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山岡鉄次物語 父母編3-1

《 母の物語1》大震災

頼正は軍に入隊して半年足らずで終戦となったのが幸いし、戦争で命を落とさずにすんだ。

終戦後に出会った頼正と珠恵は、混乱した世の中でも愛を育み、昭和22年に結婚する。
この時、頼正は22歳、珠恵は年上の24歳だった。


☆さて私、山岡鉄次の母、珠恵の物語は大震災から始まる。

小澤珠恵は大正12年に頼正と同じ塩川市で、父辨三と母きくの6人兄姉の末っ子として誕生した。

父小澤辨三は明治37年20歳の時、日露戦争で満州軍に召集されていた。
多くの若い命を散らせたことで有名な、旅順の203高地の激戦の後の召集だったので、終戦後無事に復員することが出来たのかもしれない。

満州軍は明治36年、現地総司令部として設置された。大山巌が総司令官に、児玉源太郎が総参謀長となった。

奉天会戦は現在の中国の瀋陽で繰り広げられた。
日露あわせて60万に及ぶ将兵が満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。
辨三は満州軍の第四軍に属し、奉天前面で展開していた。
奉天のロシア兵がまだ余力のある状態で、総撤退を開始したことにより、日本軍は無人となった奉天に入り、結果日本軍の勝利で会戦は終わった。


明治37年から38年に大日本帝国とロシア帝国との間で日露戦争が行われた。
日露の満州と朝鮮半島の権益争いがもとで起きた戦争である。奉天などの満州南部と旅順のある遼東半島が主な戦場となった。

日本海では日本海軍の司令長官東郷平八郎率いる連合艦隊とロシア帝国の司令長官ロジェストヴェンスキー率いるバルチック艦隊の間で、大規模な艦隊戦が繰り広げられた。
その結果、連合艦隊は海戦史上稀に見る勝利を収め、ロシア艦艇のほぼ全てを撃破した。連合艦隊の被害は小艦艇数隻のみだった。

日露戦争は日本の勝利に終わったが、日本とロシアともに8万人以上の戦死者を出した。日本は戦勝国にもかかわらず、ロシアから賠償金を取ることが出来なかった。
最終的に米国の仲介でポーツマス条約を結び講和した。

辨三は日露戦争が終わると石材加工の仕事につき、明治の終わりに年の若い19歳のきくと結婚し、塩川駅の北側の街に所帯を持った。

珠恵が生まれてから10日も経たない後に、未曽有の大災害となった関東大震災が発生した。
この時、生まれて間もない珠恵は母きくに抱きかかえられ、幼い姉達と竹薮に難を逃れた。
最大の被害を被った東京の隣県でも揺れは激しかった。
珠恵の住む街では幸い被害が少なかったが、県内の他の地域では被害が発生している。
県内で被害が大きかった地域は震源に近い蒼生市などの県東部地方と甲陽市南部である。
地震前の8月末日と地震後の9月 14~15日に豪雨があり、被害をさらに大きくした。
死者20人、負傷者73人、全半壊焼失家屋は2641戸であった。


関東大震災は大正12年9月1日午前11時58分に発生した。マグニチュード7.9と推定されている。
南関東及び隣接地等、広い範囲に甚大な被害をもたらした。

この震災によって190万人が被災し、死者行方不明者は推定10万5千人、全半壊焼失家屋は推定90万戸に及んだ。

関東大震災は昼時の火の使用と重なって、倒れた家屋から出火し、東京と横浜は大火災に見舞われたのだ。
当時の東京は木造住宅が密集していた事で、広範囲で火災が発生した。
当日は台風の影響で、地震発生時に関東では強風が吹いていた。

阪神淡路大震災では建物倒壊家具類による圧死、東日本大震災では津波による溺死が多かったが、関東大震災では火災による犠牲者が多くを占めた。

津波も発生していた。熱海6m、舘山9m、洲崎8m、三浦6mの波が襲った。鎌倉由比ヶ浜では最高9mの津波が襲って300人余りが行方不明となった。

政府機関が集中する東京直撃の災害だった為に、国家機能は混乱を極めた。
国は9月2日就任の山本権兵衛新総理のもと、帝都復興院を設置し復興事業に取り組んだ。

珠恵は悲惨を極めた大震災の年に生を受けて、両親の死、兄姉との別れそして戦争、苦労をしながらも家族と小さな幸せを大事にして生きてゆく。

波乱に満ちながらも明るく朗らかに生き切った、珠恵のささやかな人生はこうして始まった。

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