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山岡鉄次物語 父母編5-1

《人生刻んで1》惨状

☆珠恵の街の空襲は七夕空襲とも呼ばれた。

甲陽市の気象台の記録には昭和20年7月6日は晴、日中の最高気温は29度。夜間の午後10時の気温は22度とある。

甲陽市が空襲された夜は、盆地特有のむし暑く寝苦しい夜であった。

日ごとに緊迫する防空事情から、防火用水と待避壕の整備について指導があり、日中は隣組で整備作業をしていた。
日中の作業で疲れきって寝付けぬ夜に、爆撃機がやって来たのだ。

東京の西に位置するの甲陽市は日本の大きい内陸都市の一つで、県庁所在地である。終戦間際の戦略的意図があったのか、なかったのか空襲が敢行された。



七夕空襲で市街地の74%が焼きつくされた。
死者1,127名、重軽傷者1,239名、被害戸数1万8千戸以上の大惨事となった。

甲陽駅舎および線路、部隊の兵舎は被害を免れた。

県庁舎などの一部の建物は焼き残ったが、街は見渡す限りの焼け野原となり、ひどい火傷をしてうめく者、そして至る所に死体が転がっていた。


甲陽市は南太平洋から飛来する米軍機のルートであったため、頻繁に上空を通過する米軍機と空襲警報に人々はすっかり慣れきっていた。また前年に空爆を予告するビラの撒布が行われたが、何も起きなかった。
多くの市民は「米軍は甲陽市の上空を通過するだけ、ただの通り道で空襲は無いだろう」と思っていた。

避難に遅れて犠牲になった人も多くいたようだ。


甲陽市には規模の大きな軍需工場も大きな部隊も無い。
市街地の外側に田畑の広がる街を、なぜわざわざ執拗に空襲したのか?

現在の調査では、戦争末期で全国の主要都市は爆撃済であったので、東京に近いそれなりの規模の甲陽市が無傷で残っていた為、たまたま狙われただけだと云う。

全国では空襲の為に多くの人々が犠牲になったが、たまたま標的にされた甲陽市の空襲で千人以上の人がこれからの人生を断たれたのだ。
全国の犠牲者も同じだが、人々はたまたま殺されたのだ。


甲陽市には疎開していた学童が多勢いて、遠く離れて暮らす家族との再会の願いを、七夕の短冊に書いていた。
しかし、子供たちの願いは無残に打ち砕かれてしまった。

都市から農村へと疎開者は激増していた。
最も多かったのは縁故疎開であったが、学童集団疎開もあった。
周囲を山で囲まれた甲陽市は受け入れ側で、当時は空襲の危険はないものと考えられていた。
東京から国民学校の児童約3,800人が、県内各地に集団疎開した。
甲陽市への集団疎開児童は目黒区の国民学校からで8校、1,990名であった。
この後東京に侵入したB29爆撃機によって目黒区は被災し、子供たちの学校は焼失したり、疎開学童の半数以上の家が焼失、保護者を失った児童もあった。


日本軍の小さい施設は無傷であったが、消火に駆けつけた兵士はごく僅かであった。
また市内の学校に駐屯していた陸軍兵士は、ただうろうろするだけで、一部の逃げ出す兵士もいた。
郊外にあった陸軍の飛行場からは、空襲が始まってから終わるまで、一機も迎撃に飛び立たず、一発の対空射撃も行われなかった。

沖縄戦でも見られたように、危機が迫った時の日本軍は民間人の役には立たない、普通の人となってしまうことが解った。
この頃の日本軍は武器弾薬も燃料も不足し、敗戦が濃厚になって、軍隊の統率が破綻していたのかもしれない。


竹槍がB29爆撃機に届くはずもなく、バケツリレーは行われなかった。

それでも大本営は「我々の損害は軽微」と発表していた。
惨状を目の前にしている肝心の甲陽市の人々は、大本営の狂気に嫌気がさすばかりであった。


珠恵たちは街の火の勢いが収まってから、家の辺りに戻ったが、一面の焼け野原となっていた。

激しい空襲を生き延びた事に感謝しながらも、家のあった辺りでいつまでも途方に暮れていた。

この後、珠恵たちは郷里の塩川市へ向かう。


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