『婦系図』『源氏物語』 辰 歌舞伎座 錦秋十月大歌舞伎
<白梅の芝居見物記>
婦系図
泉鏡花の『婦系図』は元々、明治四十年(1907)「やまと新聞」に連載小説として発表された作品です。それが早くも翌年には新富座で初演され、以後新派の代表作として上演を重ねて来た名作です。本作の見せ場である「湯島境内」の場は小説にはなく、劇化されてから鏡花自身によって練り上げられた場面だとされます。
私は以前新派の公演で数回この『婦系図』を拝見しているのですが、この芝居はお蔦の芝居だとばかり思ってきました。おそらく初演時の喜多村緑郎以来代々のお蔦役者が大切に演じ、その魅力が本作の人気の中心を成してきたからで、存在感の大きな早瀬主税を拝見したことがなかったからだと思います。
それが今回の公演で、本作が早瀬主税の芝居であったことに初めて気付かされ新鮮な驚きを覚えました。
本公演では、「めの惣」の場がなく、主税を中心にしたストーリーでうまくまとめられていたということもあるかもしれません。
しかし何より、主税を演じる片岡仁左衛門丈の若々しく義理堅いながら情に厚い魅力的な人物像をその圧倒的な存在感で魅せてくださっているからであるのは間違いないと思います。
純粋で一本気な青年が、自分を泥沼から救い上げてくれた恩人への義理と相思相愛の女性への人情の板挟みに苦悩する姿が大変印象深く胸に沁みました。
本郷薬師縁日の場から、柳橋柏家、湯島境内の場と無駄がなく展開され、仁左衛門丈を中心にその時代の人間模様が活写されていました。それぞれの人物に芝居としての説得性があり人間関係も含め納得できる仕上がりになっていたと思います。
仁左衛門丈は主税を首尾一貫、若く一本気で正義感にあふれた人物として舞台に息づいていて、純粋に義理堅く生きる若者の姿勢の美しさを鮮やかに描き出します。
縁日の場から柏家における恩師酒井との関係性が単なる説明的場面になっていないのは、仁左衛門丈の描く主税を相手に、坂東彌十郎丈の酒井にも血が通った厳しさが自然とにじみ出てきていたからであり、説明的場面に終わらないしっかりとした見せ場になっていました。
眼目の「湯島境内」の場も、今まではあまり印象に残らなかった掏摸の万吉とのやり取りが、中村亀鶴丈の万吉を相手に仁左衛門丈は主税という人物の人間性を説得力をもって描き出しており、大変印象深く心に残る場面になっていました。
ただ、主税の存在感に比べ相対的に坂東玉三郎丈のお蔦には、今までの「湯島境内」におけるイメージという点で、私は違和感を覚えずにはいられませんでした。
玉三郎丈はお蔦という役の型を意識しすぎることなく自然体にかわいい女として演じていらっしゃいました。ただそれが、恋を失って焦がれ死にしていまうようなお蔦像からかえって離れてしまう結果となったことは否めないかと思います。
なす術もなく散っていく儚い恋の結末という悲しさが、新派芝居の見せ所であったのではないかと思うのですが‥
玉三郎丈自身であれば、この場でいったん別れようと、トキがくれば主税ときっと結ばれる日は来る、それまでどんなことがあっても髪結いをして生き抜こう‥と思うのではないか、そうあって欲しい、などと私は勝手に想像をめぐらせてしまいました。
そんな一本気で生命力のある人物のイメージが玉三郎丈には自然と出てきていて、幕切れを除いた場面では儚さを感じさせることのないお蔦になっているように私には感じられました。
「歌舞伎」としての『婦系図』ならそんな作品に改変する意味はあるようにも思われてしまい‥。
そうした感想がいいのか悪いのかわかりませんが‥、決して「めの惣」の場につながってはいかないお蔦であろうと私には思われました。
源氏物語 六条御息所の巻
本年の大河ドラマが『源氏物語』の作者である紫式部であるため、それにあやかった上演なのでしょうが‥。
絵巻物語のように美しい舞台であることは間違いないかと思います。
一方、六条御息所は役者の仁(ニン)として玉三郎丈に最も遠い役どころであることを再確認した舞台でもありました。
なぜ六条御息所の巻でなければならなかったのか‥。
玉三郎丈を中心に光源氏には市川染五郎丈という企画がまずあったとしても、もっと他の巻でいくらでもやりようがあったようにも思われるのが、私としては残念です。
生き霊となってまで正妻に取り付いてしまう深く強い情念の持ち主が六条御息所だと思います。そして『源氏物語』において御息所の「怨霊」は恋敵ゆえのみで葵の上に取り憑いているわけではないでしょう。
皇太子妃であった御息所にとって世が世であれば多くの者にかしづかれる立場であったにもかかわらず、人に見向きもされない存在に落ちてしまっていた。それが、多くの女性の憧れである光源氏の思い人になることで当初は再び日の目を見ているような満足感をもてる関係性を光るの君ときづけていたのだと想像します。
それが光の君の足が自分から遠のいてしまうとともに、正妻の乗る車に決定的な恥をかかされてしまう。プライド高き女性の怨念の凄まじさが単なる恋愛上の嫉妬を越えた激し恨みの情念になっている巻であることに注目すべきだと私は思います。
そうした情念の持ち主であるはずの御息所が、今回はその抜きん出た美しさ以外はどこにでもいるような、幼子をもちながらも純愛に苦しむうら若き女性として描かれています。正妻になれない恋に苦しみ恋しい人を待つことに疲れそんな自分を恥‥、そうした状況から抜け出そうと思い悩む女性。いつの時代にもどこにでもいるようなありふれた女性として本作では描かれます。
生き霊となってまで正妻に取り憑く情念のすさまじさを描こうとは最初から設定されてはいないのだと思います。
そのあげく、そんな女性の思いに振り回されることに疲れた光の君が御息所のもとを去り、本妻の家で生まれた我が子を見て父となる自覚を持ち妻との絆を深めてハッピーエンド‥。‥‥。‥‥。
美しい舞台を見たことで充足感を味わえる観客の皆さまであればそれで十分なのかも知れません。
ただ、役者さんの芝居をあれこれ考えたくなるような舞台を見せて頂けたようにも思えず、私としては大変残念な舞台であったというのが正直な感想です。
2024.10.19