見出し画像

欲望の分別をつけるということ。

「「「いいな〜〜〜!」」」

カフェテリアで、黄色い歓声が響きわたる。薄くチェック状に編まれた丹念な白いクロスがかけられているテーブルに、色とりどりのケーキが並べられている。その鮮やかな茶菓子たちが霞むほどに会話は盛り上がり、スマホの画面がテーブルの上を行き交っていた。

土曜日の日差しの柔らかい昼下がりに、カフェで集結した彼女らはどうやらグループの中の1人が結婚したらしく、その報告とこれから買う指輪の話で大盛り上がりしているようだった。

彼女らの声色の方がよっぽど宝石みたいだなと思いながら、わたしは手元の本を机に置いて残りのコーヒーに手を伸ばした。

少し離れた席から、思い思いに話に花を咲かせている彼女らの顔をまじまじと(バレない程度に)眺めていると、ふと気づくことがある。表情が、佇まいが、人によって大きく異なっていているのだ。ぱっと見は一つの話題で完全に意気投合している一枚岩に見えるのに、よくよく目を凝らしてみると、品がない物言いかもしれないがどうにも歪なパッチワークのようにも見えてくるから不思議だ。

1人は純粋な憧れの目をしていて、1人は「いいなあ」と言いながら目が据わっていたりする。もう1人は嬉しそうな感情を出しつつも、同時になんとも言えない複雑性を孕んだ感情が漏れ出しているようにも思えた。そのお互いの微妙なズレを勘づいている子と、言葉の通りに意味を飲み込んでいる両方の子がいた。

あれは、揺れ動かされているのだな。

わたしは遠巻きに、頭の中でボソリと言葉をこぼした。これをネットの掲示板に書き込むならば指輪のブランドランキングとか、値段がどうとか、そもそもグループのうちの誰が結婚しているのかとか。そういう女の同士のポジションを巡っての格付けトークだと言えば嬉々と喜ぶ人がいるだろう。

でも決して彼女らの仲が悪いとか、女同士の会話は建前と本音があって怖いとかそういう話をわたしはしたいわけではない。別にこういう話は、例えば出世とか年収とか車の話題になれば男にだって同様のケースは多々あるし、はっきり言って性別も年齢も関係ない。

これは、全て反応だ。

周りの人間は移し鏡だとはよく言ったもので、自分というものは、自分だけでいるだけではどうにも朧げで、掴みどころのない空気のようなものになってしまう。それが誰かと話した時、触れ合った時に「好きだな」と思ったり「わたしと違うな」と思ったりして、自分という境界線が徐々に輪郭を表してくる。

人のどんな話に、自分が揺さぶられるのか。

この震源地に目を向け、自分という輪郭をあらためて見直すという試みについて、今日は少し筆を進めたいと思う。

揺さぶられ始めた思春期

30代になって気づいたことがある。どうにも「心を揺さぶられないもの」が出てきたのだ。

揺さぶられると一口に言ってもさまざまなものがある。何か素敵なものを見て良いなと思ったり、こんなふうになりたいと奮起させられることは心を揺さぶられていると感じる。一方で誰かに対する僻みや、劣情や、なんで私じゃなくてコイツがという泥だらけの感情も同じく揺さぶられている様に感じる。

本当にこの震源というものは場所も対象も度合いも、時々によって大きく変わり続けるのだけれど。昔は当たりを引く頻度というか、感情が水蒸気爆発する回数がものすごく多かった様にも思う。それは地雷地帯をどかどかと歩くマヌケな歩兵のように、どこを歩いてもドッカンドッカンと大爆発が私の頭の中で鳴り響いていたのであった。

例えば多感な10代は、わかりやすく自分の見た目や成績が震源地であった。

足が細くて長い子が輝いて見えたと同時に、どうしてわたしの足はずんぐりしているのだろうと気を落とした。パッチリ二重のモデルさんに憧れて必死に化粧を始めてみたが、よく考えみればわたしは一重だった。背は思うように伸びないし、髪の毛はふわふわの茶毛ではなくゴリゴリにコシのある漆黒の日本髪だった。

姉はいつも学年一位なのに、なんで私はいつもギリギリ10位以内に入れない中途半端な結果なんだろうと無性に腹が立った。

絵だけは多少の自負があったが、少し足を伸ばせば死ぬほど絵の上手い人なんてこの世の中ではさして珍しくないことにすぐに気づいた。そして時代に合わせてそのままインターネットにハマった私は、神絵師のイラストを見て自分の絵の立体感のなさに死ぬほど凹んだのであった。

私だけがいいものを何一つ持っていないように思えて、みんながみんな羨ましいものをそれぞれで持っているように思えた。

比べてキレて、劣等感。

20代になるとその劣等感はピークを迎えた。

なんといっても、社会人になって比べる対象が膨大に増えたのだ。最初こそ会社の同期とかに収まっていたものの、徐々に同年代やひと回り上の先輩、ずっと上の大人たちと自分の差分を考え続けてしまうようになった。

恐らく、人生の中でこれほどに多様な「差分」を突きつけられたことはなかった。

誰かには彼氏がいたし、結婚をした人もいた。毎年ハワイに行って、プラダの鞄を持っている子綺麗な営業の人や、子供が産まれていいマンションを買っている先輩もいた。車が好きで外車に乗っている人もいたし、逆に出世の鬼となって鬼神の如く働き、圧倒的な成果を出す人がいた。

学生時代とは全く違う恋愛格差というものを意識したことや、先輩のキャリアを見上げた時の明らかな落差に大きく怯んだ。考えたこともなかった車やマンションの価格や、ハイブランドと呼ばれるアイテムの値段を知った時は目玉が飛び出るかと思った。

しかし今になってみれば、その全てが羨ましいわけではないことがわかる。

当時は知らない世界や、考えもしなかったキャリアや、知らない単価の買い物をする大人の世界に驚いたのが大半だと思う。しかし当時のわたしはまだその一つ一つが驚きなのか、嫉妬なのか、はたまた不安なのかを判別するだけの頭を持ち合わせていなかった。良いも悪いも引っくるめてみんな「特別」に見えた。

わたしは目の前に出てきたものや、掴めそうなもの全部に手を出した。やったことのないもの、経験のない自分というのを忌み嫌ってなんでもやった。

苦手な仕事に手をあげて、結局選ばれない自分が恥ずかしくて玄関で泣いたこともあった。失恋の後に己を奮い立たせようと高いヒールを買って下ろした日の帰り道に思いっきり足を挫いて、靴は傷つくわ人生初の捻挫になるわで、もう悔しいのか悲しいのか訳がわからなくなって「ふざけんな」と道端で叫んだこともあった。

みっともなくてみっともなくて、すごく人間らしい時間だった。

それはバイキングで出された料理を全部食べようとして吐いてしまうような奇怪な行動で、それでもわたしは食べ物のようなものを泣きながら、ひたすらに口に運び続けた。しかし胃のキリキリする思いをしてまで必死に手を伸ばした割に、わたしの心は一向に満たされなかった。

自分では、もうどうしようもなかった。本当に究極にお腹が減ったら、その辺の生ごみや芋虫でも貪りついてしまうこととよく似ているように思う。

私の心は、歴史的な飢饉を迎えていたのだった。

そんなわけで我ながらまあみっともない20代を過ごした自負はあるのだが、その代わりに得たものがある。

それが、自分の欲求というものの分別であった。

切れた欲という糸

人のどんな話に、自分が揺さぶられるのか。

冒頭の問いへと話は戻るが、私たちはたくさんの欲求に駆られている。

お金が欲しい、良い家に住みたい、かっこいい車が欲しい。おしゃれでいたいし、異性にも同性にもモテたい。仕事にはやりがいも十分な報酬も欲しいけど、ハードすぎる働き方はしたくない。あと年に何回かは海外旅行に行きたいし、二重になりたいし痩せたくて・・・と、書き出せば欲望にはキリがないことがよくわかる。

しかしその殆どが、他者との比較や優劣によって掻き起こされている。

コンプレックス商材という言葉が生まれるほどに「こうでないと恥ずかしい」「これを持っていないと一人前と言えない」などといった強迫観念を社会全体で持ち合っているのだ。美容業界なんてそれだけで一大産業となるほどに、人の負い目は金になるのだ。せっかく給料を必死に貯めて買ったバックや車も、誰かがその一回りも二回りも高額な商品を手にしたと聞いた途端にチンケな俗物に成り下がってしまうような気がしてしまう。

短期的で相対的な優越感を得たいがために、これほどコスパが悪いことを知りながらも人生における「どっちでショー」に、私たちは人生で何度も出演を迫られるのだ。

比べていたら、キリがないのに。

頭ではそうわかっているのに、この掻きむしりたくなるような感情はなんなのか。めちゃくちゃにしてやりたいという破壊衝動に駆られながら、いつかは、自分だってという殺気だった感情を抱えて生きている人が多いのではないだろうか。

しかし私たちはある日突然、面をくらう。それはふと、本当に前触れもなくやってくる。そうして頭の中で、ひとりこう呟くのだ。

「これ、羨ましいのか…?」

あんなにも良いな羨ましいなと思っていたことが嘘のように、醜い劣情が瓦解していく。魔法が解けたように、目の前のくだらない何かにハッとさせられる。いや、相手にとってそれは宝物なのかもしれないのだけれど、誰かにとっての宝物が自分にとってはガラクタであることに気づくのにはなかなか骨が折れるのだ。

そしてそれがある日、ふっと息を吹きかけて飛ばされた埃のように、欲と呼ばれていた何かが消えてなくなっていることに気づく。自分は、別にそこまで欲しくないんだなという摩訶不思議な終着点に行き着くのだ。

あの人はすごい家に住んでいる。その人は年収がいくらで、会社でついにこんなポジションについたらしい。ネットではこんなあだ名で呼ばれていて、界隈では有名人なんだよと。

そんな誰かの行動や、境遇や、変化を耳にした時。はたまた一般論と呼ばれるメディア情報を目にしたとき。シーンはさまざまではあるけれど、ある日突然にそれはやってきて、ああそうですかと肩透かしな腑抜けた返事しか返せなくなる。まるでネジが切れたからくり人形のように、私たちはボーッと目の前の競争馬を遠くから眺めているような気持ちになる。

自分にとってなければいけないと思っていた執着の糸が、勢いよくブツんと切れ落ちる音がした。

ピンと張り詰めていた糸も、切れてしまえば遠く風に流されて無造作に枝垂れるだけであった。それは斬れ落ちた対岸の橋のようであり、それは遠い異国の昔話を聞かされているような他人事のようにも思えた。

そしてその張った系は、二度とこちら側に戻ってくることはないのだった。

正しく欲望すること

これは、自分に対する諦めなのだろうか。

一時期はそうネガティブに思うこともあったけれど、よくよく自分の欲望にしかと目を向けてみればそれがまったく枯渇していないことがよくわかる。

例えば私なら少ないものでスッキリ暮らしたいという気持ちや、日本中の高い山に登りたいという憧れや、仕事やカメラや文章を通して何かを表現したいという欲はある。でもそれ以上に、健康で穏やかな心持ちで毎日を過ごしたいという強烈な欲望があったりもする。

なんとも相反する言葉の組み合わせに我ながら苦笑いしてしまうが、それほどに私は自分の生活とか仕事とか、取り巻く環境と行動を自分自身のコントロール化に置くことを重要視しているのだと思う。それが私にとっては最高に心地良くて、これ以上ない贅沢なことでもあるのだ。

私は決して無欲ではない。でもようやく自分の「欲の分別」が少しだけ早くつくようになったのは幸いだった。

高価すぎる服はアクティブな私の行動スタイルには合わないし、派手な宝石やアクセサリーは似合わない。時計はApple Watchが便利だし、車はまだ要らないけど、もし買うならギアをガンガン積んで悪路の山道でも悠々と登れるパワフルなやつがいい。家は日当たりと一定の広さが欲しいけど、自分で管理しきれるぐらいがいい。代わりに植物を多めに置きたい。何よりいまは気軽に住処を変えられる気軽さの方が高い価値を感じる。

ご飯は美味しいものを食べたいが、毎日だと飽きるしもれなく太る。醜く太っている自分は動きづらいだろうし、仮に代償として大金を貰って太ってくださいと言われても断るだろう。それほどに身体が健康で心が穏やかであること、ふとした時にびっくりするほど行動的になれる自分であることを何よりも自分の中で尊重したい。

それこそが、私にとっての正しい欲そのものなのだと思う。

欲望というものは主張が激しくて、なかなか個々人の個性や違いが分かりづらい。それは時に物理的な物であったり、質量を持たない概念であったりする。そして本当は欲しくないものを欲しいと思わせてくる広告や誰かの一言に、私たちは簡単に惑わされてしまう。

それでも自分の中での心地よさに耳を傾け、ざわつきがあるなら距離を取る。本当に欲しい物に向けて歩みを進める時、私たちの頭にざわつきは生まれないからだ。静かに、でもやけに視界がクリアになったなら。こっちに進めばいいんだというシャープな思考と、燃えたぎるような心地良い闘志が燃え上がるのを感じたのなら、素直に手を伸ばせばいい。

同時に、誰かの欲をバカにしないこと。欲の種類も数も十人十色であり、自分にとってのガラクタは誰かにとっての金銀財宝であることもある。

もちろんそれで身を滅ぼしては元も子もないが、それほどに人の欲というのは深く重く、どうしようもないほどのエネルギーをまとっている。そしてその欲という強烈なガソリンをエネルギーに我々人類の進化という文明が支えられて来たことを思えば、身を滅ぼすほどの欲も案外悪くはないのかもしれない。

それが、自分にとっての正しい欲望であるのならば。

それを手中に収めるためにわたしたちは何でもしよう。人生は短いのだから、誰からか押し付けられた欲望に目をくれてやる暇なんて少しもないのだから。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃