なぜ幽霊はプライベートな現れ方をするのか〈試論〉

 幼かった頃から私はさまざまな幽霊のようなものを見てきた。したがって、この世には霊的なものが存在していると思っていた。なぜなら、「自分がそういうものをさんざん見てきたたから」である。しかし、時が経ち、四十代の前半頃になると、そうは思わなくなっていた。ラマチャンドランの本を読んだからである。

 ラマチャンドランは、人の脳の不調や障碍によって幽霊が見えるものだと科学的に説明していた。私はなるほどそういうものかと思った。では、最近アレを見たのも私の脳の問題かと思い直した。確かに私はアルコールに酔った状態で、つまり自分の脳が正常ではない状態でアレを見たのである。
 アレとは、男女の「幽霊」の姿である。深夜、駅を出てからの帰り道、鬱蒼とした木々に囲まれた寺の前に彼らはいた。その男女は門の前に立ち、抱き合っていた。二人とも二十代前半で、背が高いほうだった。私は反射的に「こんな時間にこんな場所で…」と思った。目をそらしてその二人の前を通りすぎ、ふと振り返った。二人はまだ抱擁しあっていた。しかし、その二人の体の向こう側に寺の本堂が見えていた。体が透けていたからである。二人の輪郭だけがそこにある。私はぞっとして前を前を向くと足を速めた。

 私は何を見たのだろうか。あの若い男女は私の脳内の映像だったのだろうか。それはありえる。私にはまだアルコールが残っていたからだ。アルコールなどのドラッグ、呼吸の回数、病気、記憶、心理的衝撃…、人間はちょっとしたことでふだんとは異なった感覚になる。

 ところで、ふつうのいわゆる「幽霊の話」といったものは身内や知り合いにかかわることが圧倒的に多いのではないだろうか。死んだ祖父がそこに立っていた、死んだはずの猫が部屋に入ってきた、などという体験談である。こういったプライベートな現れ方についてなら、私は今ではある一つの考え方をあてがうことで理解できるのではないかと考えている。

 その考え方を得たのは、メルロ=ポンティの博士論文『知覚の現象学』にある「身体図式」からである。「身体図式」とは簡単にいえば、自分の身体が状況の変化に対応している、ということだ。自分の手足がどの位置にどういう角度にあるか、身体自身が知っている。その変化も知覚し、身体部位同士が互いに連絡をとりあい、状況や行動に対応している。この身体図式がなければ、わたしたちは安全に立つこともできないし、階段の昇り降りもできない。すなわち生きていくことができない。

 身体図式は自分の体の範囲だけにはとどまらない。ふだん使う道具や身の周りの事物も含まれる。だから、わたしたちはクルマを駐車場の枠内にきっちりと停めることができるし、自転車を走らせることができるし、ギターのコードを変えながら演奏ができるし、スキーのスラロームができるし、キーボードをブラインドタッチできるのである。したがって、練習や習熟というのは、いいかえれば、身体図式の拡大をしていることになる。

 興味深いのは、身体が欠損した場合などである。たとえば事故などで片足を切断した場合だ。杖などの補助器具を使っても最初は歩きにくい。なぜならば、身体が過去の片足をまだ身体図式として利用しようとするからだ。つまり、片足がすでにないという身体図式の更新が行なわれていないのである。このときに、「幻肢痛」が生じる。つまり、もはや存在しないはずの足の痛みや痒みを覚えるというわけだ。しかし、やがて身体図式の更新が行なわれれば、幻肢痛は消えていく。

 そこでわたしが考えたのは、幽霊というのはこの幻肢痛のようなものではないかということだ。ずっといつもそこにいた親しい人を古い身体図式が知覚する、これが幽霊の出現なのではないかと思うのだ。したがって、幽霊はいつまでも現れ続けるわけではない。ある程度の時間が経過すれば、あるいは、故人をしのぶことによって親しい人の非存在を自分に教え続けることで、自然と身体図式の緩慢な更新がなされ、幽霊はやがて幻肢痛のように消えていくわけである。このように考えれば、幽霊がプライベートな現れ方をする、という理由が理解できるだろう。幽霊は自分の身体図式の中で慣れ親しんだ知覚の現象だからだ。しかし、それでもなお、わたしがあの日に見たあの二人の幽霊の謎は解消されない。なぜなら、あの二人はわたしの親しい人ではなかったからだ。つまり、わたしの身体図式の中にいない二人であったからだ。では、わたしは何を見たのだろうか。

  

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?