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天草騒動 「47. 蘆塚夜討ち謀略の事」

 時は寛永十五年正月二十四日のたそがれ頃、城兵は麓に討って出た。

 寄せ手はこれを見て、「あっ、城内から夜討ちを仕掛けてきたぞ」と全軍が騒ぎ立ち、それぞれ鎧を着けて馬に乗り、旗を押し立て、手配りを決めて、城兵の攻撃を待った。しかし、城兵は一向に押し寄せてこない。

 そこで伊豆守殿は、「城兵が来ないのなら、こちらから攻めかけて討ち取ってやろう。」と、下知した。

 大手の黒田、有馬、小笠原、立花、寺澤、松倉ら六家の軍勢が一斉に押し出し、鉄砲を撃ちかけようとした。

 するとそれを見て城兵はおおいに驚いて、一戦もせずにばらばらと逃げ散って城内に引っ込んでしまった。

 そのありさまは猫に追われる鼠のようだったので、寄せ手はおおいに嘲り、「百姓どもめ。どうして戦いもしないのに出て来たのだ。」と言いながら各々の陣所に引き上げた。

 翌二十五日の夜も同じように押し出し、今にも攻め寄せそうな様子を見せたので、寄せ手が討ち取ろうとすると、皆ばらばらと城に逃げ込んでしまった。

 それから毎晩このように城から押し出したので、寄せ手もはじめのうちは用心を怠らなかったが、毎晩の事なのでここ両三日はいささか油断して、またいつもの通りだろうと考えていた。

 その上、伊豆守が、「これは一揆どもが城を取り巻かれて、しかたなく味方をおびきだそうとする謀計であろう。油断して謀計に乗せられてはいけない。本当の夜討ちなら密かに出るはずだ。だんだん城内の兵糧が尽きてきただろうからこれからもさまざまな変事があろう。味方はむやみに騒がないようにせよ。」と下知したので、諸軍は油断して、城兵が出て来ても一向に騒ぎ立てなくなった。

 城からは毎晩出て来ては様子を窺い、だんだん近くまで寄って来るようになったが、毎度のことなので、鉄砲の用意もせず騒ぐ様子もなかった。

 兵書にも、その剛なるものは虚を討つべしと記されているが、それは真理であり、軍学は通常の才知や賢明さとは異なるものである。伊豆守殿の才知は政治に関するもので、軍陣で発揮できるような才知ではなかった。

 戦いは昔から用いられている策によるべきであって、古法を用いるのが良将である。たとえば衣服の役目は、寒さを防ぎ、肌を覆うことである。縮緬羽二重でも木綿でもどちらでも良く、両者は貴賎の違いがあるだけである。衣服の色にはその時々で流行の色があるが、どんな色の服でも暑さ寒さを凌ぐという目的は同じである。軍法もまた同様である。今度の蘆塚の軍略も昔からの方法を応用したもので、古今の良策というべきものである。

 さて、ある晩、城兵はいつもよりも遅く、酉の半刻頃になってから兵を押し出した。黒田家の陣には蘆塚忠右衛門、小笠原家には大矢野作左衛門、有馬家には千々輪五郎左衛門、寺澤と松倉両家の陣には天草玄察がそれぞれ当たり、駒木根八兵衛は例の棒火矢を撃ちかけるよう手筈をととのえていた。

 そうとも知らず寄せ手の陣では、「今夜はいつもより城兵が出てくるのが遅いな。」などと言っていた。そのうち城兵が押し出してきて近付いてきたが、寄せ手は注意を怠って何の用意もせず、「また城兵が出てきた。」と言うだけで、一向に取り合わなかった。

 ところが、その日は城兵が早くも二三町ほどの所まで押し寄せてきたため、寄せ手が少し驚いて、「今日は一揆どもがだいぶ近くまで来たぞ。用心しろ。」と言ううちに、駒木根八兵衛が棒火矢を撃つ準備を始めた。

 それを見て、「あっ、例の棒火矢だ」と大勢で騒ぎ立てた。

 そのうち、早くも棒火矢を撃ちかけ始めたため、黒田家の先陣の黒田監物の小屋に火が燃えつき、それがさらに足軽の陣屋に燃え移った。折しも風が烈しかったため、五か所の小屋が一斉に燃え上がって白昼のように明るくなった。

 寄せ手の陣ではあわてふためき、つないだ馬に鞭を打って逃がした。雑人どもは丸裸で騒ぎ立てながら四方八方に逃げまどい、そのありさまはひどく見苦しいものであった。

 蘆塚の配下の五百人と組頭の四鬼丹波、時枝隼人らが先頭に立って進み、ときの声を上げながら陣屋の士卒を追い立てた。

 黒田監物の家来十人ほどが鎧も着けずに一揆どもと槍を合わせ、追い返そうと戦ったが、そこに組頭の四鬼丹波が押し寄せてきて突き立てたので、黒田家の勢はまたたく間に八九人討ち取られた。

 この時、黒田家の鉄砲頭の小川又左衛門と黒田佐右衛門の二人が先頭に立って戦いに加わったので、それを見て四鬼丹波が走り寄り、小川と渡り合って、火花を散らして戦った。

 しかし、小川は新手で疲れていなかったため、四鬼は数か所の深手を負い、小川によって討たれてしまった。

 小川は四鬼の首を上げ、「ここを守る侍大将、小川又左衛門ここにあり。一揆ども馳せ寄って勝負せよ。」と呼ばわった。

 蘆塚がこれを聞いて馬を駆け寄せ、大身おおみの槍で突きかかった。

 小川も「こころえたり」と戦ったが、蘆塚が苛立って突き出した槍が小川の胸板を貫き、うしろにいた中間ちゅうげんと一緒に串刺しにしてしまった。それによってこの陣も破られて騒ぎ乱れたが、黒田家の二陣は守りを固めて他の陣には取り合わず、各人自分の持場を守って静まりかえっていた。

 この時までに蘆塚の軍勢は四鬼丹波をはじめとして雑人五十人余りが討ち死していたが、残りの四百人余りが一丸となって黒田の二陣に討ってかかった。

 二陣では黒田家の家老の黒田頼母が、若いながらも弓馬の道に通じた人だったので、先陣が戦っている間に鎧を身に着け、采配を振って配下の諸士と雑兵合わせて一千人余りをしたがえて陣頭に乗り出し、「一揆は小勢である。臆すな。」と、下知した。

 そこに勝ち誇った蘆塚の配下が鬨の声をあげて押し寄せ、棒火矢を射かけて陣屋を焼いた。そのため黒田勢は大敗北を喫した。

 その中にあって、黒田頼母は今年二十三歳の血気盛んな若武者だったので、たちまち一揆四五人を突き倒し、勇んで一揆の軍勢に駆け向かった。配下の者らがそれを見て、「進めや、進め」と駆け集まり、虎口こぐちを少しも退かずに必死になって戦った。

 また、細川越中守殿の家老の長岡監物は、老巧の者だったので、「ここを守ることがこの戦いで最も重要だ。救援しなければならない。」と配下二千人余りを繰り出し、谷間から敵の背後を突く様子をみせた。

 黒田家の旗本も、先陣を救援しようと、全軍が一斉に鬨の声をあげて一揆を包囲した。

 蘆塚はこれを見て、「小勢では大軍に当たり難い。夜討ちは十分成功した。引き揚げは速やかにおこなった方がよい。しかし、退く前に一勝利しないと退却はうまくいかないものだ。」と駒木根八兵衛を呼び、「黒田の陣にすぐれた若武者がいる。彼を討ち取ってくれ。」と言った。

 駒木根が、「こころえた」と十匁筒を狙いすまして撃ったところ、弾丸は黒田頼母の腹を打ち抜いた。頼母は馬上にとどまることができず、まっさかさまにどうっと落馬した。人々はそれを見て、驚いて敗走した。

 蘆塚は、「今が引き揚げ時だ」と言って、たやすく引き揚げ、山中で兵糧の支度をしてしばらく様子を窺った。


48. 一揆の兵ども腰兵糧を落とす事

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