見出し画像

『秒速5センチメートル』のラストシーンだけをひたすら拡大解釈する+α

はじめに

 みなさんは『秒速5センチメートル』という作品を知っているだろうか? この作品は『君の名は。』や『天気の子』で大ヒットを飛ばした、新海誠氏のものである。まあ、そもそも全く知らない(興味のない)人はこの記事のタイトルを見ても読もうとしないか。最近では『すずめの戸締まり』が公開され、大きな話題になっている。かく言う私も早速観に行った。
 それはどうでも良いとして、今回は古参の新海ファンにとっては最高傑作と呼び声の高い、『秒速5センチメートル』について語っていこうと思う。ただし、全体を語るのではなく、ラストシーンのみである。なぜなら、全部語ろうとすると文学の論文みたいに長大になってしまうからである。そうなったら、おそらく本編の小説版より長くなってしまうだろう。
 しかし、まずは概観を掴むため、新海誠作品についてざっくりと説明していこうと思う。

新海誠作品とは?

 新海誠氏の作品は、大きく『君の名は。』以前/以後に分けられると私は思っている。「以前」の作品は、どちらかというと暗めで、安易なハッピーエンドにならない作品がほとんどだった。それゆえに、観る人をかなり選ぶ。その代わり、刺さる人にはとことん刺さる。だからこそ、「知る人ぞ知る」みたいな立ち位置をかつては築いていた。そう、『君の名は。』が公開されるまでは──。「以後」についてはまだ作品数が少ないのと、かなり有名になってしまっているのであまり説明はしない(というか不要)。強いて言うなら、「以後」の作品はこれまで培ってきた新海誠氏の持ち味を活かしつつ、かなり「大衆向け」に寄せたシナリオ展開をするようになった。それについて、古参のファン(原理主義者)からは賛否あったのだが、ここで詳しくその話はしない。

 『秒速5センチメートル』は、『君の名は。』以前の作品である。前段の説明を踏まえると、安易にハッピーな終わり方をしないということになる。確かに、この作品はしばしば「鬱アニメ」とか「ビターエンド」とか言われるのを聞く。しかし、自分はそれに異議を唱える。そのための、「ラストシーンだけ解説」なのだ。
 作品を観たことがない人、ネタバレが嫌な人などは、即刻これを読むのをやめて『秒速5センチメートル』本編の鑑賞をおすすめする。……と言っても、未見の方は多分この記事を読んでも何を言っているか全くわからないはずなので、逆に大丈夫だと思う。既に観ている人は、シーンを思い返しながら読んでいただくとより楽しめるかも知れない。
 なお、小説版からの解釈も少し入っていることに注意。


本題

 さて、いつものごとく前置きが長くなってしまったが、さらに定義しておかなくてはいけない部分がある。それは、「ラストシーン」ってどこからどこまでなのか? 問題である。自分的には、『One more time,One more chance』が流れ始めるあたりからだという認識である。第3話、主人公の貴樹たかきがコンビニに入る場面くらい。
 さあ、これで舞台は整った。解説(妄想)を始めていく。

主人公・貴樹の人生

 それまでの物語の流れで、貴樹は無気力感や虚無感を徐々に募らせるようになっていた。それは貴樹の過去の「ある人」との関係に大きな原因があり、それをきっかけとして長い期間(15年)をかけて鬱屈とした感情が醸成されていった。
 その「ある人」とは、幼き日に貴樹が想いを寄せ、そして想いを寄せられた明里あかりのことである。貴樹と明里は相思相愛だったが、お互いにその想いを伝えないまま物理的に疎遠となってしまう。作品の時代設定的にまだスマホがなかった(作中で時間が経ってようやくガラケーが登場する)ため、遠距離でのやり取りは文通しかなかった。家庭にあるであろう据え置き電話でなく「文通」にこだわったのも、貴樹と明里の心を十分に通わせるためのスパイス足り得たのだろう(メタ的には、そちらの方がシナリオを書きやすかったからだと思われる)。しかし、唯一の連絡手段の文通すらも些細なきっかけから途切れ、貴樹は「相思相愛だった頃の明里」や「明里と過ごしていた日々」、つまり過去を想いながらその後の人生を歩んでいくことになる。
 貴樹は明里と疎遠になってからも、異性(花苗)と関わったり恋人(水野)を作ったりしている。しかし、関わった人たちはいずれも「貴樹は私ではなく何か違う、遠いもの(こと)を見ている」と感じ、貴樹とは最終的に疎遠となっている。正確には、「貴樹の懐に入る(貴樹と心の距離を縮める)ことを諦めた」と言えるのかも知れない。要するに、貴樹は過去(明里との日々)の呪縛から逃れられていないために、自ら孤独な状況を作り出してしまっていたのである。当の貴樹自身もそれに気が付いており、関わった人たちに対する罪悪感も同時に募らせていた(小説版の記述による)。
 ちなみに、貴樹の苗字は「遠野」である。他者にとって「遠くとうとい存在」としての名前なのだろうか。これも何か含みがありそうだ。なお、明里の苗字は「篠原」。
 そうこうしているうちに大人になり、貴樹は一人暮らしをしたり就職をしたりするのだが、あまりに重くのしかかったこれまでの呪いからか、生活はすさんでいった。これは映像から読み取った私の感想でしかないが、軽いうつ病とすら言えるほどだったのではないか。精神的な限界から会社も辞めてしまったし、酒浸りの毎日だし、タバコも吸っているし、全てにおいて無気力だし……。
 そしてラストシーンに繋がってくる。貴樹と明里の関係については深掘ろうと思えばいくらでも深掘れるのだが、今回は(実は)それがメインじゃないのでこのくらいで勘弁してほしい。あと、今更ながら、もしかしたら私の明らかな解釈違いとか認識違いがあるかも知れない。あったら申し訳ない。それは指摘してほしい。

ラストシーンの「事実」を羅列

 『One more time,One more chance』は第3話の終盤、貴樹が入ったコンビニの中でうっすら流れている状態から始まる。そして、最初のサビに入ったと同時に『秒速5センチメートル』の文字と夜の街の遠景がバーンと映し出され、曲をメインとした映像が始まる。そこから、一気にラストシーンになっていく。なんかオシャレでいいよね(小並感)。
 映像は、貴樹や明里の現在と過去、あとは物語の回想が歌詞に合わせた形で流れていく。ここで、貴樹と疎遠になった後の明里がどのような状況になっているのかが確認できる。過去を引きずり続ける貴樹とは対照的に、明里は新しい恋人を作って結婚(婚約?)までしていた。おそらく、これを見て「なんて残酷なんだ」とか「やっぱり女は思い出を上書き保存する生き物だ」とか「貴樹が可哀想」とか思った人がいるだろう(いるよね?)。しかし、残念ながら人の姿としてはこれが自然なのだ。初恋の人と結ばれる確率は1%未満という統計も存在する。貴樹と明里も、その例に漏れなかっただけの話なのだ。リアルでも、ほとんどの人は初恋の人と結婚なんてしていないでしょ? 「アニメに現実を持ち込むな!」って人も多いだろうが、この現実味がたまらなく好きな人がいることも忘れないでほしい。そもそも最初から、この作品は「ファンタジー」なんて一言も言われていないし。
 また、映像の中で貴樹と明里は執拗とすら言えるほど対比されて表現されている。孤独な貴樹、恋人と腕を組む明里。陰鬱な表情の貴樹、笑顔の明里……。他にも色々ある。最初に「こんなとこにいるはずもないのに」という歌詞が聴こえる場面、明里は1人で電車に乗っている。おそらく向かっているのは恋人のもとだと思われる(実際、その後の場面では待ち合わせ場所らしき所に到着して恋人と会えている)。そのため、孤独感よりも恋人と会える高揚感がまさっているはずである。一方でその直後、「願いがもしも叶うなら」の場面と「できないことはもう何もない」の場面では、貴樹は都会の雑踏の中で人に囲まれているのにも関わらず、(孤独を感じてなのか)空を見上げている。この対比があまりに切ない。
 そして、歌のラスサビも終盤に差し掛かった頃(「いつでも捜してしまう」の所)、昼の街が遠景で映される。先に述べた通り、一番最初のサビに入った瞬間(つまり、映像が始まる瞬間)に映される遠景は夜の街だ。よって、この数分を通して場面は夜→昼(朝?)になっている。これは何らかを示唆していると考えざるを得ない。
 最後の最後(「急行待ちの踏切あたり」以降)、歌詞通り、貴樹は小田急線が通る線路の踏切を渡ろうとする。すると、向かいから明里らしき人物が来て、踏切の中腹付近ですれ違った。そして、線路を渡り終わった後、お互いに後ろを確認した。小説版では「目が合った」という記述もある。しかし、それが明里なのかは明言されていない(演出的には明里である可能性が極めて高いのだが、この作品においては曖昧なままの方がむしろ良いのかも知れない)。お互いの姿を確認する前に、電車と遮断機が2人を遮ってしまう。それが明里だったのかを確かめるためなのか、それとも別の理由か、貴樹は遮断機の降りた踏切の前で電車が通り過ぎるのを待つ。電車が通り過ぎた後……明里かも知れない女性はいなくなっていた。でも、とても晴れやかな表情をして前を向き直した貴樹は、再び太陽の下で歩き始める。これにてエンディング。何とも美しい終わり方だ。
 ラストシーンを文字で説明するとこんな感じ。それ以外にも気になる部分を多少つまんでおいた。拙くてすまないが、今の自分ではこれが限界。やっぱり本編を観て確かめてほしい。

 ちょっと待って……もしかして、ここまでが前置き? 解釈って次の項目だよね? もう3000文字以上使っているよ(絶望)。みなさん、本当に申し訳ない。次こそ、解釈に入らせていただきます。

ラストシーンの「解釈」を羅列

 まず全体として、この作品も最後の映像も「貴樹の初恋が実らなかったこと」を強調しているわけではないことは述べておきたい。これは、「過去に縛られた一人の男が過去から解放され、前を向くようになるまでの物語」なのである。この解釈に従えば、『秒速5センチメートル』はかなり前向きな物語に見えてくる。自分がこの作品の「鬱アニメ」評に異議を唱えたのも、そういう理由からである。もちろん、そう思う理由はいくつかある。

 1つ目は、夜→昼の演出。これはわかりやすく貴樹の心情の変化を表している。暗かった心が、長き時を経て明るくなった。頭の霧が晴れた。重りがなくなった。いかようにでも解釈できる。他の映像作品でもよくある演出だ。「雨があがって晴れる」のとほぼ同様の効果。
 2つ目は、踏切のシーンが桜の時期であるということ。小説版では具体的に「四月」と書いてある。四月……日本では、出会いと別れの季節。そして、始まりと終わりの季節。あらゆるものの節目になる時期である。この時期設定は、「桜の花びらが落ちる速度は秒速5センチメートル」という過去の象徴(明里との会話)を思い出す以外にも、「貴樹の新たな人生の始まり」を表す比喩なのではないかと自分は考える。
 ちなみに、夜→昼の演出と同じように、映像では冬→春に季節が移り変わっている(回想シーンを除く)。これも同様の効果を生み出しているのだろうと思う。映像が始まる直前、コンビニのシーンでは雪が降っており、寒い冬であることが強調されている。降るものが雪→桜の花びらになったのも、映像としての「華」としての機能以外に、示唆的な演出としてのギミックだったのかも知れない。
 3つ目は、何といっても「貴樹が(明里らしき女性を)明里だと確認せずに前へ進んだこと」だろう。どうしても未練が残っているのなら、子供時代にそうしたように、踏切を戻って追いかけるはず。しかし、大人になった貴樹は、子供の頃とは違う行動をとった。しかも、満足そうな表情すら浮かべている。これは、もう過去との決着をつけたと考えてもいいだろう。
 なお、円盤(BD/DVD)の「特典映像」として『One more time,One more chance』に乗せた、新海誠監督が再編集・再構成した映像がある。それは全体として本編の回想なのだが、本編の方の映像と同時に見比べると対照的な点が散見される。その中で1番印象的なのは、やはり最後のシーンだろう。本編の方の映像と同じタイミングで、貴樹たちが子供時代の小田急線が登場する。大人のときと同じように、貴樹と明里は踏切と遮断機で遮られてしまい、その後に小田急線が通過する。しかし、それは本編ver.とは逆方向から来ており、「子供時代と大人時代で逆の状況になった」ことを示唆しているのではないかと考えられる。若干飛躍した考察な気もするが、監督ならこのくらい仕込んでいてもおかしくはないと自分は思う。

 実は、踏切のシーンにはまだ含みがある。それは、貴樹と明里(らしき人物)がお互いに後ろを確認している時間である。明里らしき人物がどれくらい後ろを見ていたのかは、正確にはわからない。ただ、電車が過ぎた頃には既に姿や影すら見えなかったことから、すぐさま前に向き直って歩き去ったと考えられる。対して貴樹は、長い電車が2本分通り過ぎる数十秒もの間、ずっと後ろを向いて待ち続けていた。これは、「それぞれが人生において過去を見ていた期間」にリンクしていると考えられる。明里は貴樹と疎遠になっても、すぐに前を向いて人生の次のステップに進んだ(次の男に乗り換えたという意味ではない)。貴樹は、明里(と過ごした時間)に15年も囚われ続け、漫然と日々を過ごしていた。しかし、踏切での数十秒(これは貴樹の15年に対応しているのだろう)を経たことによって、貴樹は長年の呪縛から解放された。遮断機が上がる瞬間がクローズアップされるのも、遮断機が上がった後に誰もいなくなって桜が舞うだけの景色が映されるのも、貴樹が遮断機の影から出て日向ひなたを歩き始めるのも、「解放」とか「晴れやかな気持ち」とかの象徴なのではないか。もちろん、貴樹が前を向き直して歩き始めたのも、人生そのものを前向きにやり直し始めたことの象徴であると言える。もはや、このシーンだけで貴樹の半生、そして『秒速5センチメートル』の全てを表していると言っても過言ではない。少なくとも私はそう思う。

 ところで、なぜ踏切の数十秒を経て「解放」に至ったのか? これは極めてたくさんの解釈があるだろう。正直言って、ここについては私も明確に考えがまとまっていない。貴樹は明里が(自分のように)過去に囚われていないかどうか心配だったが、それが解消されたのかも知れない。単純に生存確認ができて……はいないけど、安心したのかも知れない。明里の面影を追わなくなったことを、貴樹自身が遂に自覚したからなのかも知れない。個人的には最後の解釈を推す。
 以上で私の解釈は終わり。この作品はさまざまな解釈があって然るべきものだと思うので、私のものはあくまで一意見として読み流してくださいな。逆に、色々な人の解釈を私が聞きたい。

余談:『One more time,One more chance』について

 『One more time,One more chance』は、『秒速5センチメートル』のために書き下ろされた楽曲ではない。これ以上ないくらいマッチしているので勘違いしている人も多いかも知れないが、元々は『月とキャベツ』という映画の主題歌であった。私は『月とキャベツ』を観たことがないので、どういう経緯でできた歌なのかはわからない。しかし、この歌もな〜んか含みがあるよなあ、と思う。
 「ある男が、亡くなった恋人に対して『今から僕も逝くよ』と語る歌」に自分は聴こえた。これは飛躍し過ぎな妄想じみた解釈だけどね。でも、私は今でもそう考えている。というか、それ以上の解釈が出てこない。
 それはともかくとして、繊細な男(あえて大きく括らせてもらう)の恋愛感情をよく表現した歌だなあと感心した。無駄に壮大な曲調じゃない(ギター1本で映える)のもいい。やっぱり歌詞が良い曲は好きだなあ。勢いでごまかす感じがなくて。いや、壮大な曲が嫌いなんじゃなくて、この作品と歌詞に合っているという意味。むしろ、オーケストラ調の壮大な曲はかなり好きな部類(これは超余談)。
 『One more time,One more chance』だけじゃなくて、天門氏作曲のサウンドトラックも素晴らしい。作品の儚げな雰囲気をBGMで遺憾なく表現している。BGMだけでもあのシーンやこのシーンが蘇る。新海誠監督、もう1度天門氏と協力して作品を創ってくれませんか。


おわりに

 以上で私の誇大妄想は終了。この妄想の羅列で『秒速5センチメートル』をさらに楽しめる人が少しでも居てくれたら嬉しい限り。何かの間違いで新海誠監督本人に届いてしまったら正直言ってめっちゃ怖いが、まあ多分大丈夫でしょう(適当)。
 この作品には、賛否がある。でも、自分にとっては大切なことを教えてくれた、思い出の作品である。おそらく、観る年齢によって感じ方が変わってくるタイプの作品だと思うので、10年おきくらいか、何か人生の大きな節目があった際に再度観てほしい。これは一生ものの作品だと、私は胸を張って言える。

 叶わない恋なんて、そこら中に転がっている。だが、何かを言い訳にして大切な人に大切な言葉を伝えないのはきっと後悔する。下手をすれば一生。それは恋愛以外でも同様。本作の主人公である貴樹は運良く「解放」されたが、現実では解放されないまま終わっていくかも知れない。チャンスをスルーする際には、その極めて大きな後悔を今後ずっと背負っていく「覚悟」がないといけない。実は、やることよりもやらないことの方が遥かにリスキーなのだ。
 私自身も過去を引きずって生きていくタイプの人間なので、貴樹の気持ちは痛いほどわかる。でも、それでも、我々は前に進まなければいけないのだ。時に立ち止まっても、時に後ろを向いても、時に寄り道をしても、最終的には前へと進んでいかなくてはいけない。そうして人生は豊かなものになっていく。……少なくとも自分は、そう信じて生きている。

 最後に、ここまで長文を読んでいただいたみなさん、ありがとうございました。そして、この作品に関わったすべての方にも、感謝します。良い作品をありがとうございました。


 関連リンクもよろしくね。


Twitter(つまらないことを呟いているよ)

アルファポリス(ウェブ小説を書いているよ)


 以上、し らゆ きでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?