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表に立ちたくない職種の、これからの生存戦略。

「スワンさんって喋るの上手ですよね、羨ましいなあ。」

カラッとした、春風が抜けるような声色のその人は言葉を放った。それは人と会うたび、イベントに出るたびにつけて何かと言われてきた言葉でもあった。ありがとうございますとヘラヘラとした返事を返しながら、内心ではどこかどす黒いものが腹の底でぐるぐると唸り声を上げていた。

デザイナーにしては、という意味だろうか。

そんな不埒な思考が、ふと頭を掠める。いかんいかん、また勘繰る癖が出ていると思いながら私は脳内のふわふわとした重い感情に手を払った。

大前提として別に悪い気はしない。それは間違いなくお褒めの言葉であるし、下手よりは上手いと言われた方が気分はいいに決まっている。

しかしディズニーのプリンセスのように王子様から「好きだ」と言われたら「私も!」と言って、ラララと大声で歌い出せるような素直さがあればよかったのだけれど、生憎わたしはそういう風にはできていないらしい。

実のところ、周りから「これが得意ですね」と言われるもののほとんどが、元々は自分にとってむしろ「不得手」だったものであった。不得手だったからこそ荒野を耕すように、地道に地道に長い年月をかけて慣らしてきたものでもあった。

今日はその中の一つである「話すこと」について、少し筆を進めてみようと思う。

表舞台へのアレルギー

意外と思われることも多いのだが私はあまり人前に立つことが好きではない人間だ。

これだけTwitterやYouTubeで実名と顔面を晒しながら文章まで発信しているのだから「さぞ目立ちたがり屋なのうだろう」と思われる読者もいることだろう。期待を裏切るようで申し訳ないが、生まれながらにしてわたしは完全に隠側の人間であり、できることなら裏方で粛々と仕事をしている方が気性に合っている人間だったりするのが実情だ。

絵を描くことや文章を書くことこそ夢中になって取り組む小・中学生ではあったが、それは本人とアウトプットが切り離されて評価されるものを選り好んだ。

なので自分の描いた絵がが廊下に張り出されたり、市のなんちゃってコンクールで表彰されることは問題なかったのだが、アウトプットが直接自分とシンクロしなければいけないような「全校生徒の前でスピーチ」とか「誰かに話しかける」といった類に関しては裸足で逃げ出すような嫌悪感を感じていた。

義務教育を終えても、変わったことは特になかった。

大学は美大(しかも現代アート)に進学したのも相まって、就活までは人前でのプレゼンやスピーチはほとんどの場合で数えるほどしか経験がなかった。最終成果物がプレゼンであった授業が嫌すぎて、自分で選択したくせに散々悩んで自分から単位を落としに行ったこともあるほどであった。

そんな陰気な私が表舞台に転がり出る転機となったのは、新卒で入った会社の全く新しい風土であった。

はじめてのお天気お姉さん

その会社では季節のイベントや目標を達成した時、こぞってフロア中がお祭みたいな雰囲気になる特殊なカルチャー環境だった。成果を出した人にスポットライトが当たる表彰制度も盛んで、とにかくイベントごとが多かった。

そんなイベントの際、司会進行役として特定の社員がイベントで指名されて表舞台に立つことが多々あった。そんほとんどがビジネス職の方で、営業やプロデューサーなどのいわゆる「日頃から矢面に立っている」人であった。人前でも臆さずハキハキと話すものだから、当時は外から呼んできたプロの司会だと思っていたこともあった。

イベント後に先輩から「〇〇部署の人だよ」と聞かされて、それはそれは酷く驚いたし、こんな人種も世の中には存在するのだという珍獣を見るような気持ちでもあった。

そんなある日、表舞台とは程遠い私がとあるイベントの小さなワンコーナーで司会をすることになった。それは社内の月次番組を本格的な配信で行い始めたタイミングで、会社の目標進捗をニュース番組のような構成で話す社内番組の走りであった。

声をかけられた時は、メッセージを送る相手を間違えたのかと思った。

正直いって最初から気乗りがするものではなかった。何百人に見られる配信だし、私はまだ若手のなんの実績もない裸の人間だった。ましてや話すことが得意なわけでもなければ、むしろ苦手で避けてきた人間であったのは先述した通りだ。

しかし当時、会社としても新しいスタジオが建ったばかりでその場所に行ってみたかったこと。仲の良い同期がそのメイン司会をするなどの好条件が重なり、大いなる気恥ずかしさはあったものの「場への興味」の方が優ってしまい、結果的に「やります」という回答をしたように思う。デザイナーやエンジニアと呼ばれる専門職が表に出たがらないのは定説だったので、イベント運営の担当さんがすごく喜んでくれたのを今でも覚えている。

こうして私は番組内のワンコーナーで「お天気お姉さん」として参加することになり、勢いと流れに身を任せるままに始めて人前で話す機会に押し出されれることとなった。

「本番、10秒前!」

来る当日、現場を取り仕切る人の大きな声が聞こえる。私の心臓はドクドクとうるさく鳴り響き、私の不安を体現するように手先は急激に冷えていった。今になって「何でこんなものを受けてしまったのだろう」と体に冷や汗が流れた。

緊張のあまり、話した内容はあまり覚えていない。

眩しい照明と、自分に向けられた大きなカメラに慄いた。本番中はとにかく必死に、目の前の台本を読み上げた記憶だけがある。前を見て、発音をよく、間違えずにハキハキと喋ることだけにとにかく集中していたように思う。

手元の冷えは、いつの間にか汗ばむほどの熱に変わっていた。

諦めがつかないもの

収録後、意外にも社内での反応は良かった。

デザイナーという職種が表舞台で、しかもイベントで喋るというのは自分が思っているよりも珍しく見えたようだった。まあ当時も大変に捻くれてたわたしとしては「まあ素人にしては」「まあデザイナーにしては」といういろんな枕詞を並べながらその言葉を受け取ったが、内心はやはり嬉しいものだった。

それをきっかけに、わたしは「自分の話し方」について個人的な研究を始めた。

人間、褒められると勢いよく木に登り始めるとはよく言ったものである。もちろん最初は自分のカメラ写りとか、化粧が崩れていないかとかそういうしょーもない確認のためだったように思うが、動画のアーカイブを見ていくうちに見どころが変わってきたのだ。

自分の喋りを聞き返して「ここには相槌を入れれば良かったな」とか「ここの歯切れが悪いな」とか、挙げ句の果てに「こういうシーンで差し込める小話をストックしておけば…」といった風に、自分の出来栄えを何度も確認しては改善項目を考え尽くした。それはいつの間にか「できなくて恥ずかしい」ではなく「もっとできるはず」という闘志に変わっていった。

そんなわたしの思考が顔に漏れ出たのか、単に都合が良かったのかはわからないが、不思議とそれから司会として呼ばれる機会が増えていった。

私は反省したことが試せるという絶好の機会を得て、本当はやりたかったパフォーマンスに近づくように準備をするようになった。台本がもらえれば、我流ではあるが自宅で読み込みをしたし、お風呂で夜な夜なアナウンサーの喋りをシャドーイングしたりもした。この人の喋りが好きだな、この人は発音はいいけど頭に入ってこないな、なんて人の喋りを比べて何でだろうと観察を繰り返した。

最初はシンプルにデザイナー枠という感じだったと思うが、観察と練習と実践を繰り返していくうちに自分でも確実に上達していくのを実感していた。それと同時に、喋りの訓練なんて芸能人や話し手、アナウンサー志望でもない限りほとんどの人が訓練したことがない領域だから、少し練習と努力を積むだけで「その辺の人よりは間違いなくうまく喋れる」という謎の自信が生まれていった。

根本的な辛さでもあった恥ずかしさも徐々に慣れが出てきて、メンタル的な「不快感」を押し退けて研究したい、試したいという気持ちが全てを凌駕していた。恥ずかしさはずっと腹の底に残っていたが、喋りだすと「別の人格」が出てくるような、ガコンと頭のスイッチが切り替わるのを感じていた。

その後、私は順調に表舞台の場数を増やしていった。

表に立つと変わるモノ

そんなことを繰り返していくと、不思議なことが起こった。会社の中で関わる人の幅が劇的に増えたのである。

以前であればデザイナーを中心としたクリエイティブな人たちと話す機会が多く、加えてエンジニアがせいぜい。一般職の人や営業の人とは疎遠で、あの人たちは何をしているんだろう、陽キャだなぐらいにしか思っていなかったように思う。

しかし社内司会業を続けていくうちに、営業の方や一般職の方、役員の方々など今まで自分が触れ得なかった人たちと打ち合わせをしたり、やり取りをする機会が増えた。イベントは片手間ではなく、本気で取り組む姿勢を見せる会社だったからこそ優秀な方々とお話しする機会もかなり増えた。そして以前に比べて圧倒的に自分の名前を覚えてもらう率が高くなったことにはかなり驚いた。

そうしていくうちに「こんな人なんだ」「間接的に、すごく助けられていたんだな」ということが分かるようになった。自分の専門領域に必死で、狭く閉じていた視野が無理やりこじ開けられたような不思議な解放感だった。

それから、ずいぶんと仕事がラクになった。

仕事量が減ったとかそういうことではないのだが、知っている人の幅と量がグッと増えたので誰に頼めばいいのか。誰を押さえれば話が進むのかが火を見るより明らかになったのだ。言葉を悪く言えば「社内政治」と言われるのかもしれないが、純粋に私は話すこと、人前に出ることがそこまで億劫ではなくなった。

そのおかげでデザイナーとしてではなく、いち社会人としての振る舞いや思考ができるようになり、デザイン以外にも自分のやるべきこと、できることがたくさんあるんだという理解が進んだ。そしてそれは決して雑務ではなく、むしろ組織をうまく動かしていく原動力になるんだという新しい発見でもあった。

「仕事がしやすくて、助かるよ」

お世辞にしても、多くの方にそう言って貰えるようになったのは間違いなくあの時に「話すこと」に向き合ったおかげだと思う。話術という側面ももちろんあると思うが、あまり表に出て行かない職種があえて表に出ることによって私の「閉じた世界線」が大きく揺れ動いたのだ。

それは会社を辞めた今でも、私を支えてくれている大きな財産となっている。

表に出ない職種こそ、アドバンテージがある。

これがアナウンサーの世界だったら、きっと私は落ちこぼれだろう。

話せると言っても素人に毛が生えた程度のものだと思うし、芸人さんのように空気を敏感に察知して爽快なトークを挟むようなこともできない。滑舌は悪くはないと思うが、まあ普通の部類だと思う。もちろん身長も容姿も凡庸だ。

それでもわたしがの「表で話す」ことを通じて大きなメリットを享受することができたのは、やはり「普通は表に出てこない職種」が一歩を踏み出したからだと今になって思う。これが一般世間的なイメージでよく喋るイメージがある社長とか、営業さんとかだったら話は大きく違ってきたのかもしればい。

喋らないことが普通な文化を持っている職種というのはごまんとあるし、そういう業界では表に立つだけで「ミーハー」とか「黙って取り組む職人気質の方がかっこいい」という声もまだまだ大きいのは事実だ。もちろん、話術が本職ではないのだから手元の技術を磨くことは怠ってはいけないことは大いに頷ける。

しかし、どうしたって「人と関わらないと仕事にならない」時代になった。

これは、揺るがしようのない社会変化だ。昔は一人で、頑固でも変人でもいいから黙々と作業に没頭し、少なくていいものを細々と作ればよかった時代もあった。もしくは担当を細かく分けて、指示通りに納期を守って働きさえすれば製品がバンバン売れる時代だってあった。

でも豊かさが行き渡り、物が溢れるこの世の中で「関わり方」や「伝え方」がなくては情報の濁流にあっという間に押し流されてしまう。それでも作ることだけやっていたいのであれば、伝えることを担ってくれる仲間だって必要だ。そしてその人と、最後の渡り手に対しても全くコミュニケーションを取らないというわけには行かないだろう。

私たちは、もう関わらずにはいられない。

これまで「俺たちは職人だから」「私たちは裏方だから」といった当たり前が崩れ去ろうとしている。そしてそこには、まだまだチャンスと金脈が眠っているようにも思う。

でも。やっぱり恥ずかしいとあなたは言うかもしれない。そしてそれは多分、これからもずっと恥ずかしいままでいいのだと思う。恥ずかしいけれど、本当は裏にいたいけど、手段としての表をキチンと選び取れるようになる。

そういう気概で、私は今日も「気恥ずかしいな」と思いながらカメラの前に立つのだと思う。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃