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日が沈む瞬間を眺めていると、1日の短さを思い知る

僕が住んでいるところでは、ざっくり西の方角は山になっている。だから、夕方になって日が沈むときには、山の向こうに太陽が隠れていく感じになる。

太陽が山に接するぐらいになったら、僕は太陽からなるべく目を離さないようにする。昼間には動いていることなんてわからない太陽が、山にすっぽり隠れるまでの時間は意外と短い。

体感でどうだろう、2分も満たないのではないか?ひょっとしたら1分ぐらいかもしれない。きちんと計測していないからわからないけど、目を離したらいつの間にか沈んでしまう。

太陽の直径は1,392,700 km。それが1分で山からいなくなる。分速1,392,700 km、時速に変換すると83,562,000km/h。なんとも正確性に欠ける計算だけど、凄まじい速さ。

だから毎日を大切に!というメッセージを口にするには、まだまだ怠惰に生き過ぎている気がする。ただ、日が沈んでから、めっきり薄くなる自分の影や、さっきまで暖かかったはずの「日向だった場所」の涼しさを感じると、どこか寂しくなる。

寂しく思える余裕は残しておきたい。そのために必要なのは、パキパキ最先端レンズよりも、1960年代に作られたレンズ。

この解像度、おぼつかないピント、手に伝わる深めのシャッター音。なんとも心地よい。

「人生を山登りに例えるのが好きな人もいる。わかりやすいけど、僕は解像度の例えの方が好きだ。
(中略)
山を登ることや山を作ることは高さや大きさという指標を意識してしまう。自分をレンズだと思って磨き続けたりエイジングさせていく作業は、指標はないが訴えかけることを探すことに似ている。」

落合陽一「半歩先を読む思考法」

朝はあんなに寒かったけど、夕方歩く頃には心地よい気温になっていた。昨夜は13度ぐらいだった外も、今日は23度。

最近は18〜55mmのズームレンズばかり使っていたし、中でも広角寄りで撮ることが多い。その方が情報量が豊富な気がするし、余白を残しながら撮ることを意識する場面が増えた。

でも55mm固定のレンズで撮ると、「僕が見ている世界はこれくらいだな」と感じる。視野自体はもっと広いし、実際の視野角はもっと広角なんだと思う。でも何かを集中して見るとき、APC-Sセンサー越しの55mmレンズぐらいで見ているんじゃないか?とさえ思う。


だから、意図的にレンズを向けなければいけない。あっちの方向、なんか良いな、ぐらいの感覚で撮ろうとしてもなにも写せない。眼前の風景のどこをみてカメラを構えたのか、意識的になる必要がある。

スマホではなくわざわざカメラを構える理由はこれかもしれない。何を、どのシャッタースピードで、どんな絞り値で、いくつのISOで、どの角度から撮るのか。どこにピントを合わせるのか、ファインダーは覗くのか、EVFで撮るのか。

ひとつひとつの選択が、写真に影響を与える。写真を撮るたびに文脈が生まれる。だから「撮る」という行為が楽しい。SNSに載せるよりも、スッキリとした楽しさがある。


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