、必要に迫られる場面以外に、彼女が口を開いているのを見たことがありません。おそらく当時のクラスメイトで、彼女の肉声を記憶している人はいないのではないでしょうか。

ほとんど喋らない簑沢さんなので、友達らしい友達も、僕には思い当たりません。休み時間も誰とも交わることなく、大方の時間を彼女は寝て過ごしていました。そしてその寝方もまた変わっていました。
端的に言うと、動きません。机の上に左腕を曲げて置き、その上に右肘を載せ、そこから伸びる掌に顎先を載せる。その体制のまま、ピクリとも動きません。そして始業のベルが鳴ると、パチリと目を開けて動き出すのです。
あの体勢を維持するには、おそらく相当な筋力とバランス感覚が必要でしょう。華奢な身体からは想像がつかないほど、簑沢さんはフィジカルに優れていたのだと思います。

他にも、おかしな挙動はいくつかありました。

遅刻寸前にも関わらず、優雅に髪を靡かせ、校門をくぐる簑沢さん。
掃除の時間、ハンカチで口元を覆い、椅子の足にこびりついた埃をちまちま払う簑沢さん。
筆箱を榊のように恭しく持ち、追試会場に向かう簑沢さん。

どれもが地味で目立つことなく、それでいて「何か変だぞ」と違和感を抱かせるものでした。

不思議なことに、僕以外のクラスメイトは、その違和感にとらわれることがないまま、華の高校生活を謳歌しているようでした。簑沢さんの生態に関心がない人には、日常の、なんてことはない背景の一部だったのでしょう。そんな彼ら彼女らの平穏を乱すことも憚られ、僕は簑沢さんの放つ違和感を誰にも共有できずにいたのでした。

目立たない、喋らない、動かない。
それに加えて、簑沢さんは笑わない女の子でした。

大人しく、ほとんど喋らない毎日を過ごしているのですから、当然と言えるかもしれません。
彼女の顔には、いつも能面のような表情が貼り付き、その無表情ぶりは徹底していました。テスト中に突然大きな音がしたときも、体育祭でスコールのような夕立ちが降ったときも、「○○君が官能小説を読んでた」なんて噂が出回ったときも、一ミリも崩れることはありませんでした。
感情の起伏をまるで感じさせないそれは、闇が深いと言うよりも、澄んだ光に満ちた、静謐な世界を想起させました。

しかし、ある日の授業中でした。
彼女がその鉄壁を崩した瞬間に遭遇したのです。

突然ですが、『ザマの戦い』という史実をご存知でしょうか。
紀元前二〇二年、ローマとカルタゴが西地中海における覇権を争ったポエニ戦争の中でも、ローマ軍が圧勝を収めた戦いとして名高いものです。当時、カルタゴのハンニバルという名将の活躍により、ローマ軍はかなり押され気味の状況でしたが、そこをローマ軍のスキピオが巻き返し、結果カルタゴから全海外領土を失わせた、そんな「大逆転劇」とも言える出来事です。

ちょうどその日、世界史の授業にて、この『ザマの戦い』にまつわるエピスードが紹介されました。
教壇に立つ先生が、先述のローマ軍の圧勝について述べた後、こんなことを口にしたのです。

「この戦いでカルタゴは見事、『ザマ』を見たわけですね」

教室に、笑いが爆発しました。と言っても、そのジョークが大ウケしたわけではありません。先生がしたり顔でそれを口にした直後、間髪入れないタイミングで、誰だったかが「先生、ハンニバルの敗因はなんだったんですか」と馬鹿真面目な質問をインサートしたからです。
先生も先生で、「なんでしょう。もう一度質問を」と居住まいを正し、それが照れ隠し丸出しだったものだから、さらに笑いは膨れ上がりました。まだ若い先生でしたが、口髭を生やし、厳格な印象のある人だったので、みんな、なおさら可笑しく感じたのでしょう。

僕もご多分にもれず、その一部始終にお腹を抱えていました。
教室中が沸いている様子をなんとなく眺めると、ふと、簑沢さんの姿が視界に入りました。

簑沢さんの顔は、歪んでいました。

他の面々が歯をむき出しにして笑っている中、彼女は固く唇を結び、少し眉間にしわを寄せていました。胸底から込み上げてくる可笑しさを、それが「表情」になる前に、必至で食い止めているように見えました。

僕はなんだか、ガラスの破片を丸呑みしたような気分になりました。

笑えばいいのに。

どうして笑わないのだろう。なにを我慢することがあるのだろう。
簑沢さんだって、笑っていい。当然のようにその権利があるんだから。

僕はそれまで、簑沢さんのことを、ありのままに振る舞っている人なのだと思っていました。人目を気にすることなく、自分が思った通りのことをする。一風変わった行動を、さも当然のようにやってみせるのは、きっとそういう「自然体でいる力」を持っているからなのだと思い込んでいました。

でも、もしかしたら。
もしかしたら、簑沢さんも簑沢さんで、何かしら「自分らしさ」というものを意識し、それに囚われ、縛られているのかもしれない。

そう思うと、なんだかとてもいたたまれなくなりました。
一言も喋らないのも、休み時間中動かないのも、誰とも交わらないでいるのも、「自分はそうじゃなきゃいけない」と考えた末に、彼女がやっていることだとするなら。
そんな「自分」はいらないよ。それを簑沢さんに告げたくて、仕方がありませんでした。

しかし、それを伝える勇気も機会もないまま、高校二年の年は過ぎ、僕は簑沢さんと別のクラスになってしまいました。言葉を交わすどころか、姿を見かけることもなくなり、思いは段々と風化していきました。あっと言う間に卒業の時が来て、僕は県外の大学へ進学することになり、その後、簑沢さんがどうなったのか、気にすることもなくなってしまいました。

彼女のことを思い出すことになったのは、卒業し、およそ二年が経った冬。
成人式の前日、高校の同窓会が開かれた日でした。

その同窓会に、簑沢さんは来ていませんでした。しかし、その日僕らの間は、彼女の話題でもちきりでした。

簑沢さんが、結婚したというのです。

しかも驚いたことに、相手の男性はあの世界史の先生でした。『ザマの戦い』にまつわる一連の振る舞いで教室に笑いを生み出し、僕が簑沢さんの素顔を垣間見る場面を作った、あの人です。

久闊を叙すのもそこそこに、僕は事の詳細が知りたくて仕方がありませんでした。一体いつから。どのように。しかし、その5W1Hを明確に埋められる者はおらず、ただ「あの先生と結婚したらしい」という噂めいた話が、飲み会のテーブルの上を大玉転がしのように行き来しているだけでした。

地元に戻ったこの機会しかない、と思い、僕は成人式が終わった翌日、母校を訪ねました。「お世話になった先生に挨拶を」という名目で、職員室に通してもらいました。あの世界史の先生に会えることを期待しましたが、タイミング悪く、昨年のうちに転勤されていたようでした。

その転勤について教えてくれたのは、僕が三年時に在籍したクラスの担任だった人でした。

「簑沢さんと結婚された、と伺いました」

おっとりした女性で、受け答えがやや怪しく、噛み合わないところがある先生でした。この時も、水を向けてはみたものの、特に期待はしていませんでした。しかし、返ってきたのは思わぬ答えでした。

「そうよ、写真見る?」

どうやらこの先生は、二人の式に出席したらしく、その時撮影した写真が、スマートフォンに入っているようでした。

買ったばかりの端末なのか、先生が写真を出すまでには時間がかかりました。まごまごした操作にじれったさを感じながらも、僕はディスプレイを睨んで待っていました。「出た出た」と先生が口にするやいなや、身を乗り出してそれを覗き込みました。

そこには、純白のドレスを着た簑沢さんがいました。黒く艶やかだった髪は栗色に染められ、毛先に緩やかなカーブがかかっていました。

写真の中の彼女は笑っていました。

照れくさそうに眉を歪めながら、頬に赤みが差していました。心の底から込み上げてくる、くすぐったいような幸せが、抑えきれずに顔から溢れたような笑みでした。

その笑顔に吸い寄せられるように、僕はしばらく目を離せずにいました。

「あなた、この子とは同級生だったかしら」

先生の問いかけに、写真を見たまま、頷きを返しました。

「仲が良かったの?」
「いいえ」
「そう。それはすごいわね」

先生を見ると、穏やかな眼差しがこちらに向けられていました。

「すごい?何がですか」
「だってあなた」くすりと吹き出し、先生は言いました。「まるで自分のことのように、幸せそう」

思わず口元に手を当てると、口角が上がり、目尻に向けて皺を作っていることに気づきました。

「本当だ、すごい」

もう一度、僕は写真の簑沢さんを見ました。

「すごいですね、これは」

何故だか涙してしまいそうな感動が、胸の奥から込み上げ、僕は瞼を閉じました。
ともすれば身体から溢れてしまいそうなそれをどうにかやり過ごそうと、しばらく何も話せず、動くこともできませんでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?