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おかん、心友を亡くす。

おかんの親友が亡くなった。今朝のことだ。
娘同士の我々も仲良しなので、そろそろ危ないことは聞いていたが、
私はそれを聞いても、おかんに伝えることをしなかった。

聞いたとしても、施設へ会いにいくことは叶わなかったから。
この年齢で、心の友を失うことが、如何程のことか想像つかなかったから。

友達の少ないおかんにとって、きこちゃんの存在は本当に心の支えだった。夫に先立たれ、仕事と一族のイザコザだけのおかんの自称つまらない人生に、花と笑いを添えてくれていたのは、きこちゃん一家だった。

定休日になるとおかんはきこちゃんの家にいき、頼まれてもいないのに、毎度奇妙奇天烈な昼食をつくり、きこちゃん一家はやさしいので、黙っておかんのキテレツ料理を食べてくれた。そしてその料理がどれだけの代物だったか、後に笑いのネタにしてくれた。

一緒にカラオケに行ってくれたり、旅行に誘ってくれたりした。一人ではようけ外に出まへんのんで。と、とても喜んでいた。

おかんを家族のように、一家全員で無条件で受け止めてくれていたのだ。

毎年のお祭りも、お正月も、私の結婚式にも、父が亡くなったときにも、きこちゃん一家だけはそばにいてくれた。親戚以上の付き合いだった。



仕事が終わり、急いで花を買って、友人姉妹のために今夜と明朝の食糧と、お客さま用のお茶請けなどパパッと買い込んでタクシーに乗りこんだ。通夜の前日の忙しさは、身にしみてわかっているつもりだ。

小学生の頃は毎日おうちへ遊びにいっていた。私は古い記憶力だけはよいので、家の匂い、壁の色、トイレの床のタイル、茶箪笥、掛け軸、階段の段数、すべてを思い出せる。しかし、町の様子はずいぶんと変わっていた。

ところが勘を頼りになんとなく「この辺りで」と降ろしてもらったところがドンピシャだったので、自分でも驚いた。頭ではなく、体感で覚えていたのだ。人の記憶ってすごい。


家に入るのは40年ぶりだろうか。門扉の前で思わず一礼した。この家は私よりもだいぶ年上のはずだ。よくぞ今日までご健在で。

玄関はリフォームされていたが、一歩入れば記憶のままで、リロードの暴走する気持ちはおさえて、きれいに布団に寝かされているきこちゃんの前に座る。

パパの認知症介護がきっかけで、69歳から自らも認知症になってしまったきこちゃん。とても明るくかわいくて、施設でも人気者だったとのことだったけど、最後は職員さんにも手をあげるようになり、食事拒否をするようになってしまったと聞いた。手を合わせた。


振り返ると思い出の写真が無造作にリビングのテーブルの上に置かれていた。私の結婚式の写真があった。私たちの幼い頃の写真、おかんの若かりしノリノリの頃の写真もあった。ばっちり化粧をして、きこちゃんと肩を組んで笑っていた。

ついこの間のことのように感じるが、もう何十年も経っているのだ。いつまでもこの頃のままでいるかのように感じるが、今日からきこちゃんの肉体に、血液が巡ることはない。

きこちゃんが呼吸をすることもない。きこちゃんがドキドキすることもないし、きこちゃんが早口で喋ることも、もうない。

きこちゃんが生きているって本当に奇跡だったんだ。
親しい人が亡くなるといつも、そのように思う。


「今は、ママが家に戻ってきてくれたっていう安堵みたいなものがあるんですけど、明日この家からいなくなると思うと、初めて涙が出るかもしれませんね」

40年ぶりに話す、友人妹がそう言った。


おかんは、すでにご挨拶にきて帰ったという。
自分の住所が書けなかったと、友人が教えてくれた。

おかんは今、どんなふうに彼女の死を受け止めているのだろう。

年下の心友を見送る気持ちを、どう落とし込んで
これからを生きるのだろう。



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