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上方芝居の魅力 辰 大阪松竹座『小さん金五郎』<附 新橋演舞場 七夕喜劇まつり>

<白梅の芝居見物記>

 小さん金五郎

 「関西・歌舞伎を愛する会 結成四十五周年記念七月大歌舞伎」において今回上演されました。
 中村鴈治郎丈を中心とした上方ならではの芝居で、脇の役者さんを含めた上方らしい色合いでまとまっていて、面白く拝見することが出来ました。
 上方色の濃い芝居でこれだけのものが上演できるのであれば‥と、さらに観客としては欲張りになってしまいますが‥。今後のさらなる期待を込め拝見して感じたことを少し書いて見たく思います。

 なんといっても鴈治郎丈の金五郎がいい味わいをみせておられ秀逸でした。上方芝居で言う「ぴんとこな」というのは、こうした芝居をいうのかと初めてわかったようにも思われました。
 江戸の粋(イキ)とは違った上方の粋(スイ)。
 全体的に上方らしさが出ていた芝居の面白さを堪能出来たからこそ感じることが出来たようにも思われます。
 先々代の鴈治郎丈の芝居を私はしりません。上方歌舞伎はすでに絶滅寸前のように言われていた頃から芝居を見始めましたので、今こうした芝居を拝見することが出来て喜びもひとしおです。

 私は大阪新歌舞伎座で實川延若丈の金五郎を拝見したことはよく覚えています。当時の延若丈は台詞に少し難があり、芸風もどちらかと言えば粋というより苦みがきいてドスのきいたような役どころの方が仁にあった役者さんであったと思います。決して面白くなかったわけではないのですが‥。
 今回鴈治郎丈の金五郎を拝見して、今時の嗜好からすれば鴈治郎丈の方が金五郎の仁にあっていてこの作品の魅力が伝わるように、私には思われました。

 金五郎が良かった分、この芝居がもっと面白くなるためには‥などということをしきりに考えてしまいました。その鍵は、やはり小さんがどれだけ魅力的に演じられるかにあるのではないか‥。そんな風な結論に達しました。
 小さんは会ったこともない許嫁への操を守るために、男嫌いを装うという設定になっているのでしょう。他の男性につけ込む隙を与えないさっぱりとした上方の女伊達風な魅力が、男嫌いということを台詞で説明しなくても感じられることが求められる役柄のように私には思われます。
 金五郎との立回りも本来は、女武道的というよりむしろ歌舞伎が本来持っていた曲芸的な身の軽さすばやさで見せるような、そんな芸風の上に成り立っている見せ場のように思われました。
 こうした芝居に「芸の工夫」がもっとなされていくことが、上方芝居を復興していく上で大きな鍵になってくるように私には思われます。

 今回、上方勢の中において健闘してらしたのが中村隼人丈でした。本年3月に南座での花形歌舞伎で上方芝居に取り組まれた成果がはっきりと出てきているように思われました。さらに一役一役大切に精進を重ねていかれることを期待したく思います。

 中村壱太郎丈のお糸。こうした芝居ではどういった性根をもった人物を造形することができるのか、ということが歌舞伎役者の腕の見せ所のように私は感じます。六三郎への思いが小さんや広瀬屋新十郎の心を動かすような性根をきちんと感じさせないと、ただどこにでもいる自分の身の上を嘆くことしか出来ない恵まれないだけの女になってしまいます。それでは、恋を争う姿に魅力もでないし、幕切れの風情も引き立ちません。
 心理描写を越えた歌舞伎役者ならではの「芸」で、如何にその人物を魅力的に描出できるのかが求められる役どころのように私には思われました。

 上村吉太朗丈。ここのところ新作歌舞伎でのびのびした演技を見せていましたが、今回の役どころ(千種屋娘お崎)は丈にとって新鮮味が感じられない役どころだったかもしれません。ただ、歌舞伎芝居に”慣れ”は禁物であること。それは先人達の戒めでもあるかと思います。如何に娘役を瑞々しく演じられるのか、ルーティーン化せずに常によりよくしてくための目標を持って、芝居と向き合う姿勢がこれからは求められるように感じられました。

 中村扇雀丈のお鶴には少し不満が残ってしまいました。『汐汲』ではベテランならではの魅力ある舞踊を見せて下さっていたのですが‥
 私は今回、中村寿治郎丈の女形(千種や女房お縫)を初めて見たように思います。上方風の風情や色が自然に出ていて敵役をなさる御仁とは思えない芸の基礎を持っていらっしゃることに失礼ながら驚かされました。
 お鶴のような役どころも、世話物におけるきちんとした女形の味わいが感じられた上で、くだけた芝居を見せていただいた方が何倍も見応えがあったように私には感じられます。

 唐木の看板

 新橋演舞場七月公演「七夕喜劇まつり」では、藤山直美さんを座頭として歌舞伎役者が回りを支え、今までとはまた違った喜劇を楽しませて頂くことが出来ました。
 この『唐木の看板』に座頭は出演していませんが、市村萬次郎丈、中村亀鶴丈を中心に今後に期待が持てる芝居を拝見させて頂くことが出来ました。

 この芝居は内容としては非常に単純である分、役者の「芸」で見せる芝居であるかと思います。なんといっても市村萬次郎丈のお浪がいい味わいを出していました。
 今回、目を引いたのが市村竹松丈と市村光丈の兄弟です。生き生きと演じていらっしゃったのが印象的でした。菊五郎劇団の大一座ではなかなか存在感を出す機会もないでしょうが、お父様のように劇団のみならず歌舞伎界にになくてはならない味わいを出せる役者として成長されていく可能性が感じられ、今後の研鑽に期待したく思います。

 澤村宗之助丈の鳶の男も江戸前の雰囲気をよく出していい芝居をされていました。こうした喜劇に一座することで、喜劇的な芝居からも多くを吸収してさらに芸の幅を広げられ磨きをかけていくいくことに期待したく思います。

 亀鶴丈は上方風の商人でいい雰囲気を出しておられました。『はなのお六』の竜五郎の親分も大きさが独特の愛嬌もあり魅力的でした。
 亀鶴丈は舞台も大きく色もあり、上方の芝居に存在感を増して来ています。が、魅力が増している分もっと「芸」に対して貪欲であってもいいように、観客としては欲張りになってしまいます。
 『唐木の看板』でも、江戸から東海道を引き返すところなど、「走りの芸」とも言えるような、その身体表現だけで見物(ミモノ)となるような芸の工夫がなされるようになっていけば、さらに存在感を増していかれることは間違いないように思われます。
 上方の芸において、身の軽さ、間を生かす軽妙さというのはなくてはならない「芸」を支える要素であるように私には思われます。そういう点でも、さらなる研鑽を期待したく思いました。

 はなのお六

 藤山直美さんの喜劇における存在の大きさ、その芸というものは、今の日本の舞台芸術全体においてももっと評価されてしかるべきものだと私は思います。
 喜劇的芝居のうまさだけではなく、その描き出す人物像はとても魅力的で、彼女を生かせる作品がもっと世に出てきてもいいのではないか、と私は大いに期待しています。

 今回は、藤山さんを中心として、歌舞伎役者が回りを固めたことにより手堅く芝居を見せるという要素の強い作品に仕上がっていました。
 ただそのため、藤山さんと大津嶺子さんを除いて歌舞伎役者以外の出演者が、いわゆる「玄人芸」を身に付けているとは言いがたいため、一座としてはまとまりを欠いたような座組になっていたことは否めませんでした。

 明治期に起こった新劇運動の流れの中で、玄人の役者を排除し脚本家や演出家の意に沿う素人役者が求められました。そうした流れに沿って日本の劇界が動いてきたため、日本の芝居において「玄人芸」が衰退してきてしまったことは否めないと思います。
 その結果日本の演劇界においてはTVで名の売れた役者さんを中心に据えて上演しないと集客出来ない、といった状況を今もって打破することができていないように思われます。

 ミュージカルなど、演劇的なテーマだけでなく観客を堪能させる舞台芸術として別の要素で見物を楽しませないと観客を集めることはなかなか難しい。それはいつの時代においても同じかもしれませんが。
 そういった意味で、芝居において「玄人芸」で魅せるということも決してないがしろには出来ない要素であろうと私は考えます。

 今回、春本由香さんなど抜擢を受けていますが‥。
 女形芸の技術を身に付けていたからこそ新派の女優であった水谷八重子さんなどのように、歌舞伎役者とも対等に舞台をつとめることが出来たということは、一座した女優さん皆さんに心に留めておいていただきたいことと思います。

 また、歌舞伎役者の皆さんにも、役者の芸で如何に楽しませることが出来るか、藤山直美さんに学ぶことは大変多いように私は思います。
 台詞や仕草の”間”の面白さ。笑いが単なるギャグやおふざけに堕ちずしっかりした芸に支えられ、いわゆる”普通”の視点からでは見えてこない世の中や人に対して、別の角度から捉えたり考えさせてくれる視点を与えてくれる。そんな上質な喜劇を楽しませて下さっています。
 舞台の上で観客を引き寄せるそうした玄人芸は、喜劇の非常に高等な文化性を見物に堪能させることが出来る大きな武器であると私は感じます。

 直美さんの今の芸境を堪能させていただいていると、彼女に演じていただける現代社会を反映した、もっと多くの上質な喜劇作品が生まれてくることを、私は期待せずにはいられません。
                     2024.7.30        

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