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天草騒動 「46. 正月十一日夜討ち仕損じの事」

 その後、城内では諸将が集まって評議し、「山田が内通したことによって、うまい謀計を企てることができるようになった。」と喜んだ。そして、矢文やぶみの返答として、「城攻めについては、正月十一日の亥の刻に押し寄せていただきたい。御軍勢を引き入れて四郎を生け捕れるように手配致します。」としたためたものを寄せ手に送った。

 また、毛利と四鬼の両人の指揮で七百人の士卒が松明と矢玉の用意をし、その他の者もそれぞれの持場を固めた。緊急の際の防備には、大矢野と千々輪の両人が手筈を決めて準備した。

 寄せ手の陣では、山田からの返事の矢文が来たので、伊豆守が諸軍勢にいきさつを触れ流し、今晩こそ見事に城を乗っ取れと、十一日の夕方から城に押し寄せた。

 まず、あらかじめ合図があるはずの中央の櫓に向かう道には、小笠原家一万人と立花侯父子八千人余りが向かい、大手には黒田家三万人余り、裏手には細川家が押し寄せた。

 賊城はきっと今夜こそ落ちるに違いないと、小笠原家の軍勢は竹束も用意せずに忍び足で櫓の下に近付き、山田の合図を今や遅しと待っていた。

 にわかに城内が騒がしくなったので、「それ、合図だ。」と思ったところ、中央の櫓にかがり火と松明が一斉にともり、天帝の旗がひるがえって、鬨の声があがった。

 寄せ手は予想が外れておおいに驚いたが、そこに櫓の上から大音声で、
「陰謀が露見して山田右衛門は獄内に押し込めた。天下の征討使でありながら山田ごときの合図を頼るとは、子供の知恵にも劣る。夜のお慰みに棒火矢をたくさん用意致した。さあ、御馳走しよう。」と罵った。

 寄せ手は、これまでさんざん懲りている棒火矢が打ちかけられると聞いて肝をつぶし、我先にと逃げる用意を始めたが、その頭上に数十挺の棒火矢が打ちかけられた。その美しいことは花火のようで、四方に散乱してたちまちおびただしい手負いや死人が出た。一同うろたえ騒ぎ、ほうほうの体で麓に向かって敗走した。

 伊豆守殿はこれを見て、「さては山田の合図がうまくいかなかったな。この様子では城を乗っ取るのは無理だろう。ひとまず引き上げよ。」と、伊豆守の旗本に引き上げの合図のほら貝を吹き鳴らさせた。

 それを聞いて全軍一斉に崩れたって逃げ出したので、それを見て城内の千々輪、大矢野が、「それっ、今だっ。蘆塚あしづかうじは出丸の鍋島勢を防いでくだされ。」と、一揆を五百人づつ二手に分けて、どっと喚声をあげて城を押し出した。

 黒田と小笠原の軍勢は崩れ立って敗走した。

 千々輪が両家の軍勢を追い払って一揆の勢をしずしずと城に引き上げる頃、大矢野も一揆に下知して立花家の軍勢に押しかかり、八方に追い立てたので、立花家の軍勢もこらえきれずにたちまち敗走した。

 その中にあって家老の十時ととき三弥さんや古兵ふるつわもので、ただ一騎で踏みとどまり、士卒に下知して、「城兵が打って出たのこそ幸い。皆殺しにせよ。」と、自分自身、大身の槍を引っ提げて一揆の者十四五人を突き倒して追い返した。

 立花家の若武者がこれを見て、「十時を討たせるな」と走って来て一揆を追い立てた。

 そのうち本陣に多数の松明がともって白昼のようになり、諸軍勢が四方から集まってきて一揆を取り囲んだ。

 十時はますます激しく突きまわったので、大矢野がそれを見て、「討ち取ってくれる」と、槍をしごいて突きかかった。

 十時はおおいに怒り、「わしを誰だと思っている。立花家の家中で鬼と呼ばれた十時三弥ぞ。兜を脱いで降参しろ。」と呼ばわった。

 大矢野はそれを聞いて、「ものものしい奴だ」と、鎌槍で十時と渡り合って突戦した。

 十時は立花家で音に聞こえた武術の達人だったので、すきも見せずにえいやっと大矢野の胸板の左脇に槍を突っ込んだ。大矢野はすかさず槍を投げ捨てて太刀を抜きかざし、十時の槍を切り折ってただちに付け入り、組み打ちになって両者の馬の間にどうっと落ち重なった。

 大矢野はもともと本多出雲守の家臣の中で名高い勇士であり、大兵だったので、とうとう十時を押えつけて首をかこうとしたが、その時、十時が下から大矢野の左手の指を噛み切ってしまった。

 しかし大矢野は怯まず、短刀を抜いて十時の首を突こうとした。十時がすばやく首を捻ってそれをかわしたため、大矢野の短刀はのどをはずれて左肩を突いただけに終わった。

 そのうち立花の軍勢が大勢駆け寄ってきて、「大矢野を生け捕りにしろ」と口々に言ったので、大矢野は十時をうち捨ててすばやく馬に飛び乗り、群がる寄せ手を打ち払いながら難なく一揆の方に駆け入った。

 十時はようやく味方に助けられて引き退き、一両日は生きていたが、とうとう亡くなってしまったということである。

 ここに至って全軍もとの陣所に引き上げた。

 この戦いにおいて鍋島甲斐守殿は、「今晩の城攻めは内応する者がいるので、小笠原家が一番乗りするだろう。内応する者の合図で城を乗っ取るのは自分の流儀ではない。」と言って、手勢を出さずに控えていた。「太刀を抜かなかったことこそ、かえって天晴れだ」と、人々が賞賛したということである。

 こうして寄せ手では、「頼りにしていた山田の陰謀が露見したことによって夜討ちに失敗したのはこの上ない恥辱」とおおいに後悔し、今後は何があっても合戦をやめて遠巻きにし、兵糧攻めにするのが上策であろうと、各陣、備えをおこたらず厳重に守りを固めた。

 城内でもこれを見て同様に備えを固めた。

 しかし、もともと百姓どもだったのでひどく退屈な様子を見せ始めた。

 蘆塚がそれを察して、
「味方にとって難儀なのは合戦もせずに日を過ごし、兵糧が尽きてしまうことだ。その上、もともと百姓の寄せ集めだからこのような毎日が続くと変事が起こりかねない。また、戦えば敵を破るのはやさしいが、寄せ手が守備を固めて動かないのではどうしようもない。謀略を企てて全軍の心を引き締めよう。」と、攻撃のために味方の兵を五手に分けた。

 第一組は蘆塚忠右衛門が将になり、子息の蘆塚左内、蘆塚忠大夫、組頭の四鬼丹波と時枝隼人、それに竹槍を持った一揆の者五百人がしたがった。

 第二組の将は千々輪五郎左衛門、組頭大江治兵衛、上総三左衛門、鹿子木左京、それに一揆五百人。

 第三組の将は大矢野作左衛門、組頭毛利平左衛門、有馬休意、一揆五百人。

 第四組の将は天草玄察、組頭千束善左衛門、堂島対馬、一揆五百人。

 第五組の将は赤星内膳と森宗意軒、それに一揆五百人。

 また、別組もつくり駒木根八兵衛が将となった。

 鉄砲隊二百人余りは、棒火矢十挺と火をかけるための草を大量に用意して蘆塚の軍勢にしたがい、五つの門からそれぞれ討って出ることになった。


47. 蘆塚夜討ち謀略の事

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