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天草騒動 「44. 松平伊豆守釣井楼の事」

 松平伊豆守殿、戸田左門殿とその他の諸将が集まって軍議をおこなったが、意見はまちまちだった。

 ともかく、城内から打ち出す棒火矢が人を傷付けたり陣屋に燃え移って危険このうえないので、その用心をして守備するのが一番重要であろうということになり、大手には黒田家二万五千余人、櫛山口には細川家二万五千余人、中の手は小笠原家一万五千余人とそれに続いて立花侯父子、出丸には鍋島侯父子二万余人、水の手口には有馬、寺澤、松倉の三候らが守備につくことになった。

 また、伊豆守殿と左門殿殿の前には毛利、相良、松平の三候、海手は島津勢、長崎の防備には大村、松浦、五島、宗らがそれぞれ布陣することになった。その他の軍勢もそれぞれ厳重に防備を固めた。

 この伊豆守殿という方は、秀才ではあったが軍学には疎かったので、「一揆が大勢で原城にたてこもっているのだから必ず兵糧に限りがあるに違いない。したがって、四方から十重二十重に取り囲んで輸送路を塞げば敵の滅亡は目前であろう」と考え、都合十七万人余りで蟻の這い出る隙間もないほどに包囲させた。

 そのあと、諸軍に労役を割り当て、近国から百姓をかり集めて、原城から一町ほど離れた場所に高い山を築かせた。

 一万人余りの人夫が昼夜を問わず急いで働いたので、大軍に絶所なしというように、徐々に土を盛り、とうとう天高くそびえる高い山になった。

 その山の上に井楼せいろうを組み上げ、真ん中に細川家の兵船の、長さ十間ほどの帆柱を立てた。

 これが、伊豆殿の失策の元となった。

 この釣井楼つりせいろうというのは周囲を鉄張りにした、窓のある三尺四方の乗物で、その中に物見の者をを入れて綱で帆柱の上に引き上げられるようにした装置である。

 やがて釣井楼が完成し、物見を誰にさせるか選んだが、伊豆守殿の近臣で測量に詳しい者がいたので、その者を釣井楼に入れて城内を物見させることに決まった。

 城内では、新しく築かれた築山に関する評議がおこなわれ、蘆塚忠右衛門が、「これは三国時代に魏の曹操が袁紹を攻撃した時に用いた釣井楼をまねた物に違いあるまい。もしそうなら、あの中から城内を探っているところを撃ち殺して敵の肝を潰してやろう。」と、鉄砲の名人の駒木根八兵衛を呼んで、「釣井楼までの距離を考慮に入れて、その方の腕で撃ち殺し、敵にこちらの手練のほどを思い知らせてやりたいものだ。」と言った。

 八兵衛は、「心得た」と、密かに大手の城門を出て傍らの松の大木に登り、釣り針を使って距離を測定したところおよそ六十四間と見積もることができたので、鉄砲を取って十五匁玉と強い火薬を詰め、松の茂みに隠れて、釣井楼を引き上げたら撃ってやろうと様子を窺いながら待ちかまえた。

 寄せ手はそうとも知らず、竹束を並べて築山の上に大勢集まり、伊豆守殿の近臣に物見の役を命じて紙と筆を用意して乗物の中に入らせた。

 やがて綱でぶらりぶらりと釣り上げられたが、そのありさまは、戦場とは思えないような間の抜けたものであった。

 乗物が上まで引き上げられるやいなや、城内から麓に向けて鉄砲を撃ちかけたので、「一揆が襲撃して来たぞ」と、各陣は戦闘の準備をした。

 その騒ぎに紛れて駒木根が狙い定めているとも知らず、物見の者が釣井楼の窓から首を出して城内をのぞき込んだところを、すかさず駒木根がどんと撃った。狙いはあやまたず、物見の者は眉間を撃たれて死んでしまった。

 ところが高い場所で起こったことなので気付いたものは一人もいなかった。

 駒木根は、「してやったり」と松の木から密かに下り、城内に戻って蘆塚に報告し、静まり返っていた。

 さて、しばらくして寄せ手の者らは築山に集まり、「もうそろそろ城内をくまなく見届けた頃だろうから、下ろしてみよ。」と下知して、乗物を徐々に引き下ろした。

 下から二三間ほどになった時、使番の者らが口々に、「様子はどうだ」と尋ねたが、何の答えもなかったため、不思議だと訝りながら乗物に近付いて蓋を引き開けてみた。するとどうしたことか、物見の者は眉間を撃ち抜かれて血まみれになっており、もはや息絶えて手足も冷たくなっていた。

 全員あきれはてて不機嫌な顔になり、急いで本陣に戻って報告した。

 伊豆守殿はおおいに驚かれ、「敵の城中に鉄砲の名人がいるようだ。」と言ったきり言葉も発せず、つまらないことをしたと思われたのか何の下知もされなかった。

 人々は、「このようにおびただしい数の人夫を使って築いた山も無駄になり、また、細川家の帆柱も立てたまま放置しておくとは、これほど苦々しいことはない。」と、密かにそしったということである。


45. 山田右衛門孝心の事

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