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天草騒動 「45. 山田右衛門孝心の事」

 孝行が尊いことであるのは誰でも知っているが、実行の難しいのが孝の道である。

 一揆の評定頭の一人の山田右衛門という者は、中央の櫓を預かっており、配下五百人をしたがえる将であった。

 この右衛門はもとは上津村の名主で、大きな村の長だったので裕福で、学問や文筆にも達者であり、老母にも孝行をつくす稀な人物であったという。

 右衛門が孝行だったことは次のような話からもうかがえよう。

 右衛門は、父親が死んでから家督を受け、田畑を多く持ち、金銀に不足の無い大百姓で、男女の召使いをたくさん使い、長者と呼ばれるほどの財産家であった。

 先年右衛門が妻をめとったので、老母は家計の切り盛りを一旦は右衛門の妻に渡した。ところが、この老母はいい年をして信仰心もなく頑固だったので、嫁が気に入らないから別居すると言い出し、同じ村内に新宅を建ててそこに移った。

 右衛門は毎日老母の家に通って孝行をつくしたが、いつも嫁をそしって折り合いが悪いので、妻と相談して老母の家に行き、老母に、

「昨年別居したあとは妻の家計の切り盛りが悪く、いろいろと出費がかさんで金銀も減ってきてしまいました。この分ではとても身代を保つのは難しいようです。本家に帰ってまたお世話をお願いします。親子だけの時は安心していられたのですが、女房とはいっても他人が入るとこのようになってしまうようです。是非とも早くお帰りください。」と頼んだ。

 老母は機嫌がよくなって、「なるほど、おまえの言うとおり、利発なようでもまだ若いからいろいろと出費してしまうのももっともです。大切な財産ですから、年はとっていても頑張ってみましょう。」と言って本家に帰り、再び家計を切り盛りし始めて、気ままに金銀米穀を自分の物として使いはじめた。

 四十歳の右衛門夫婦にはわずかばかりをあてがって自分は贅沢三昧な生活をしていたが、右衛門は少しも不足に思わず、子供のように暮らしていた。

 親類縁者が右衛門のことを気の毒に思い、折りにふれて右衛門に意見したが、右衛門は、「余命いくばくもないたった一人の老母ですから、気ままにさせてやるのが子としての道でしょう。」と言って、だんだん貧しくなっていくことも気にかけず、ますます孝行にはげんだ。

 「天に口無し、人をもって言わしむる」という諺があるが、そのとおりで、右衛門の孝行は自然に国中に伝わり、それを聞いた人々は皆感心した。

 このように実直な右衛門だったので、耶蘇宗門などには入ろうとしなかったが、今回は島全体がこぞって一揆を起こしたのでしかたなくそれに参加し、蓮沼という場所に老母と妻を隠し、妻に「孝行をつくせ」と言い置いて籠城に加わっていた。

 右衛門の孝心を天が憐れんだのか、四万人の一揆の中でこの山田親子だけが不思議と命を助かったのは、まことに右衛門の孝行の徳によるものであろう。

 さて、山田右衛門は城内でも老母の事ばかり心配し、「逆徒に与したからには遅かれ早かれ滅亡するだろう。自分の死は覚悟しているが、母だけは何とかして助けたい。」と思案をめぐらし、ある晩、矢文を寄せ手の陣にうちこんだ。

 その矢文は小笠原家の陣に落ち、夜が明けてから小笠原家の家臣が拾って主人に差し出した。

 小笠原右近将監殿がその矢文を見ると、表書きに、寄せ手御陣中に山田右衛門進上、と書かれていたので、これは味方にとって好事だと、征討使の伊豆守殿に差し出した。その文は次のようなものであった。


 恐れながら申し上げ奉ります。城内の一揆の頭分十二人のうち、中央の櫓を守る五百人の将、天草上津村の庄屋、山田右衛門が御忠節つかまつります。

 拙者は代々禅宗にて、耶蘇宗門を信仰したことはございませんが、天草島全域で一揆が蜂起したためしかたなく一味に加わりました。

 蓮沼の縁者のもとに母と妻を隠しておりますが、この老母と妻を人質として差し出し、今度の城攻めの折りには拙者の持場の門を開いて軍勢を城内に引き入れ、一命をなげうって一刻も早い落城のために働く所存でございます。その功に免じてなにとぞ老母を御助命くださるよう願い奉ります。

 返答があり次第、準備を整えて城攻めをお待ち致します。以上。

山田右衛門 判



 征討使の伊豆守殿はこの文面を聞いて、「これは心強い。しかし簡単に信用もし難い。急いで蓮沼にいる老母に問いただしてみよう。」と言って、老母を呼び寄せた。

 伊豆守殿が、「その方のせがれの山田右衛門は切支丹宗を信仰しているか。」と御尋ねになると、老母は、

「伜は切支丹宗ではございません。私が常々信仰していましたため、しかたなく一味に加わったのでございます。伜の一命をお助けください。彼の罪はこの母が原因で起こったのです。」と、子をかばうつもりのように聞こえた。

 伊豆守が、「それでは切支丹について知っているであろう」と、切支丹宗のことについて一々お尋ねになると、陀羅尼の呪文さえ知らず、破天連ばてれん伊留満いるまんについても知らなかった。

 この様子では山田右衛門は切支丹宗ではなく、彼の内応は偽りではあるまいと判断して、ただちに諸将を集めて例の矢文を披露し、城内に内応者がいるので、まもなく落城させられるだろうと諸将に告げた。

 評議の結果、城攻めは明後日の十一日と決定した。この決定を山田右衛門に知らせるために、彼が守備についている櫓をめがけて小笠原家の陣中から矢文を射返した。

 ところが、まだ逆徒らの運が尽きていなかったのか、その矢文は思った場所に届かず、途中で落ちてしまった。

 城中夜回り役の毛利平左衛門がこれを見つけて取り上げてみると寄せ手からの矢文だったので、急いで大将の四郎大夫に差し出したところ、時貞はおおいに驚いて蘆塚にこれを見せ、大矢野、千々輪、天草、有馬、赤星、森ら、頭分の面々を呼び寄せてその矢文を披露した。

 このことをどうするか相談したあと、まず山田右衛門を何気なく呼び寄せて取り囲み、蘆塚が、「山田うじ、貴殿の陰謀はすでに露見した。残らず白状するがよい。」と言った。それを聞いて山田もなかなかのもので、「それは讒言でしょう」と、何も知らない様子で返答した。

 その時、四郎が矢文を取り出して山田に見せたので、さすがの山田も返答できず、「天命は尽きた、自分の命はとても助かるまい」と、死を覚悟した様子であった。

 時貞をはじめとしてそこにいた面々はおおいに怒り、にっくき山田の心底よ、見せしめのために一族を残らず召し捕って厳刑をおこなうべきだといきまいた。

 蘆塚はこれを制して、

「軍法というものは場合に応じておこなうべきだ。おのおの方の考えのように山田を厳刑に処せば、伊豆守の鼻を明かせて嘲ることができて痛快かもしれないが、今の場合、そのようなことは軍法の上では避けなければならない。

山田を殺害するのは損の上に損失を重ねるようなものだ。なぜなら、山田には配下が五百人おり、山田は日頃慈悲深く配下の者の世話をしている。山田を殺せば、配下の五百人が、山田の恩に報いるために全員敵に回るであろう。この件は私に任せてほしい。」と説いた。

 そして、今まで山田が守っていた中央の櫓には、毛利平左衛門と四鬼丹波の両人を将として兵を入れ換え、また、山田の配下の五百人は赤星の配下とした。

 山田の配下の者らには、「山田は大将の四郎殿の軍学の師範役として本丸に詰めることになったので、今後は赤星の下知にしたがうように。」と言い渡した。

 これで五百人の者たちは納得し、なるほど、と言って全然疑わなかった。蘆塚の知謀は感嘆すべきものであった。

 山田右衛門は、山の背後の谷間の、有馬の牢と呼ばれる所に厳しく閉じ込め、食べ物を少しづつ与えて生かしておいたということである。


→ 46 正月十一日夜討ち仕損じの事

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