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山岡鉄次物語 父母編8-5

《守って5》母

☆山岡家に末っ子が誕生する。

昭和32年の大晦日、貧しくても平穏な生活を送っている家族に5人目の子供が産まれようとしていた。
家にはお産婆が来ていて、頼正はお産婆の指示でバタバタ忙しくしていた。睦美はお湯を沸かす手伝いをしていた。

鉄次は母珠恵から、大きくなったお腹の中に赤ちゃんがいることを聞いていたので、産まれてくるのが楽しみだった。母は凄いと思ったが、苦しそうな母の声が聞こえていて少し心配でもあった。

お湯が沸くと、睦美たち幼い姉弟はお産をする部屋から締め出され、襖越しに待っていた。

隙間風の入る寒い家の中、夜も更ける頃に元気な産声をあげて3男の親吾が無事に誕生した。

鉄次は居眠り状態でも聞こえていた。赤ちゃんは元気な声で泣いている。母も大丈夫そうだし、良かったと安心した。

新年を迎える時に可愛い末っ子の誕生は、山岡家のみんなを明るくした。
鉄次も家に赤ちゃんが産まれた事が何だか嬉しかった。

この時の山岡家はとても素晴らしい年越しを過ごしていたのだ。

親吾の誕生日は朝を迎えた昭和33年の元旦として届けられた。


昭和33年、末っ子親吾を囲んで静かな時間が流れた。

この年は岩戸景気が始まったとされている。
岩戸景気とは、日本の経済史上で昭和33年~昭和36年まで続いた高度経済成長時代の好景気の通称である。

この時の何が好景気なのか、頼正家族にとっては無縁のことだった。

大卒初任給1万3千円余で、物価は理髪代150円、銭湯代16円、はがき5円だった。

この頃の平均寿命は男性65歳、女性69歳で、現在と比べると20年も短かった。

厚生省が「栄養白書」で日本人の4人に1人が栄養不足であると発表した。

テレビの普及率は10.4%で100万台程度で、まだまだ高嶺の花だった。

民間から出た初めての皇太子妃、美智子様のミッチーブームが起きた。提灯行列が何度も出るという大騒ぎだった。

9月には台風22号、狩野川台風が襲来、伊豆半島に接近し神奈川県に上陸して、静岡県伊豆地方と関東地方に甚大な被害をもたらした。
死者行方不明者1,269人 、家屋の全半壊3,464戸だった。

東京タワーが完成。正式名称は日本電波塔、高さ333mで東京のシンボルとなり観光名所となっていく。

関門トンネルが完成。全長3,461mは世界初の海底道路となった 。

現在の鉄次は、昔住んでいたあばら屋の在った辺りにいた。
今から数年前に家の都合で駐車場を借りていた事があった。遠い昔、駐車場の近くに住んでいた事がある。流れる小川沿いに記憶をたどってみた。当時のあばら屋が在るはずはないが、大体の場所は分かった。
現在はかなり年季のいった木造の平屋が建っている。南の方角には、台風で避難した事のある公会堂は無く、今はコンクリートの立派なコミュニティーセンターが建っている。
鉄次はこの場所で家族みんなで生きていた頃、まだ幼い時の事に思いを巡らせた。

鉄次は5歳、普段近所の同じ年頃の子供たちと遊んでいたが、保育園に通っている子供たちの遠足の日の事だ。
保育園に通っていない鉄次が1人寂しそうにしていると、母珠恵が微笑みながら紙袋を差し出した。
 
『はい、これ持って近くに遠足に行ってきな。』
 
鉄次の超短距離な一人遠足だ。
家の裏側で袋を開けると、中にはりんごと飴が数個入っていた。
鉄次は母の優しさを感じながら、りんごをほおばって過ごした。

遠い記憶の中の鉄次の一人遠足は、母との思い出の一コマとなっている。

もう一つ深く記憶に刻まれた事があった。

ある日の夜、鉄次が夜遅くに寝ぼけた状態で便所に行く為に縁側に出ると、珠恵が暗い縁側にうつ伏せに倒れていた。何か大変なことが起こっている、寝ぼけてはいられない鉄次だった。
鉄次は母を揺すりながら、泣き叫ぶのだった。
 
『お母ちゃ~ん、お母ちゃ~ん。』


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