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天草騒動 「7. 高山右近味方となる事」

 このようにして南蛮寺にはおびただしい金銀米銭が集まってきた。しかし、入念に練った謀計だったので、南蛮国から金銀をさらにたくさん取り寄せ、ますます宗旨を広めようと企んで三十日の間貧民に施しをした。施しの量は、一人につき米一升と金一分づつであった。

 もともと大乱の後で五畿内も困窮した者が多かったので、数千人が集まって施しを受け、互いに喜びあった。

 また、病人でない者も宗門の慈悲や善行に惹かれて宗門に入ることを願って来る者が多かった。それらの者には一人当たり金七厘づつ家族の人数に応じて与えたので、愚民どもがなつかないはずはなく、先祖代々の宗門を棄てて切支丹になるものが引きもきらなかった。

 恐ろしいことに、はかりごとが着々と進められていったのであった。

 破天連らは日本の事情を何によらず南蛮国に連絡したので、大王はおおいに喜び、南蛮の五ヶ国の金銀を日本へ送って、どんなに施しをしても金に不自由しないようにしたので、南蛮寺の施行のことが日本国中に知れわたり、珍しい宗旨だという評判が全国に広まった。

 信長公はそのころ岐阜に在城されていたが、ある時、諸士を召されて仰せになった。

「このたび京都に建立した南蛮寺の評判を聞くと、他の宗門とは違って病苦を治し貧民を救い施行を行っているという。寺から里というが、これこそまさしくそれである。この宗門は先年文教院が言ったこととは異なり、慈悲第一の法だという。」

 すると、前田徳善院法印玄以が、

「上意ではございますが、過ぎたるはなお及ばざるがごとしと申します。近頃ではかなりの大名がこの宗門に傾いていると承っております。武辺の者がこれほど信仰することは合点がいかず、理解し難いことでございます。この件については、とくと御吟味くださるようお願い致します。どのような邪宗か知れたものではありません。」と申し上げた。

 信長公はお笑いになり、「玄以の心配こそはなはだ過ぎたることであろう。わしの世にこのような宗教を広めさせることができれば、後世に賞賛されることになろう。」と仰せになって、まったく疑う様子もな、はなはだ上機嫌だった。

 こころある人はどうなることかと後のことを心配したが、御威光に恐れて、諌める者はいなかった。

 ちょうどその頃、摂州の荒木摂津守村重が反逆したという注進が入ったので、信長公はすばやく考えをめぐらし、荒木に味方した高山右近は武辺無双の者であるが、現在切支丹宗門を信仰しているということなので、ただちに宇留岩を召され、菅谷九右衛門を通して次のように命じた。

「切支丹宗門は慈悲深く正しい宗門であると聞いていたのに、今度叛逆した荒木に味方している高山右近は、そち達の宗門を信仰しているという。それなのにこの信長に敵対するとは宗門の本旨に背くことであろう。その方の働きで右近を帰順させればこれまでどうり布教させよう。もしもわしに背く宗旨であれば、すみやかに南蛮寺を打ち壊すであろう。」

 これを聞いて破天連は、
「仰せの事件はまだ当寺には知らせが来ておりません。さりながら高山殿がそれがしの宗門であることは相違無いので、きっと御幕下につけて御覧にいれます。万一、ことが不首尾に終わった場合、すみやかに寺を破却していただいてかまいません。」と、固く約束した。

 破天連は高山の陣に行って右近に対面し、「荒木の滅亡は目前ですから彼に荷担してはいけません。その上、宗門の掟に背くことはなりません。」と利害を説いた。右近はもともと切支丹の宗旨に帰依していたため、ただちに納得して、荒木から手を引いて織田方の無二の味方となった。

 これによって信長公はいよいよ切支丹に傾倒し、南蛮寺は次第に栄え、近国は言うに及ばず遠国までも広まり、病人や貧民が次々と宗門に入った。

 各人に米銭を与えたので、見ることのできない未来より現世で救ってくれる宗門が一番だと、愚民どもが皆この宗教に傾いたのも当然のことである。

 ところが、天正十年の夏、明智光秀が謀反を企て、六月二日京都本能寺に押し寄せて大軍で取り囲み、信長公はあっけなく自害して果ててしまった。

 これによって明智はしばらくの間天下人に成ったが、その時毛利を攻めるために中国に在陣していた羽柴秀吉公が、ただちに毛利と和睦して速やかに引き返し、山崎の合戦で明智を滅ぼした。その威勢は朝日の昇るようになり、天下を掌中にしてついに関白となられた。

 このような事件の間にも南蛮寺の宗門はますます盛んに広まっていったので、前田徳善院法印をはじめこころある人々はこのことに関して、「いそいで切支丹宗を御禁制にすべきです。」と秀吉公に言上した。

 秀吉公はこれをお聞きになって、
「わしは軍事に忙しいため詳しいことは把握していないが、追って沙汰しよう。土民や愚昧な輩がたとえ帰依したとしてもそれを改宗させることは簡単にできよう。まだ天下一統が成っていないので、四国九州関東を一日も早く平定して、戦いが終わってから吟味しても遅くはあるまい。」と言って、放っておかれた。

 やがて秀吉公は諸国を御征伐になり、天下一統の世となった。

 秀吉公は聖徳太子の頃から代々大工の棟梁をしている多門兵助という者に仰せ付けられて、摂州大阪に城をお築きになり、彼を中井大和守と改名させて録高五百石を賜った。

 また、信長公の頃からの番匠中村修理には、淀城の普請を仰せ付けた。中村修理は自分自身も淀の城下に住んでおり、これも日本の大工の棟梁であった。

 その頃、南蛮寺の弟子のヒヤンはさまざまな邪法を伴天連から授かったので、修得した奇跡をおこなって人々を宗門に引き入れようと工夫していた。そして、「もしもこの修理を引き入れられればその配下の職人やその縁者たちを大勢帰伏させることができるだろう」と考え、修理の様子を窺っていた。

 すると、修理は家を留守にしがちであり、彼の老母は家にひきこもっていて、仏道を篤く信心していることがわかった。そこで、まずこの老母から宗門に引き入れようと考えた。

 それから手段をめぐらして、供回りの人々を美々しく装わせ、自分は網代の乗物に乗って修理の家に向かった。

 山崎に出たあと枚方の渡しを越え、わざと夕暮れに淀の城下に到着し、中村修理の屋敷の前に乗物を下ろさせた。そして、若党を使いとして、
「それがしは、京都本能寺のあたりの出家です。用事が有って泉州堺にまかりこしたのですが、京都へ近付いたところで日が暮れてしまい、近頃物騒な世の中なので京都までの路程が安全とはいえません。出家の身で夜の旅には不安がありますので、はなはだ厚かましいことですが、なにとぞ一晩の宿をお願い申したい。」と、修理の家に申し入れた。

 老母はそれを聞いて、
「あるじは留守でございますが、私は老母で隠居の身ゆえ、都の御出家とあれば、御遠慮いりません。万事行き届かないことと思いますが、宿をお貸し致しましょう。」と、返答した。

 ヒヤンは、「してやったり」と乗物をかきいれさせた。

 老母が出迎えて見ると、供の僧二人、草履取り一人、若党二人、傘持ち一人、挟み箱持ち二人、駕籠かき四人の全部で十二人がつき従っていた。

 ヒヤンは白無垢を重ね、緋縮緬の衣を着て、金襴の袈裟とびろうどの襟巻をし、たいへん立派で尊い姿であった。

 老母はこれを見て心の中でありがたいことと思い、
「今夜お宿をお貸しすることは、一樹の蔭、一河の流れも他生の縁」とさまざまに歓待した。

 そして、「御不自由なことと存じますが、御用があったら御遠慮無く仰せください。」と言って自分の寝床に入った。

 夜が明けてから老母は朝飯の支度をし、持仏堂にあかりを灯し、香をたいて、朝の勤行ごんぎょうを終えた。

 きっと夕べの僧侶が焼香をしてくださるだろうと、持仏堂の掃除をしておいたところ、ヒヤンは、手水を供の僧に運ばせ、大きな声で「死後生天しごしょうてん把羅韋僧はらいそ雲善守麿うんぜんしゅまろ」と唱えるばかりで仏壇には見向きもしなかった。

 朝飯を食べ終わり、昨晩からのもてなしを感謝して、供を引き連れ京都に向けて帰って行った。

 老母は不思議に思い、たとえ他の宗派にしても出家の身ならば仏壇に拝むぐらいのことはすべきなのに思いのほかのこととあきれていた。

 さて、四五日過ぎて、侍が一人、家来に挟み箱を持たせてやって来て、京都南蛮寺からの使いと名乗って、
「過日一泊をお頼みした時は、さまざまなおもてなしにあずかり、かたじけなく、その御挨拶として使いを以て申し入れます。はなはだ粗末な物ですが、御礼のために進上致します。」と、伽羅一斤、五色のどんす五巻、金の香炉一つを出した。

 老母は辞退したが、ひたすら「寸志です」と言って、強引にそれらを置いて帰って行った。


8. ヒヤン中村修理にちなみを結ばんと謀る事

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