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良く見せたい。から、良く在りたい。へ

なぜか
今まで生きてきた中でいちばん楽しいと感じる40代。
私は、
今とても生きやすくなった。

のんびり自分らしくいられるようになったのが、自分自身が想像していたよりずっと先のことだったのかもしれない、と今は思っている。




自己肯定感の存在

自分のことを本当に知るのはいつなんだろう。
ちいさな子供の頃は、きっと何もわかってはいない。
家庭の中の自分のポジションのようなものを知るのだって、ずいぶんと人付き合いを経験したあとで自分の家庭を客観視できるようになるまでは、とても曖昧なものでしかない。

親に、
あなたはとても賢いね、と言われ続ければ
自分は賢いと思いながら育つだろうし、
あなたは意地悪だね、と言われ続ければ
自分は意地悪なんだと信じ成長するんだと思う。

途中までは何の疑いもなく。

親や保護者にあたる人が放つ漠然とした言葉は、自己肯定感を伸ばす武器でもあり、自分を傷つける凶器にもなる。


あれ?そうでもない、かも…?
なんて疑問を抱くのは、
他人との違いを意識してから
しかも、自問自答を脳内で繰り返し、しばらくたってからのこと。


他の中の己を見るのは、
思いのほかずっとずっと先だ。
大人になって長くたつのに
他の中の己をまだ見ようとしない人だっている。


人の性格って、
もちろん遺伝子や家庭環境が大きく関わっているけれども、
その人そのものの人格や考え方は、
その後の人生経験で形成され続けていくもので、生きている自分自身がいちばん関わっていると思う。

自己肯定感は、
幼い頃から家族や周囲の人によって育まれた本人へ無意識に手渡され続けてきたものだけではなく、
自分の経験や努力によって養われるものでもある。
そうあってほしい。




経験を積む

経験値は、じわじわと救ってくれる。
何でもいい。
あからさまな失敗でも、
目標を達成できなくても、
人を巻き込んで迷惑をかけたとしても、
必ず
心を育てる力になる。


そして、
自分を認めてあげる勇気が出る。

グズグズくすぶって
落ち込んで悩んでも
経験をする、ことは
経験をして思考を重ねる自分、になる。


たとえば、
スポーツや音楽などの大会に向けて練習を積んできたなら、もし結果が思ったものではなかったとしても、それまでの過程である努力した経験は間違いなく残るわけで。

敗北した時の気持ちは忘れられないけれど、
そこまで努力した気持ちも忘れられない。
努力しなかった自分のこともきっと、忘れられない。


どんな結果であっても、努力した過程も努力を怠った過程も、自分に何かしらをもたらしてくれる。
それが努力のほうなら、すさまじい自信になりうることもある。
何年たっても、その時の「努力した自分」は、数ある経験値のひとつとなっている。

自信を持っていいんだよな、
の理由になると思う。




変革は、たいていみんな起こる


おとなしくて言葉を発することができなかった子どもの頃を過ごした私は、
今もなお、上手に話すことはとても苦手なことのひとつ。
それでも、
心の声を文字にすることで、自分の気持ちに自分自身向き合うことができるようになり、
自分の思いを話して伝えることはうまくできないけれど、ひとりきりで心を静かにして文字に書き出すと意思表示が可能になる。

そんな自信のない幼少期〜思春期は、
人に良く見られたい、人目が気になる。
という気持ちがあった。
正確に言うと、
良く見られたいというより、
こう見られたい、が決まっていた。


輪から外れて目立つのがいやだ。
誰も自分に注目しないでほしい。
みんなと同じ並びで、できるだけ目立たずひっそりいたい。

人と何ひとつはみ出さない従順な横並びのような人の中のどれかに見られたい。

そんな思いが強く。

かっこよく見せたい、良い子に見られたい
とはちょっとニュアンスが違う、
人が自分に関心を持たないことを心地良いと感じる子どもだった。
うまく気持ちを伝えられないから、
人と関わることが苦手だったのかもしれない。
特殊かもしれないけれど、
今となっては
こういう人もいるんじゃないかと思ってる。
そして、
こうやって文字にすることで心の中を具現化することができ、自分自身も気持ちの整理がつくのです。


それから、40代になる今まで
たくさんの経験をして、
多くの人と出会い、
考え方が以前より柔軟になり、
うまくできない自分を堂々と笑えるまでになりました。
おだやかだけど、情熱的。
歳をとってから、自分が熱い人だと気づいたり。
知らなかった笑。

根本的な性格は変わらないけれど、
逆境に立ち向かう度胸も少しはできたし
失敗は絶対に良き経験にするって覚悟も持てた
何より
自分のことを知り、欠点を受け入れ
ほんのちいさなことだと気にもせずいられるようになったのは、
まだまだ最近のこと。

やっぱり経験のおかげかな、と。

たいそうなことではなく、
ただ生きてるだけで経験値は積まれる。
何かに気づきながら毎日過ぎて、
何だか
どうにでもなる大雑把な人生を過ごしてるな、とふと思った時、
あら、歳とってた。
という感じ。

いろんな酷い目に遭うと、どれも大したことないと感じるところに行きつくのかも。


転職や結婚、人との出会い別れ、夢を追う、旅に出る、映画や書籍など作品で心が動く、出産…
人によって
変革は、大きなものであったり
日々の積み重ねでそっと知らない間に起こっていたり。


今しんどくしても
先で楽になる
そんなこともあるな、と思っている。
それは、その反対もあるでしょうし。
それでも
人生ゆるやかに平らに伸ばしたら、良きも悪きもみんな同じ分量でしたよ。と




良く見られたい(人目を意識して、こう見られたい)
から、
良く在りたい。
に変わりました。

常に、
良く在りたいと思う自分で在りたい。


人からの見え方はまったく気にしなくてもいい。
見ず知らずの人のための人生は必要なし。
自分のための人生に。

ゆるくシフトチェンジ。
良く在る、ということは
自分自身に正直であるということだよね。


楽に、楽に、
自分のことを考える毎日を
きちんと大事にしようって思うように。

この気持ちは、言葉にしたいと思った。
夢見るようにふわふわだった若い頃の私も、
どんと貫禄のついた傷つきにくい懐の今の私も、
ぜんぶ自分だと。



良いと思える自分を、
自分が決めよう。

そう思っている。



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