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【台本】うたかたのしとね


「うたかたのしとね」
作:白砂名一

○登場人物
河北 陸生(73)…車椅子に座る男。
吉野 冬湖(18)…車椅子を押す女。或いは死神。


湖岸。冷え冷えとした秋の夕陽が舗装された地面を舐めている。
海を眺める車椅子の男と、それを押す女。他の人影はまるで無い。
或いはこの場所は、記憶や夢のそれなのかも知れない。
女にはまるで重みがないかの様で風には裾が揺らめくばかりだ。

車椅子に座っている男・陸生は間もなく死んでしまう。
女・冬湖はそれを迎えるものである。


陸生 やがて地獄に下るとき、
   そこに待つ父母や
   友人にわたしは何を持つて行かう。
   たぶん私は懐から
   蒼白め、破れた
   蝶の死骸を取り出すだらう。
   さうして渡しながら言ふだらう。
   一生を
   子供のやうに、さみしく
   これを追つてゐました、と。

ト、陸生は詩を詠む。
冬湖は少し考えるそぶりをする。

冬湖 なあに、それ。
陸生 西条八十だよ。知ってる?
冬湖 わからない。いつ頃の人?
陸生 僕らが生まれるよりは前の人かな。
冬湖 そうか。へえ。
陸生 何?
冬湖 (ト、意地悪そうな笑みで)私が蝶?

少しの間。

陸生 そうなるのかな。それでいいの?
冬湖 ぴったりかなあって。
陸生 そうかもしれないけれど。自分で言うのか。
冬湖 まあねえ。私も捨てたものじゃないみたいだし。
陸生 君は、なんだか変わらないな。
冬湖 変わったら大変でしょう。
陸生 そうだな。
冬湖 歳取ったねえ。そういう言い方、なんだか背伸びしてるみたいだったのに。
陸生 いつの話してるんだ。
冬湖 ずっと前の話だよ。本当にずっと前。
陸生 面妖だ。
冬湖 わざと爺むさく言って。馬鹿みたい。
陸生 教養を身に着けたんだよ。歳のせいじゃあない。
冬湖 きょうよお?
陸生 あーあ。言っても無駄だった。

ト、陸生は黙り、湖を見つめる。
冬湖はそれをしみじみと見て。

冬湖 名残惜しいわけだ。
陸生 ……。
冬湖 綺麗だよねえ。やっぱり。
陸生 いつでも見れたよ。僕は。
冬湖 その割、しみじみしてるじゃん。
陸生 いつもより綺麗に見えるのが、最後に見る景色だからと分かるのが、かなしいだけ。
冬湖 きっと忘れられないだろうね。
陸生 もう死ぬのに?
冬湖 それ、迎えに来た私に言う?
陸生 それもそうか。

ト、再び湖に目を落とす陸生。そのまま

陸生 吃驚したよ。本当に吃驚した。死神のようなものなのかい?
冬湖 そうなるのかな。不満?
陸生 いいや。
   けれど、君が迎えに来ると分かっていたら、もっと違う生き方をした。もう少し、君に語れるような生き方をしたと思う。
冬湖 そうなのかな。
陸生 多分の話だけれどね。
冬湖 じゃあ、あえて言ってしまおう。……浮気者。
陸生 (苦笑いして)うん。
冬湖 でも、それでよかったんだよ。
陸生 うん。
冬湖 いなくなったひとのことをあれこれ考えるより、どうやって生きるかの方がよっぽど大切なことだもの。今日の晩御飯が何なのか。それを考えた方が余程ましな生き方だ。そうでしょう?
陸生 それは理性の言葉だよ。そう簡単じゃない。
冬湖 それでもあなたはがんばった。
陸生 そう見えているならいいけれど。
冬湖 見えてる見えてる。ほんの少しさみしいけどね。
陸生 あんまり、反省させないでくれよ。
冬湖 まあそんな、昔のこと思い出さなくていいよ。私も知ってるし。
陸生 そういうものなの?
冬湖 割と近くで見ていたよ。気が付かないところで。
陸生 なんだか嫌だな。
冬湖 たとえば、あなたがぼうっとコーヒーを飲んで息が白いのを眺めてたときだとか、階段を一段飛ばしで登って怪我をしたときとか。
陸生 恥ずかしい。
冬湖 たとえば、夜。私は、秋の冷たい布団みたいにあなたを撫でて、常夜灯みたいに息を吐いて、あなたを抱きしめていた。だから、眠るときは怖くなかったでしょう?
陸生 それはきっと、大人になったからだと思ってたよ。
冬湖 勝手に大きくなったわけじゃないんだねえ。
陸生 ありがとう。
冬湖 どういたしまして。……もうそろそろだよ。

ト、雲が夕陽を隠す。
光は雲間から湖面に柱のように注ぐばかりになる。

冬湖 そろそろ、行かなきゃいけない。
陸生 そうか。
冬湖 もういいの?
陸生 良くはないよ。気になることも、やり残したことだってある。けれど、君が来てくれたのに。悪いじゃないか。
冬湖 私なんてそんなに大したものじゃないよ。いつかあなたが躓いた石ころのようなもの。それをずっとあなたが憶えていただけ。
陸生 かなしいこと言うなよ。
冬湖 だって、今だって私は、ほんとはなんでもない、あなたの見ている夢なのかもしれないし。あらゆるあなたの弱さが、さみしさが私のふりをして、こうしているだけなのかも。
陸生 そうだとしても。僕は嬉しかったよ。僕の人生の意味を、君がつけてくれるみたいで。
冬湖 そう。
陸生 やがて地獄に下るとき……。僕は、このままなのかな?
冬湖 どういうこと?
陸生 歳をとって、あんまり体も動かなくて……。それは嫌だなぁ。
冬湖 あはは。どうだろうね。元気な方がいいよねえ。きっと楽しいよ。海を見に行って、そこで船に乗ったりだとか。レンガ造りの街並みをふたりで歩いたりなんて、いいかも。
陸生 旅行に行きたいなぁ。映画でもいい。お互いの絵を描いたり。
冬湖 私、あなたに髪を切ってもらいたい。冷たくて大きい手、好きだったから。
陸生 それはだめだよ。酷い髪になる。
冬湖 いいのそれで。だって、おめかしした私よりどろどろの私の方が好きだったじゃない。
陸生 それで悔しそうにしているのが好きだったんだよ。

ト、さらに段々と細くなっていく光の柱。
冬湖は反論をしようとするが、陸生の表情を見て留める。

陸生 行きたいなあ。君と。ここからずっと、誰も僕たちのことを知らない。毎日が落ち着いていて、君のいいところばかりを目にして、毎日少しずつ好きになれる場所に。
冬湖 ……そうだねえ。それはきっと、幸せなことだね。
陸生 ……もう大丈夫だよ。もういい。
冬湖 うん。わかった。

ト、冬湖は陸生の車椅子を湖面に近づける。
陸生は息を吐きだした後、微笑んで

陸生 ありがとう。君に会えて、よかった。
冬湖 会えて嬉しかったよ。おやすみ。

瞬間、落ちるような暗転。
同時にトポンと、滑らかに沈む音がする。
そして、暗闇のまま。

陸生 随分、真っ暗じゃない。

陸生の声に応えるものはない。

陸生 これじゃあ、前も見えないな。

しかし、これにも何も応えはない。
陸生は車椅子の車輪を自ら廻す。
きい、きい、きいという心細い音。いずれ軋みが一番大きくなった時

冬湖 まって。

車輪の音が止まる。

冬湖 私の手、わかる?
陸生 うん。
冬湖 私は今、秋の冷たい布団みたいにあなたを撫でて、常夜灯みたいに息を吐いてあなたを抱きしめている。だから、この夜は怖くないでしょう?
陸生 ……そうだね。怖くないよ。

ト、滲むように薄明るくなる足元。
後ろから陸生を抱きしめていた冬湖は、傍らに歩み寄り手を差し伸べる。その手を取り、ゆっくりと立ち上がる陸生。

陸生 ……やがて地獄に下るとき
   そこに待つ父母や
   友人にわたしは何を持って行こう。
冬湖 私を、連れて行ってくれるんでしょう?
陸生 君が、連れて行ってくれるんじゃなかった?
冬湖 そうだったね。

ト、冬湖微笑む。
やがて陸生は冬湖に手をひかれ、ゆっくりと確かに歩き始める。
舞台上には取り残された車椅子が残されている。


(了)


※作中において、西条八十『蝶』を引用しております。
(西条八十全集第一巻(1991年)収載 『美しき喪失』より。)



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