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天草騒動

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島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。伝奇小説のような趣もあり、読み物としてたいへんに楽しめるものです。目次のページからお読みください。
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2023年11月の記事一覧

天草騒動 「60. 原の城二の丸を攻め落とす事」

 一将勇なれば万卒これにしたがう、というが本当にそのとおりである。甲斐守殿が二の丸を乗っ…

天草騒動 「59. 千々輪五郎左衛門討死の事」

 千々輪五郎左衛門は一騎当千の勇士であったが、惜しいことに方向を間違えて逆徒の頭分になっ…

天草騒動 「58. 鍋島甲斐守殿、二の城戸一番乗りの事」

 さて、鍋島甲斐守殿は今朝の卯の刻から城攻めを始め、出丸を一番に乗り破ったあと、人馬を休…

天草騒動 「57. 仁木勘解由、智弁の事」

 さて小笠原殿は、戦の次第を征討使に注進する使い番を誰にしようかと考えていたが、仁木勘…

天草騒動 「56. 森宗意軒最期の事」

 さて、豊前国小倉城主の小笠原右近将監殿は、同姓備後守殿、同姓匠頭殿、その他総勢一万八千…

天草騒動 「55. 黒田家惣曲輪一番乗りの事」

 さて、黒田三左衛門がこのありさまを見て、「何とものものしい。一揆どもの戦いぶりなど、ど…

天草騒動 「54. 千々輪五郎左衛門力量の事」

 そこに長岡の次男の万作がずかずかと出て来て、「この橋の一番乗り、長岡万作なりっ」と言いながら千々輪に近付き、むんずと組み付いた。  千々輪は、「こしゃくな小せがれめ」と、万作の鎧の上帯を取って、橋の中程から寄せ手の方に投げ返した。  万作は投げられながら立ち直って、「これは心得難いふるまい。尋常に勝負しろ。」と言って再び飛びかかろうとした。  千々輪はそれを見て、「まだ若輩ながら、武勇の者のようだ。討ち取るには忍びないから助けてくれよう。」と言いながら、跳ね橋をえいや

天草騒動 「53. 細川家総攻撃の事」

 さて、細川越中守忠利殿は、鍋島家と黒田家の鬨の声を聞いて、「それっ、城攻めに遅れるな。…

天草騒動 「52. 黒田家の先鋒の戦いの事」

 鍋島甲斐守殿はしきりに下知して押し登り、先鋒の五千人余りが出丸の松山を乗っ取って、旗を…

天草騒動 「51. 北条安房守殿軍配の事」

 こうして北条安房守殿は、二月二十六日の未の刻(午後二時頃)、島原に着陣した。  伊豆守…

天草騒動 「50. 原城中困窮の事」

 こうして思いも寄らない夜討ちにあっておおいに騒動し、今にも旗本までが乱れ立ちそうになっ…

天草騒動 「49. 大矢野、千々輪の働きの事」

 千々輪の手の者は天草玄察と千束善左衛門を救援するために、まず先鋒の大江治兵衛、上総三右…

天草騒動 「48. 一揆の兵ども腰兵糧を落とす事」

 その晩、蘆塚の配下が引き揚げたあとに腰兵糧がたくさん落ちていた。  伊豆守殿の本陣に差…

天草騒動 「47. 蘆塚夜討ち謀略の事」

 時は寛永十五年正月二十四日のたそがれ頃、城兵は麓に討って出た。  寄せ手はこれを見て、「あっ、城内から夜討ちを仕掛けてきたぞ」と全軍が騒ぎ立ち、それぞれ鎧を着けて馬に乗り、旗を押し立て、手配りを決めて、城兵の攻撃を待った。しかし、城兵は一向に押し寄せてこない。  そこで伊豆守殿は、「城兵が来ないのなら、こちらから攻めかけて討ち取ってやろう。」と、下知した。  大手の黒田、有馬、小笠原、立花、寺澤、松倉ら六家の軍勢が一斉に押し出し、鉄砲を撃ちかけようとした。  すると