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【掌編】黒板の傷

「黒板を見させていただけませんか」

ヒビヤ青年が言うので、私は旧六年五組の教室に彼を連れていった。児童の減少に伴い、今は使われていない教室だ。扉を開けると、窓からの光に、埃がはらんはらんと舞っていた。
どうだ、懐かしいだろう、と言う私には応えず、ヒビヤ青年は吸い寄せられるように、教壇の方へ歩いていく。彼の目的とする黒板の手前まで近付き、そっと指先をそこに置いた。

卒業生のヒビヤという若者が訪ねてきている。そう連絡を受けたときは、正直誰のことだかわからなかった。
訪ねてきたからには、自分が受け持ったクラスの子だろう。名簿をまとめたファイルを漁ると、確かにヒビヤと読める名前があった。およそ十年前に担任を務めた、六年生のクラスだった。
本当は卒業アルバムも掘り返し、当時の顔を見ておきたいところだが、時間がない。念のためフルネームが合っているか、受け付けた者に確認してもらい、部屋まで通した。
現れたヒビヤ青年は水色のパーカーにジーンズという出で立ちで、いかにも学生らしい風貌をしていた。顔立ちを確認するが、記憶にピンとくるものはない。「こんな子もいたかもしれない」という予感めいたものが、蓄光テープのようにわずかに瞬く程度だった。
「新聞で、先生がこの学校の校長になられると知って。ちょうど自分もこの春から地元を離れるタイミングだったものですから」
就職で故郷を離れる前に恩師に挨拶を、ということらしい。ないわけではないが、めずらしいケースだ。
それだけに、在学中の彼を思い出せないことが歯痒い。かつての教え子を前に、思い出話のひとつもしてやれないとは。
せっかく来てくれたのだから、何かしてやりたい。「黒板を見たい」というやや突拍子のない依頼についても、その気持ちで応じた。

その黒板に触れた手を、ヒビヤ青年は縦横斜めにスライドさせていく。まるでそれが大きな地図で、これまでの道程を確かめているかにも見えた。さすがに奇怪に映り「どうしたんだ」と訊ねても、返答はない。一心不乱と言っていいほど、その作業に没頭していた。
「おい、ヒビヤ君」
呼びかけるとほぼ同時に、ヒビヤ青年はこちらを向いた。
「黒板、新しくしたんですか」
「……え?」
黒板を新しく。何の話だ。
「傷がありません」
ヒビヤ青年が言う。
その言葉に、頭の中で大きな瞬きが起こった。
黒板の傷。そうだ、そう言えば昔、そんなことがあった。
授業中、私がいつも通りに板書を進めていると、ふと黒板に細い傷が入っていることに気がついた。斜めに四本、五センチ程の直線が平行に並んでいる。自然にできたものとは思いにくく、彫刻刀か何かで無理やり削り込んだものに見えた。
かっと頭に血が上り、クラス一同を怒鳴りつけたことを覚えている。誰だこんなことをしたのは。六年生にもなって、やっていいことと悪いことの区別もつかないのか、と。
あの時は、誰か名乗り出たのだったか。さらに記憶を探ろうとして、あぁ、とようやく思い至る。
ヒビヤ青年の、眉根の寄った顔を見た。
「先生、すみません。あの傷を付けたのは、自分です。今日は、どうしてもそれを謝りたくて来ました」
少し震えた声でそう言って、頭を下げる。突きつけられた彼の頭頂部を見て、なるほどな、と思った。
あの日、黒板の前で顔を赤くする私を前に、名乗り出る勇気が出なかったのだろう。それが今の歳になるまで、ずっと引っかかっていた。普段は忘れていても、時折何かの拍子で思い出す。その度疼く後悔や罪悪感に、苛まれ続けてきたに違いない。
このタイミングを逃したら、きっと懺悔の機会は無くなってしまう。そう思い立ち、わざわざこうして母校を訪ねてきた、というわけだ。
黒板を見る。ヒビヤ青年の言う通り、あの日の傷はどこにも見当たらない。きっといずれかのタイミングで貼り替えたか、取り替えたかされたのだろう。
さて、どうしたものか。
十年も前に犯した、罪の告白。その勇気と行動は、賞賛に値するものだ。自責の念から逃れるためとは言え、なかなかできることではない。
だが、素直にそれを讃え、ゆるしを与えることが、そのまま彼にとって良いことなのかどうか。
ヒビヤ青年が顔を上げる。下唇を噛み、審判を待つような、不安げな面持ちでこちらを見ている。
この青年に対して、何ができるだろう。「かつての教え子」にではなく、「目の前の一人の若者」に対して、自分は何を導けるだろうか。

「すまん、ヒビヤ君」私は言った。「覚えていないよ」

緊張に歪んでいた青年の顔が、一気に弛緩した。虚を突かれたのか、小さく口を開けている。
「口ぶりからすると、君は悪戯心か何かで、黒板に傷をつけてしまったのかな。しかし、長年教員をやっていると、似たような話はいくつもあってね。加えて、実際にその傷も見当たらないんじゃあ、思い出すよすがもない」
「いえ、でも……」
「きっと決心を持って、ここに来てくれたのだろうが、申し訳ない。覚えていないもの、思い出せないものをゆるすことはできないよ」
一歩踏み出し、なお食い下がろうとするヒビヤ青年に、私は微笑みを返した。若い二つの澄んだ瞳が、それを受け止めて、僅かに揺らぐ。
しばらくの静寂を経て、青年は「そうですか」と身を引いた。
それでいい。
この先、きっとまた同じような後悔が、この若者を襲うことがあるだろう。その時、今日の私のように謝れる相手がいるとは限らない。もう二度と会えなかったり。誰に対して謝ればよいか、わからなかったり。さらには、相手はいるが謝ってはいけない、なんて世知辛い場面もある。
そんな時、自分で自分を納得させ、あるいは誤魔化し、感情を処理していかなくてはならない。
誰かにゆるしてもらえなくても、自分をゆるせるようにならなくてはならないのだ。
「俺がずっと悩んでいたことを、こちらの気も知らず、ぬけぬけと忘れていた奴がいたな」。そんな風に、今日のことを思い出せたなら。
きっとそれは、この若者の後悔を癒す一助となってくれるだろう。そう願った。
「来てくれてありがとう。新生活、がんばりなさい」
私の言葉に、ヒビヤ青年は真っ直ぐな頷きを返す。

その力強さは、優しく私の心を引っ掻いた。



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