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【短編】SHINONOME〈5〉①


銀座の街を、シノノメと歩いている。

勿論、私たちがプライベートで連れ立つなどあり得ない。これは仕事だ。つまり、シノノメの元に届いたアポイントメントに応じ依頼人に話を聞きに行く、その道中である。

しかし、いささか様子がおかしい。

指定された場所は、駅から十分も歩けばたどり着くビルの一室。にも関わらず、かれこれ二十分以上は散策を続けている。道に迷っているわけではない。駅前で集合してからというもの、シノノメが幾度となく寄り道を繰り返しているためである。

楽器店。
ジュエリーショップ。
PCメーカーの直売店。

店に入っても適当に物色するだけで、何も購入することはない。入り口を出たら、すぐさままた人混みを縫い、右へ左へ。私はその小さな背中を見逃さぬよう、一歩遅れて彼についていく。

「ちょっと厄介だな、これは」

何軒目かの冷やかしを終えた後、おもむろにシノノメが呟いた。

「もしかして、つけられていますか」
シノノメは背後にいる私をちらりと見て、声を低くする。
「余計なことは喋るな。どこで聞かれているかわからない」
「……はい」

やはりそうか。

私とてこの数十分、漫然とシノノメの奇行に付き合っていたわけではない。考えられる可能性を探り、一番妥当と思われるものが、これだ。

その肉声で命じた通りに、相手を従わせることができる。
《オーダー》。
シノノメの持つその特異な能力は、時にそれを意のままに利用しようと、不届きな輩に狙われることがある。

らしい。

私自身、実際にその危機を目の当たりにしたことはない。屈強な男に連れ去られ、脅される。そんなドラマじみた展開は、この身を取り巻く日常とあまりにかけ離れており、現実感が湧かない。今まさに遭遇しているこのイレギュラーについても、一体どれほどの異常事態であるのか、危険度を測りかねている。

「うーん、どうしようかな」

シノノメは黒パーカーのポケットからスマートフォンを取り出し、操作を始めた。幾度か画面をタップして、またポケットにしまう。そして私を見て、言った。

「さらさ」
「はい」
「とりあえず、十万。君の口座に振り込んだ」
「……はい?」

唐突に、なんだ。

「松屋銀座」シノノメは、大型百貨店の名を口にする。「そこでショッピングをしておいで」

詳細を訊ねたいところだが、思いとどまる。道路を挟んで斜め前、向かいの通りに件の百貨店の入口が見え始めていた。
無駄な問答を挟む時間はない。黙って、続く指示を待つ。

「服、靴、鞄。できるだけ時間をかけて、すべて買い揃えろ。試着はするな」
「はい」
「買い物が終わったら、出入りの多いトイレでそれに着替えて、地下道を通って駅まで歩け」
「今着ているものは」
「捨てろ」
「……はい」

一瞬、買ったばかりのワンピースへの執着が芽生えたが、理性で押し殺す。

「最低二回は路線を変えて、家に帰れ。今日の仕事はそれで終わりだ。夕方、僕から非通知で電話をかける」
「わかりました」

カルティエを通り過ぎ、シャネルからヴィトンへ。信号を渡り右に折れると、目的地たる百貨店の入り口が左手に現れた。

「ま、相手の狙いは僕だから。君は気負わず、買い物を楽しんでおいで」

じゃーねー。いつものように飄々とした様子で、シノノメは去っていく。
私は店内に入り、化粧品売り場を通って、上りのエスカレーターに乗った。

それとなく背後を気にしてみるが、果たして本当に跡をつけられているかどうか、わからない。周囲の利用客、店員までもが怪しく見えてくる一方で、案外大丈夫なのでは、と楽観視している部分もある。

一体、どれほどの危険と脅威に囲まれているのか。

前評判のわからぬお化け屋敷に入るような心持ちで、私は婦人服売り場のフロアに降り立った。

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