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天草騒動 「49. 大矢野、千々輪の働きの事」

 千々輪の手の者は天草玄察と千束善左衛門を救援するために、まず先鋒の大江治兵衛、上総三右衛門、鹿子木左京らが横合いから鬨の声をあげて打ちかかった。

 それに力を得て千束善左衛門も引き返し、勇んで進んで陣頭に立ち、「止まれ。引き返せ。」と味方に下知し、千々輪の勢と一緒になって勝ち誇った立花家の勢に立ち向かった。

 立花家では兵士五六十騎が馬を並べて一揆を陣の外に追い立て、また、高橋十大夫と小野掃部が槍の穂先を揃えて、「一番槍っ」と言いながら突き倒し突き倒し一揆を追い払った。

 そのありさまを見て千々輪五郎左衛門は、黒糸縅くろいとおどしよろいと黒毛の兜を着け、大身おおみの槍を振り回しながら鬼神のように駆けてきて高橋に挑み戦った。そして、千々輪の槍先が、電光石火のごとく、たちまち高橋を馬から突き落とした。

 続いて立花家の小出七九郎が歩行かち立ちで打ってかかった。

 千々輪はきっと睨んで槍を取り直し、片手で薙いで打ち伏せたが、そのはずみで槍が折れてしまったので、すかさず太刀を抜き、七九郎が起き上がろうとするところをただ一太刀で斬って捨てた。

 なおも進んで、「大将の立花殿に見参っ。」と叫んで深入りした。それを立花侯の家来が取り囲んで火花を散らして戦ったが、そのありさまは昔の梶原景季の生田の森の戦いもこのようなものであったかと思われるほどの激しさであった。

 この千々輪は、もと加藤家七十万石で家中随一といわれた馬術の名人であり、槍は大島流の達人だったため、近寄る者どもはまったく太刀打ちできず、またたく間に十四五人が枕を並べて討たれてしまった。

 千束も勇猛ではあったが、もともと百姓だったので、鵜の真似をする烏というもので、千々輪と馬を並べて戦っているうちにあぶみを踏み外して尻からどっと落馬してしまった。それを見て立花家の勢が駆け寄り、槍襖やりぶすまにあげた。

 しかし千々輪の戦いぶりが激しかったため千束の首を取る隙は無かった。

 そこに千束が手負いとなって苦しげな息をつき、「千々輪殿、千々輪殿」と声をかけた。千々輪はそれを聞いて一揆どもに助けさせ、自分はなおも勇を振るって六七人を突き倒して大軍の柳川勢を追い返し、その後、玄察の勢と合流して、蘆塚、大矢野らと共に兵をまとめて休息した。まことに天晴れな働きぶりであった。

 赤星内膳は五百人余りの一揆に下知して、寺澤と松倉両家の陣に棒火矢を射かけさせ、陣屋が燃え上がるのを合図に鬨の声をあげて一斉に押し寄せた。

 両家の勢は以前から一揆に懲りて臆病風に吹かれていたので、赤星の軍勢の勢いに辟易しておおいに騒ぎ乱れた。

 そこに赤星が下知して槍で突き回り、一揆の者どもは勝ちに乗じて追い立てたので、両家の軍勢は本陣にもとどまれずに敗走していった。

 その中にあって、寺沢家の老臣の三宅藤右衛門がただ一騎で踏みとどまり、大薙刀を振り回して、最近の手傷がまだ平癒しないにもかかわらず、一揆の者七八人をたちどころに薙ぎ伏せ切り伏せ、飛鳥のごとく駆け回った。一揆どもはこの勢いに押されてそれ以上進めなくなってしまった。

 この様子を見て寺沢家の松下半之丞、蔭山五兵衛、谷八右衛門、小笠原斎之助、渡邊卜庵、柴田弥右衛門らが負けじ劣らじと取って返して進んでいった。寺澤兵庫頭殿も馬を乗り出して「かかれ、かかれ。」と采配を打ち振った。

 三宅は先頭に立って進み、一揆の中に一直線に駆け入って四方八方に追い散らした。

 そこに赤星内膳が三百人をしたがえて横合いから突いてかかったので、寺沢家の軍勢は再び追い立てられたが、松下半之丞はその場に踏みとどまって、薙刀を振るって五六人を斬り倒し、赤星めがけて飛びかかった。

 赤星はそれに応じて受けつ流しつ戦ったが、そのうち、赤星が「えいっ」と声をかけて真一文字に繰り出した槍先が松下の胸板を突き貫いた。

 そこに三宅藤右衛門が走って来て、赤星の兜のしころに手をかけて引き倒そうとした。赤星はそれをふりきりながら斬りつけたが、三宅は身をかわしざまに薙刀で赤星のあばらに切り込んだので、赤星はたまらず、真っ逆様に落馬した。

 首をかこうとしているところに森宗意軒が百人ほどの一揆どもを引き連れて駆けつけ、寺澤勢をさんざんに追い立て、赤星の死骸を馬にくくり付けて辛くもその場を退いた。

 寺澤と松倉の勢は、一旦は大崩れに崩れたったが、三宅藤右衛門の奮戦で他の者も勇気を取り直し、ようやく周章狼狽も鎮まった。

 一揆は五組とも兵をまとめ、全軍で合図の太鼓を打ち鳴らした。城内ではそれと同時に一斉に鬨の声をあげて無数の松明を振り立てた。

 寄せ手が、「あっ、城内から一斉に打って出るぞ。」とあわてて備えを立て、兵を繰り出す用意をしている隙に、五組の者どもは全員それぞれに引き上げていった。

 今度の一揆どもの夜討ちの軍略は、天晴れな駆け引きというべきであった。これはすべて蘆塚の胸の内から出たもので、何者も及び難い軍略であった。

 寄せ手のうちで、出丸の前の鍋島家の陣だけには今晩の夜討ちはなかった。これは日頃から堅固に守備しており、また、甲斐守殿の武略がすぐれていたので一揆どもも不意を討ち難かったのと、城内から騎馬で進むためには足場が悪かったためであろう。いずれにしろ鍋島家に武運が備わっていたのである。


50. 原城中困窮の事

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