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錦秋十月大歌舞伎 夜

 <白梅の芝居見物記>

双蝶々曲輪日記 角力場

 獅童丈も巳之助丈も、歌舞伎座の大舞台に負けない存在感と華があり、清新でよい舞台だったと思います。
 お二人に対しての好評価は、渡辺保氏が具体的にお書きになっていらっしゃいます。
 私は、お二人に今後期待したいことを少し書いて見ようと思います。

 獅童丈への期待。身体の重心が丹田までぐっと下がり、台詞も肚の下から出るような台詞術を身に付けられると、さらに役者ぶりが上がり、古典演目への可能性がぐっと広がるのではないか。そんな期待を持たせられる、役者ぶりの良さでした。やはり、古典歌舞伎の基礎である、舞踊や義太夫節の技術に磨きをかけられ、そうした身体づくりをすることで、ぐっと良くなるのではないかと思わせられました。

 巳之助丈への期待。丈は「芝居の申し子」のような方だと私は思います。舞踊のうまさは、坂東流家元としての自覚のなせるわざでしょうが‥
 芝居の面でも、例えば、スーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』のボン・クレーのうまさは脱帽する程光っていました。一方で、古典の『吃又』の又平もよく演じていらっしゃいました。
 『吃又』のうまさは、例えば二代目松緑という大御所にはなかった器用さに表れているように思います。自然に芝居が運べるうまさがあり、真摯な人物像で、思い入れのある演技が光っていました。

 型物の芝居運びのうまさや、心理描写とも言えるような演技を器用にこなすところは、今の若い役者さん全体に言えることだと思います。
 それは恐らく、映像により客観的に自分や他の方の演技を見て、勉強し修正していくことが出来る時代の賜ではないかと思われますが‥。
 ただ、こうした芸の身に付け方は、苦労して身体に叩き込んだものではないため、無自覚に崩れていくと修正がきかない‥。それを体現している役者さんも、残念ながらいらっしゃいます。

 話がそれました。若い役者さんの中でも、巳之助丈の器用さは群を抜いているように思われます。本興行ではないですが、尾上右近丈の「研の会」で演じた義平次には、驚かされました。芝居をすることが、本当に好きなのでしょう。その上それを器用にこなしてしまうところは、あっぱれとしか言いようがありません。
 ただ、歌舞伎役者として、「うまく」「器用」に演じられることが、必ずしも絶対的な「武器」にはならない。
 そう言えるのが、歌舞伎の難しさだと思います。
 清新な心で、様々な役柄に初挑戦していけるうちは、自分の中で舞台へのモチベーションを保っていけるかと思います。教わったことを必死で再現しようとするうちは、まだいいのです。
 ただ、歌舞伎役者として難しい、四、五十代を乗り切っていくには、もう一つ、自分を支えていけるだけの「志」や「使命感」のようなものが、必要であると私は考えます。
 無器用で、なかなか思うような芝居が出来ないながら、一生懸命それを乗り越えていこうとする、そうした役者のエネルギーや芸境というもの‥。
 そうした努力を積み重ねてこれた役者には、その役者にしか出せない味わいが出てきます。長年の努力は、必ずその役者の年輪となって花開きます。器用な役者が、長年悪戦苦闘してきた役者に対抗するには、人としても役者としても、かなり高い「志」や「使命感」、「美学」や「夢」など確たるものを持っていなければ、どこかで挫折することになりかねません。挫折せずとも、そこで成長が止まってしまうでしょう。

 老婆心ではありますが、そんな思いを持ちつつ、今後の活躍を見守りたいと思います。

菊 

 舞台美術が目を引く、明るい一幕。
 男寅丈、虎之介丈、玉太郎丈、歌之助丈の丁寧な踊りが、清新で、いい舞台を楽しむことが出来ました。
 ただ‥、雀右衛門丈、錦之助丈の踊りは‥
 出からの衣装が、目がチカチカするようで‥。衣装の素材がゴワついているためか、せっかくの熟達した役者の肉体芸で堪能、とうわけにはいかず‥。引き抜いてからも、衣装を含め、お二人の踊りを堪能させる構成にはなっていないよう感じてしまいました。
 踊りの会ではないので、演出面で、申し少し工夫があった方が良かったのではないか‥。と、踊りを評せる分際でもないですが、あくまでも一観客の感想として、少し残念な気持ちの残る舞台でした。

水戸黄門 若手役者への期待

 何故、今『水戸黄門』なのか?
それも、お茶の間でお馴染みの、助さんや格さんまで登場とは‥
 それも、この役者の布陣で‥
正直なところ、怖いもの見たさの観劇ではありました‥
 決して作品そのものに感銘をうけたわけではありません。けれど、リフレッシュした感覚で劇場を後にすることが出来ました。
 どこまでも好々爺の弥十郎丈の黄門様に、大歌舞伎の存在感をみせる魁春丈を中心として、若い役者の皆さんそれぞれに見せ場をつくり、よくまとめられた作品となっていました。また、それを一人一人が、生き生きと演じていらっしゃるのが、気持ちのいい舞台でした。
 今しか見られない、今だからこその作品に仕上がっていると思います。
 歌舞伎の入口に一歩を踏み出そうとしている若い世代の方々が満足して下されば、それでもう、十分だとも思います。

 歌舞伎の見巧者達が納得するような「大歌舞伎」として成り立つ、黄門様を主人公とする戯曲を書ける方は、残念ながら今の日本にはいないのではないでしょうか。かなり高度な歴史認識と、筆力が必要だと思います。
 庶民目線の黄門様を、それでも、よくあそこまでまとめられたと思います。
 ただ、こうした戯曲として後世に残る物にこだわらなくても、演じ手がまだ基礎さえままらない若手であっても、もっと欲を出して、歌舞伎界に貢献することは出来るように思います。
 例えば、今回のように、立回りを一つの見せ場とする芝居において、後世に誇れるような、もっと立回りが見せ場となるような、工夫をする。若手自身に、そんな野心があってもいいのではないか、と私は思います。

 昔の名優は、ご自分でトンボが切れたといいます。
 日本のような「間」の芸境を伝えてきた文化において、古典の大歌舞伎の演目でさえ、「間」で魅せる立回りが風化してきているように、私には思えます。
 もうかなり前のことですが、歌舞伎の立回りと京劇の立回りとの競演があり、それを拝見したことがあります。素人目に見て、かなり歌舞伎の立回りの方が見劣りするように思われました。京劇のように身体の能力を駆使した、アクロバティックな所作を見せられなくとも、「間」が最大限に生かされた立回りであれば、目指すものが全く違うのだからとも思えたのでしょうが‥。その当時から、激しさを強調するとさらに立回りの間が流れてしまうことが往々にしてありました。
 細かいことにこだわらない、役者の大きさや味わいで見せることが優先されてきた結果だからかも知れませんが‥
 そうしたものでまだ魅せることが出来ない若手だからこそ、回りの方々と工夫しつつ、回りの方の見せ場もつくりつつ、「間」で魅せることが出来る立回りを工夫していただきたいものだと思います。
 自分がトンボを切れるようになれば、「間」の取り方を身体で覚えることが出来るようになり、立回りの「間」の重要性を自覚してつとめることが、出来るようになるのではないでしょうか。
 梅枝丈や児太郎丈が阿古屋が演じられるよう、果敢に三味線、琴、胡弓をマスターされているのですから。
 トンボくらい切れる立ち役を目指していただく位の気概を、見せていただきたいものです!!
                        2023.10.9
                       
 
 
 

 

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