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天草騒動 「6. 島左近、南蛮寺に参詣の事」

 そうした時に、島左近の家来の奥田喜兵衛が主命によって南蛮寺に到着し、普留満と計理悟里に対面して、主人の難病の様子を語り、治療を頼んだ。

 計理悟里はそれを聞いて、「当寺での治療は慈悲心から行っているものであって、難病の患者や貧民を救うことを第一に考えています。だから、どんなお方であってもよそに出向いて治療することはできません」と、断った。

 喜兵衛は予想外のことを言われたので、「仰せはごもっともですが、主人の左近は高名な人で、人々がよく知っているので、病気の状態でよそへ旅行するのは難しいのです。今おっしゃたように慈悲心から治療を行っているのなら距離の遠近で差別はしないでしょう。なにとぞ屋敷へ来てくださいますように。」と、ことを分けて頼んだ。

 計理悟里はしばらく考え、「それでは、住持に伺ってから御返答致しましょう。しばらくお待ちください。」と言って奥に入っていった。

 計理悟里が、かくかくしかじかと両破天連に語ったところ、両破天連はおおいに喜び、「これまでにたくさんの人が宗門に入ったけれど、まだ大名を宗門に引き入れることには成功していない。これはもっけの幸い。その人物のもとに行ってうまく治療し、全快したらのっぴきならない理由をつけて宗門に引き入れれば、だんだん他の大名も帰依するようになるだろう。」と謀計を申し合せた。

 計理悟里は奥から戻って喜兵衛に向かい、

「他の方ならなかなか難しいことですが、島様のことは仁義の武士であるとかねてよりうけたまわっております上に、御難病とあってはまことにいたましく、また、ことを分けての御頼みなので、そのことを方丈の方に申しましたところ、私が治療に行くようにと言いつけられました。できるだけ早く参上して御容体を診察致します。しかしながら、目立つとはなはだ困ったことになるので、なにとぞ乗物をよこしていただきたい。」と、言った。

 喜兵衛は、「それならあらかじめ用意してあります。」と言って、下人達を残しておいて、本人はこのことを早く知らせようと急いで郡山に立ち返った。

 左近の病気は次第に重くなって来ていて、はなはだしく衰弱していたため、家人がさまざまな御馳走の用意をして異人が来るのを今か今かと待っていた。

 そこに、計理悟里と伊留岩の両人がやって来て、容体をうかがい、薬を与え、昼夜を問わず付き添って食物にまで気を使って看病を行った。

 早くも十四日が過ぎた頃、だんだん快方に向かってきた。左近はもちろんのこと家の人々の喜びはこのうえなく、なんと稀代の名医なのか、と敬い貴んでいたが、やがて全快に近くなった。

 そんなある日、伊留岩が、「この治療法は医術で治すのではなく、南蛮国で信仰する切支丹宗門の天帝の教えで難病を救うので、病人もこの宗門を信仰しなければ全快するのが遅れます。病気の間、宗門の陀羅尼を毎日お唱えすれば、あと十五日で全快を保証致します。」と言った。

 左近は、「これまでありとあらゆる医術を試したが快方に向かわなかった難病がこのように治りかかっているからには、病気さえ全快するのならばどんな事でもしよう。軍学や剣術でも奥義を会得する際には真言などを唱えるものだから、その陀羅尼を教えてくだされ。」と言って、「死後生天破羅韋僧雲善守麿」と例の真言を習い、教えのとおり毎日千回づつ唱えるようにした。

 すると、言われたとおり三十一日目に病気が全快し、病気の前よりももっと健康になってしまった。

 左近は再び蘇生したような気がして、普留満に向かって、「さてさておかげさまで病気から回復して、かたじけなくてお礼の言葉もござらぬ。どんな望みでも私の身にできることなら何でもかなえて進ぜよう。」と感謝した。

 計理悟里はそれを聞いて、「これはまったく私たちの手柄ではありません。あなたの御信心が深かったためです。またひとつには、破天連たちが寺で祈ったのが効いたのです。一度南蛮寺に御参詣に行って、破天連に会って一応のお礼をしてください。」と答え、金銀財宝は一切受けず、ただ宗門の徳だけを述べて暇乞いし、寺に帰っていった。

 島左近は知謀にすぐれた明晰な人物で、宗門などに惑わされるような者ではないのだが、難病の平癒は人の力の及ぶところではないと思い、そのうえ彼らは無欲でお礼の品を受け取らなかったのでおおいに感じ入り、急いで京都に上って南蛮寺に参詣した。

 すると、南蛮寺は聞きしに勝る繁昌ぶりであった。病人貧民をたくさん養い救うさまを見聞きして、なるほど仏の慈悲は極悪人といえども助けたまうというから、このようなこともあるのかと思って、まず案内を申し入れたところ、「してやったり」と普留満が出て来て、「よく御参詣してくださいました。」と書院に招き入れた。

 両破天連が例の扮装をして出てきたので、左近は懇ろに病気回復のお礼をし、家臣奥田喜兵衛が黄金三十枚を台に乗せて、この寺に寄付しようと差し出した。破天連がたって辞退したのを、左近は、「大病快気の喜びに御寺に納めたい」と言って、むりやり渡した。

 破天連は、「あなたさまは武門であらせられるから、きっと仏法などはおかしく思われていらっしゃるでしょう。しかしながら切支丹宗門は未来よりも現世を重視するので、御覧のように病人をたくさん集めて救ってやっているのです。しかし、病気が回復してもこの宗門に入らない者は病気が再発することがあります。これは天帝の教えに背いたためです。」と、言った。

 左近はそれを聞いて、「なるほど良い法じゃ。しかし、釈迦の教えは未来のことを説いて勧善懲悪を勧め、三世をたてて教化するものではありませぬか。それなのに未来よりも現世を重視するとはどんな法であろうか。」と、尋ねた。

 破天連は、
「現世の果を見て過去未来を知るということが経典にも説かれています。天帝は慈悲によって、病人、貧民のこの世の苦しみを助けるから、未来は自然に天に生まれ、仏の位に至るであろうことは疑いありません。現世の苦しみさえ救うことができないなら、先の見えない来世を救うことなどできないでしょう。ほかの宗旨では仏に成るのを重要視し、この世のことは因縁と言って放っておくけれども、「私は仏になった」とか「私は地獄に堕ちた」とか現世に知らせに戻って来た者はいません。

 わが宗門は、その場で奇跡を起こし、信心さえすれば難病貧苦からも逃れることができます。このような天帝の教えなので、信仰を失うときはその罪を問われて罰をこうむります。他宗の人々は現世を棄てて未来を尊ぶので、貧民や病人が絶える時がありません。こちらはもっぱら現在を救うので、あなた様の御難病も治すことができました。ぜひ御信心ください。」と語った。

 武人の誉れ高い左近ももっともなことと思い、そのうえ自分の難病が再発することを恐れて、さっそく切支丹宗門に入り、本尊を拝んだ。

 また、「『剣難変死は早く天上に生まれる』という切支丹宗の教えは、武門の者が信じるべき宗門である」と考えてこれを重んじたので、後に石田三成、高山右近、長曾我部元親、小西行長らを初めとして歴々の諸侯もこの宗旨になった。

 このように切支丹宗がひろまり、普留満ら四人では破天連が足らなくなってきたので、助けた病人や貧民の中から才知ある者を選んで破天連にすることになった。

 まず生国加賀の禅僧の恵俊という者がいた。らい病を患い、醜い姿になったので乞食になり、京都に上って真葛まくずヵ原に倒れ臥していたのを南蛮寺へ連れて来て治療し、回復後、宗門に帰依するようになった者である。もと僧だったので、これを弟子にして、名をヒヤンと改めさせた。

 また、泉州岸和田の呉服屋安右衛門という、金持ちであったが酒色に耽り次第におちぶれて家も売り払って故郷を立ち去り、放浪しているうちに瘡毒を患い、膿や血が流れて人づきあいもままならず、そのため乞食になって京都に至り、大宮通東寺の回廊に隠れ住んでいたが、寺僧が哀れんで寺の余りものなどを与えてようやく命をつないでいた者と、もう一人は泉州黒村というところに生まれた百姓の善五郎という者で、これも村で一二を争う裕福な者であったが、放蕩者で遊芸や武術を好んで家業を嫌い、ついに家をたたんで京都に向かう途中で盗賊にあい、貯えていた金と着ていた衣服まで剥ぎ取られ、これもおなじく乞食になっていた者を、両名とも南蛮寺に連れて行き、治療して衣服を与えて養っていたが、この二人は至って才知があったので宗門に引き入れ、安右衛門をユウスモ、善五郎をシュモンと名付けて、ヒヤンと共に三人を弟子にした。

 そして、陀羅尼だらに呪文は言うに及ばず、秘術を授けて、丸めた手拭を馬の頭に見せたり、塵を鳥に変えたり、枯木に花を咲かせたり、土塊を宝石に変えたり、昼を暗くし夜を白昼のように明るくするなど、さまざまな妖術を三人の弟子に教えた。

 三人は喜び、人々に奇術を見せては毎日のように信者を増やし、南蛮寺様のおかげで難病が治ったのだと言って金銀米銭を出させたため、南蛮寺の繁栄は言いようもないほどのものとなった。


→ 高山右近味方となる事

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