辰 六月大歌舞伎 『上州土産百両首』を少し考えました
<白梅の芝居見物記>
上州土産百両首
今回の公演では、とても素敵な人情噺のようでいてとてもわかりずらかった芝居、というのが私の正直な感想です。
私はこの芝居を初めて見るのだと思います。観劇記録を付けていないので恐らくですが‥。考察の幅が狭いので、作者の川村花菱が下敷きにしたというアメリカの短編小説家オー・ヘンリーの「二十年後」を読んでみました。が、余計混乱してしまったので考えが纏まるのに少し時間がかかってしまいました。
役者さんはそれぞれ健闘されていて、芝居として決して悪いとまでは言えないようには思いました。
むしろ若い方(中村獅童丈、尾上菊之助丈、中村隼人丈等)にはお一人お一人の成長を実感させられましたし、ベテラン陣(中村歌六丈、中村錦之助丈、市村萬次郎丈)はいい味わいを出していたので、このまま終わらせるのも惜しいように思われる芝居であり、あれこれと考えを巡らせてしまっていました。
そこで気になったところを少し書いてみようと思います。
この芝居をわかりにくくしている一番の要因は、牙次郎の描き方にあるように私には思われます。
ただ、ここではわかりにくさが生まれた背景を追求することを目的とはしません。一観客として疑問に思ったことから、作品として破綻を来しているように思われる部分に少し目を向けてみようかと思います。
川村花菱は新派の劇作家として知られた方のようで、今回の演出も新派畑の齋藤雅文氏が担当しています。
私は新派の描く精神世界が実は若い頃から大好きで、描かれる世界についていけない部分があったとしても、役者の魅せる芝居により心が浄化されるように感じられたらそれで満足、というところがありました。
ただ一方で、それだけでは観客の共感を得たり感動を与えたりすることは残念ながら出来ない時代になっているようにも、昨今は特に感じています。
時代を越えて観客の共感を得るには、観客の心に残る人間としての「ドラマ」がしっかり描かれていないと、古典として演じ継いでいくことは難しいように思われます。
ある時代特有の、情操に訴えかけるだけの作品に終わってしまっていてはいけないのではないか。
時代を越えても尚、演じる役者が考えさせられ演じ方を深めていけるに足る戯曲でないと、特に、こうした世話物的作品は再演を繰り返すことは難しいように思われます。
よく演劇には「劇的葛藤」が描かれていなければならないというこが言われます。小説では行間で読者に考えさせることが出来るかどうかがその作品の良し悪しを決めていくのかと思いますが、演劇では観客になんらかの問題提起をするような、考えさせる「劇的葛藤」がしっかりと描かれているかどうかが、やはりその作品の出来不出来を決めるように思われます。
この作品は、正太郎と牙次郎の関係性のみでなく、金的の与一、みぐるみ三次との関係性にまで視野を広げた芝居となっています。
ただ、オー・ヘンリーの作品を下敷きにしているということを念頭におき、初演(昭和8年)では六代目尾上菊五郎の正太郎、初代吉右衛門の牙次郎で上演されていることを思えば、やはり、正太郎と牙次郎の関係性を中心にもともと書かれた作品なのだと思います。
そうした前提で、ここで改めて考えたいのは、「正太郎」に対する「牙次郎」という役の名前です。
名は体を表すと一般的にもよく言われますが、劇作家(脚本家)が役名を付ける時にその人物の名前に何らかの意味を持たせているであろうことは、まず考えて見る必要があるように思われます。
牙次郎という役名からすれば、この役は当初、今演じられているようなトゲのない朴訥で純真無垢、小人ながらまっとうに生きようとする健気な若者、そんな人物として作者が描こうとしていたとは、私にはとても考えられません。
どこでどのように変わっていったのかと言うことは、今ここで問題とはしていません。
ただ、もともとこの作品の牙次郎が、今のように兄貴分が父性をかきたてられるような人物として描かれてはいなかったとして、一方芝居自体の展開は作者のイメージした「牙次郎」の脚本通りのままであったとしたら‥
作者が意図した芝居の流れはそのままで、牙次郎が当初の人物像からか乖離したまま演じ継がれているとしたら‥
正太郎と牙次郎の関係性、それぞれの内に起こる劇的葛藤‥など、演じ手の中にも、見る側にも、破綻が生じてくるのも無理はないように私には思えてしまいます。
子供の頃の培われた情操というのは成長してからも、その人に大きな影響を及ぼすものであることは確かでしょう。
幼なじみ、家族、近所の方、先生‥。様々な人との交わりによって人は何らかの影響を受けながら人生を歩んでいきます。
とりわけ幼い、あるいは若い時分の出逢いというものは、その人の人生に非常に大きな影響を及ぼすものだと、私は感じます。
そうしたことを思い起こさせてくれる、そうしたことに思いを致すことができる作品というものは、いいものだと私は思います。
人によっては説教くさく感じるかも知れませんが‥。
いつからでも、どこから、どんな形であったも、人は這い上がっていける、やり直せる、まっとうに生きることが出来る、そんな自らの生き様を人に示すことが出来る。
そんなことに目を向けさせてくれる作品は、いつの時代であっても、とても貴重なものだと、私には思えます。
オー・ヘンリーの、とても短い小説を読んでも、二人の幼なじみとしての思いや「生き様」に関して様々な想像がかきたてられます。
『上州土産百両首』が正太郎を中心に「人情噺」的な側面を強調して脚本を練り直すのか‥。幼なじみ故のいい意味でのライバル心から生き方を見つめ直していく作品にしていくのか‥。「この人物だけには認められたい」「信じてもらえる人物でいたい」という「男の生き様」の方を強調していくのか‥。
どれが正解ということでもないように思います。
演じる役者によっても、芝居の作り手や観客によっても、どういった方向へ練り上げていけばよりよくなっていくのか、という点では様々な可能性があるように思われます。
ただ、歌舞伎として一番大切と思われるのは、どのような「美学」を打ち出せるのかということでしょう。
この作品によって、観客に何を受け取ってもらいたいのか。
人間としての「美学」を描こうとする強い思いがあれば、作品として大きく成長させることが出来るのではないか。
そんな考えに至らせていただいた観劇体験となりました。
2024.6.26
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