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【掌編】誰も知らない


月の耳を齧ったのは、宵闇の仕業です。
人目を忍んで逢瀬を重ねる、私のような女を慮ってのことでしょう。

光はまだいい。影を選んで動けば済む。しかし、音となると、そうはいきません。

貴方へ向かって弾む足取り。
貴方を想って高鳴る鼓動。
貴方に触れられ漏れ出る吐息。

何れをとっても、押し殺すなど難しい。
濃紺の空、お天道様面して浮かぶあの月に、いつ気取られるかと肝を冷やす羽目になる。

ですが、月に耳は無い。
宵闇には礼を言わなくてはなりません。

元より、大方日が暮れて月の出ぬ間を宵と呼ぶのですから、機先を制し彼奴の耳を齧り取るなど、容易いことではあったでしょう。
ですが、その心意気が有り難い。逢ってはならぬ殿方との、在ってはならぬ夜を前に、薄明かりの中、紅を引く。そんな境遇の女がいると知り、気を回してくれたに違いありません。

今宵も月が欠けて見えるは、単に宵闇の齧り痕。時に真ん丸に映るそれも、実は満ちてはいやしない。耳の部分を齧られた、丸い形の食べ残し。

なのに貴方ときたら。
宵闇がそこまでしてくれていると云うのに、貴方ときたら。

都合がつかぬ、と嘯きながら、他の御人と隠れて懇ろ。
別れておくれ、とお願いしても、離れ難しと身を寄せてくる。

非道の恋ゆえ、筋や理は通用せぬもの。そう心得てはいながらも、いくら何でもこれはあんまり。
犬畜生にも似た扱いに、いつしか貴方を恨むに至り、私は宵闇に便りを送りました。

この空を見る限り、どうやら引き受けてくれたようです。
昨夜は有明月でしたから、お安い御用であったのかも知れません。

もう、お判りでありましょう。

今宵は新月。

貴方の悲鳴も月には聴こえぬ。
貴方の悲壮も月には映らぬ。

月を喰らった宵闇が、陽を連れてくる暁闇へと変わるまで。
ここで起こることは、誰も知らない。

嗚呼、なんて素敵な夜。

では、まず手始めに。
耳から削いで参りましょうか。


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この作品は、こちらの企画に参加しています。




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