美術館に行けない。
美大出身だというのに、私はなかなか美術館や展示に行けない。正確に言うと相当に億劫であり、むしろある程度の拒絶感すらある。
お金がかかるから、仕事が忙しいから、子供が生まれたからと。それっぽい理由はあげることができるのだが、最近になって改めて気付かされてしまったことがある。絵や作品の前に立った瞬間、その作品が素晴らしければ素晴らしいほど、耳元で「お前、下手くそで逃げた奴だな」と笑われている気がするのだ。
私は人の作品を見るたび、未だに嫉妬をしているらしい。そんなことに気づくのに、大学を出て10年もかかったのだから、なんとも目も当てられない。
当事者という苦行
もちろん、作品を見て「わっ」と沸き立つ感動がないわけではない。美しい絵も、飲まれるようなインスタレーションも見れば高揚するのは変わらない。
だが美大予備校〜大学時代の「作品を作るための参考」として作品を見てしまう見方がいまだに抜けず、いち鑑賞者としてうっとり鑑賞に浸ることもできず、かと言って今制作中の絵や作品があるわけでもない私は、人の作品を見れば見るほど一方的に気分が落ち込むのだ。
もう絵筆をしばらく取っていないくせに嫉妬するとは随分図々しいというか、もはや烏滸がましさすら感じて時折り恥ずかしくなる。
またこれは美術に限らず、何かしらの当事者であったり、プレイヤーに立った経験がある人にも通ずるものがあるように思う。
本気で高校野球をしていた人が社会人になり、素直にプロ野球を楽しめなくなるとか。医療関係者が医療ドラマを見れないとか、そう言ったものと何ら大差はないのだと思う。
だが、この嫉妬心は仕事で埋められるほどやわでもないから余計にタチが悪い。断捨離ブームに乗ってかなりのものを捨てまくったくせに、大量の絵筆とよく使っていた色の絵の具だけが未だ段ボールに仕舞われているのは、心のどこかで創作を「降りた」と認めたくない自分がいるからだろう。
それがどうにも恥ずかしくて、でもどこか憎めないでいる。
創作と渇き
最近、立て続けに琴線を揺さぶられることがあった。一つが巷で話題の「ルックバック」の原作を読み返したこと。もう一つは、地元の予備校から大学までを共にした友人の個展を見に行ったことだ。
まずルックバックという作品について、人によって様々な見解があるとは思うのだが。一創作に関わってきた身として吐きそうになる程辛い内容であった。それが何なのか、たまたま考える機会をもらったので下手なりに云々と考え込んでうっかり睡眠時間を削った。それで出た答えに、私はいよいよ辟易とした。
自分の欲しい表現は一向に手に入らないという「渇き」を死ぬまで抱えながら、ことあるごとに周囲の才能に難癖をつけて己をいなしつつ、たまにもらえる自分の手癖への褒め言葉に縋りついて正気を保つので精一杯。
しかしふと我に返ってその浅はかさと惨めさ、現実の自分の実力に絶望しながら、それでも何かを作ることから降りられない地獄の中にいる。
仕事や生活の充実感でどうにか覆い隠そうとしていた「それ」を、治りかけの瘡蓋を汚い手で乱雑に掻きむしるように、10年ぶりに眼前に突きつけられた。それが私にとって、ルックバックという作品の断片から受け取った何かであった。
それが本当に堪えてしまい、私はしばらく落ち込んだ。作業的な業務を進んでこなしてどうにか日常に戻ろうとしたのだけれど、そうは問屋が下さなかった。
友人の個展
しかしそんなタイミングで、友人の個展の話がインスタグラムを通じて舞い込んできた。画面上ではあるものの、予備校時代から変わらない色彩はより彼女らしさを深めているように見えて、自分の中にも彼女の絵に対する憧れがまだ残っていて、同時に大学卒業後も絵を描き続けているという事実そのものが心底恨めしかった。
開いてしまった傷口に、どうせならありったけの塩を塗りこんでやろうと花束を持って個展に足を運んだ。よくよく考えると、産後初めて足を運んだ展示会だったような気がする。
結果としてではあるのだが、これが本当にいい荒療治になった。
展示は素晴らしくて、気になるなと思っていた作品を生で見れた時、私は久しぶりに「好きだな」という素直な感情が湧いた。産前産後であまりに時間が空いたせいか、生の作品を見れること自体にも高揚できる自分がいた。
また数年ぶりに本人にも会えたのだが、立ち話をしていると大学時代に戻ったような気持ちになり、ぽつりぽつりと話をしていく中で自分の胃の底にへばりついて発酵していた妬み嫉みの塊がシュワシュワと泡を立てて変化し始めたような気がした。
彼女も彼女なりに、ずっと深い渦の中で絵を描いていることが感じ取れた。
決して美しい10年ではなく、霧の中を歩くような、苦虫を噛むような時間が大半だったのではないか。そんな妄想を都合よくしてしまうのは、自己防衛のために人の才能に難癖をつけようとする習性そのものであるようにも思えたが、もうこちらとしてもなりふり構っていられないので良しとすることにした。そして思わず、最近ずっと思っていたことを口にした。
「なんか、久しぶりに絵を描きたいなって思ってるんだよね」
今思えば顔から火が出るほど恥ずかしいぼやきなのだが、そんな生ぬるい私の発言に彼女は「え、いいじゃん!」と飛び切りの笑顔を見せた。私は脳天に一気に血が上るのを感じて、私は自宅に戻り、埃を被りかけていた木製のキャンバスに真っ白な下地を塗りつけた。
赤く彩られた爪の隙間に、下地の液が入り込んで数日は取れなかった。
降りられないから、作るしかない。
もの作りや創作は、手を動かしたことがない人たちからすると「才能」という何かから湧き出るようなもので、時には「贅沢」のようなニュアンスすらあるかもしれない。
しかし目にみえる作品を生み出す時、一番最初に難癖をつけてくる鑑賞者はその作家自身である。それは痛みを伴う劇薬のようなものであり、拭っても拭っても晴れることはない霧のようなものでもある。他人からの酷評より、それに耐えかねて筆を折る人も少なくない。
そんな時にお金を稼げるようになったから、立派な役職に就いたから「こっちで良いや」とか。愛する家族がいるから「これで十分だ」とか。そうやって自分を誤魔化そうとしても、けっきょく腹の底に居座る醜い何かが定期的に這い出てきてしまう。それと、これは別物で、決して埋め合わせ合えるものではないのだ。
私は久しぶりに、その面倒な自分に少し付き合ってやろうかなという気分になった。多分、今はそういうタイミングなのだと思う。
ずっと一つのことに向き合える人もいるだろうけれど、私はひどい飽き性で、興味関心がすぐに散ってしまう。世間ではずっと向き合える人が美徳とされるかもしれないけれど、私はフラフラとあちこちに足を運びながら、その場その場で自分の欲望に向き合うしかない。
それがなんとなく今でも嫌なんだけど、もうしょうがないこととして、30年ちょっとかけて引っかかり続けた小骨が喉をつるりと通り抜けたような、そんな気がした。
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