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天草騒動 「50. 原城中困窮の事」

 こうして思いも寄らない夜討ちにあっておおいに騒動し、今にも旗本までが乱れ立ちそうになったが、黒田と立花の両将の粉骨砕身によってひとまず事はおさまった。

 伊豆守殿はこれに懲りて、ただちに陣屋の周りに堀を付け、土手を築き、柵を作って用心を厳しくするよう下知した。そして、まるで籠城するかのように備え、城内への通路を断ち切った。

 ところが、鍋島家の陣の前だけは柵をまったく構えず、竹束を組んで毎日仕寄せを付け、鉄砲を撃ちかけて、今にも城に押し登るように見せかけて一揆を驚かせた。天晴れな武略というべきであろう。

 さて、このようにして秋が去り冬が終わって早くも寛永十五年の初春になった。

 一揆が籠城してから今日まで、ほとんど百三十日余りになろうとしていた。まだ落城していないとはいえ、もはやその時も近付いていた。

 はじめに入城した時は、兵糧もたくさんあって何不自由無く、弾薬や武具も十分に用意して、一揆の百姓、男女合わせて四万六百人余りが立てこもったが、年を越えてだんだん人数も減少し、五老のうち赤星内膳、四鬼丹波、堂島対馬、楠浦八郎兵衛、葭田三平らが討死し、山田右衛門は牢に入れられ、そのほかに雑兵三千人余りが討たれて、頼りない状態になってきた。

 ことに兵糧には限りがあったので、籠城のはじめから蘆塚が一回の食事の量を決めて、その都度分量を計って食事をとってきたが、なにぶん日数がたっていたため、次第に兵糧も少なくなってきた。今では一日に一度、粥か雑炊を食べることに決めてあったが、一揆の者らは百姓なので元来大食であるうえ、ことに明日をも知れない命であったので、とかく蘆塚の下知にしたがわないようになってきていた。

 近頃は兵糧が乏しくなり、菜にも草木の葉を混ぜたり、海草を採ってきて朝晩の食事に代えたりしていたため、城兵はひどく倦み疲れた様子であった。しかし、蘆塚の諌めによって一同なんとか勇気を奮い立たせ、去年から少しも屈せず籠城を続けていたのである。

 蘆塚が人々に向かって、「またそのうち異変もあるだろうが、おのおのの退屈を紛らすために、近いうちに城から討って出て華々しい戦いをしよう。」と言い聞かせたので、一揆どもはそれを張り合いにして今日か明日かとその日を待った。

 さて江戸表では、西国からの注進で板倉殿の討ち死の事、伊豆守殿の釣井楼の不覚、山田の内応が露見して城攻めが失敗した事などが伝わり、さまざまな噂が飛び交って、このうえ天下にどのような変事が起こるのかと、人々は不安な日々を送っていた。

 幕府では毎日諸役人が評定していたが何も決まらなかったので、水戸宰相光国公が、

「今度の島原一揆に対する討手には、老職の面々、ならびに細川、黒田、鍋島、有馬、立花、小笠原、毛利、寺澤、松倉らが大将になっている。また、海辺の守備には、島津、大村、五島、相良らが当たっている。総勢十六万人余りに達し、大将や軍勢に不足は無い。それなのにいまだに鎮圧できないのは、きっと軍慮がつたないためであろう。したがって、今度は北条安房守を下向させるのがよかろう。」と、仰せになった。

 異議を唱える者もなく、結局水戸公の仰せのとおりに一決して、北条殿が下向することに決定したので、さっそく殿中にお召しになった。


(原注)
 
北条安房守殿が天草一揆追討のための軍師となるよう命じられて肥前国の原城に発向したということだが、実際は北条氏が発向したのではない。この時に将軍家の御名代として肥前国原城に発向して、諸将を励まし良策を用いて、ついに猖獗をきわめた一揆を滅ぼして大いなる勲功をあらわしたのは井伊掃部頭直孝殿であって、安房守殿とあるのは全くの誤りである。このことは現在に至るまで人口に膾炙しており、本文に書かれているのが誤りであることは明らかである。

 また、ある人の話では、その頃井伊直孝殿が、島原表で諸家に対して指図された事項を書いた手控帳を、旧島原領主の松平主殿頭とのものかみ殿の藩士が現在まで所持しているという。

 掃部守殿は三十五万石の家格であったので手勢を多数引き連れていくことができたはずだが、寄せ手の人数は十分であったから、軍陣の指揮だけを任務として発向され、近習と馬廻りの者などの武士を十人ほど引き連れただけで、総勢でもわずかに三四十人召し連れただけであったという。



 さて、将軍家は安房守に、「このたびの島原の一揆の追討に関して、その方、早々に出立し、伊豆守ら諸将と相談して軍配について一層の思慮を尽くし、速やかに落城させるようはからえ。」と、命令した。

 安房守殿はかしこまって、「勝敗は時の運であることは当然でございますが、安房守が出立して軍議をおこない、諸将を励まして追討し、近いうちに落城の御報告ができると思います。」と承諾の言上をし、すぐに供廻りの者数人に自分の具足のみを持たせて発向した。

 大阪城に到着して、そこで早船を点検して安房守が、「今回は大事件の追討に向かうのだから、陸路を使って下向するべきだ。」と、言った。

 御城代が、「この季節は瀬戸内は風や波もあまりありません。陸路はたいへんですから船の方が良いでしょう。」と仰せになったが、安房守殿は万事に詳しいので、

「そこが問題です。陸路を使った場合、播磨、備前、備中、備後の海辺を経て、下関までおよそ百五十里で、海上を行った場合、百五十二里です。したがって同じ道のりですが、船を用いた場合、風の順逆や汐の干満があり、何かと意のままにならないことがあります。陸続きでない所は仕方ありませんが、陸路を行けば一昼夜で確実に三十里は歩くことができるでしょう。

人足らも身軽にさせて、少人数でここまでやってきました。とかく人は、橋があるのに渡河し、陸路を行けるのに船に乗り、昼に行ける道を夜に行き、本道があるのに近道と称して山を越えるものですが、これらはどれも、災難に遭遇する可能性を増す行いです。大将がすべきことではありません。」と言って、陸路を使って下向された。そして、寛永十五年二月二十六日に島原表に着陣した。

 これに先立って、安房守殿が江戸表を出立の際、水戸光国公が安房守殿を召されて密談したことがあった。

 光国公が、
「今度の戦が困難な情勢になると、どんな天下の動乱になるか予測し難い。また、壱岐、対馬、平戸は異国に近く、昔から異人とたびたび交流がある。その上、外様の諸大名には異心を抱く者が無いとは言えない。今度そこもとが着陣したら、西国の諸大名に発向するよう命令してやろう。その次には井伊家と藤堂家を差し向けるであろう。これは国家の大事であるから、そこもとの心底を包み隠さず申されよ。」と仰せになった。

 安房守はその返事として、
「それについては御安心めされ。拙者が西国に下向したという報告が届いたなら、すでに原城は落ちたと考えてくだされ。軍勢を諸大名に催促する必要はありません。なぜなら、将軍家の御威光を戴いて諸大名に下知をくだし、合戦をおこなえば、百姓一揆はおろか朝鮮国をも伐りしたがえてご覧にいれましょう。また、もしも私めが軍兵一千人を率いて城に立てこもれば、たとえ天下の軍勢を集めて攻められても、兵法を以て何の苦も無く対応できるでしょう。」と大言を吐いた。

 光国公はこの大言を心に銘じて忘れなかったので、島原一揆の平定後にその功によって安房守殿を城主にお取り立てになってもよいところを、光国公はこの時の安房守殿の言葉を考慮して、それをお止めになったということである。


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