見出し画像

出発待ち10年

私は、死ぬのが怖い。
物心がついた時からずっとそうだ。いつか必ず来るその日のことを思うと気が狂いそうになる。別に生死の境をさまよったことがあるわけでもなく、身内の死にトラウマがあるわけでもない。いたって健康に生きてきて点滴すら打ったことがないし、親族はみんな長生きなもので30歳手前まで喪服を着たことがなかった。それなのに、一度恐怖に飲まれると、しばらく抜け出せない。頭を振ったり、自分の腕や足を強く握って爪を立てたり、「やめてやめてやめて」と唱えたりして、なんとか振り切っている。

その恐怖は、風呂に入っている時、寝る前、日常生活を送っている最中、唐突に頭の中に現れる。「やばい」と感じた時点ですぐに思考を止めてしまえばそれでいいのだが、度々それは暴走する。いつか死ぬよ絶対死ぬよ死んだらどうなる脳も目も耳もすべてなくなる消える思うことも感じることもすべてすべて無無無無無

「いやだ!無理無理無理!死ぬ!!」

18歳の時、今までその都度何とか振り切っていた恐怖から抜け出せなくなった。
今でも忘れない、ある残暑の午後、受験に向けて国語の課題を解いていた時だ。やはり何でもないときにその恐怖は現れ、そして、思考のすべてを支配した。いつものように私は頭を振り、自分の身体に爪を立て、やめてやめて忘れろ忘れろと唱えた。でもとうとうその日、恐怖は頭から剥がれてくれなかった。夜が明ければきっと…と、なんとか眠ったものの、朝を迎えても恐怖は居座り続けた。
食事は「いずれ死ぬのに食べる意味があるのか」と虚ろな目で摂るようになり、18歳にして一人で風呂に入れなくなり、暗い寝室に行けなくなった。学校はどうしていたのだろう。出席していたはずだけど、どうやって1日を乗り切っていたか記憶がない。
「死の恐怖から逃れるためにいっそ死にたい」という訳の分からないことを口走り、夜中に目覚め泣きわめくようになったところで、母に心療内科に連れていかれた。

うつ病だった。

祖父は大正の終わりに生まれた。
幼少期は立て続けに兄弟を亡くした。父親は博打好きで金遣いが荒く、家計が苦しかったこともあったようだ。
太平洋戦争の時は、兄が亡くなり自分が長子の立場になっていたにもかかわらず、自らの希望で出征。特攻隊にも志願したという。勇み立って故郷を発ったものの、戦地に向かう航海の途中、自分が乗った船以外はすべて爆撃を受け海の底に沈んだ。戦場では、一緒に見張りをしていた友人が真横で銃弾を受け倒れたという。終戦後はフィリピンでしばらく捕虜生活を送った。しかし、ようやく帰国した2年後に父が、その翌年に母が他界し、若くして両親を失った。

祖母と結婚した後は、二人で親戚に裁縫を習った。戦争の記憶や家族の死を振り切るよう必死に修行し、洋装店を始め、70歳までミシンを踏み続けた。

孫にも恵まれ幸せな老後を送る中、74歳の時に胃がんが発覚。胃の3分の1を切除した。腹なんか切りたくない、もう次の手術はしないと言っていた。80代になると転倒が増え、脚の骨折もした。結局また手術、やはり「もう次こそは」と語り、杖は「みっともない」となかなか使おうとしなかった。

「もっとじいちゃんは、早く死ぬもんだと思ってた。なのによ、兄弟や友達ばっかどんどん先に死んじゃって、自分だけ長生きしちゃって。じいちゃんはもういつ死んでもいいと思ってるんだ」

ある日、私と二人きりでいる時、祖父は唐突に出生から現在までの身の上話を始め、最後にこう締めくくった。私はうつ病の治療中だった。そんなこと言わないでまだまだ長生きしてよ、と軽く流すことができず、私は「やだやだ死なないで」と大泣きした。単に思っていることを素直に語っただけの祖父は、愛孫を自分が泣かせてしまったということにひどくショックを受け、「泣くなよぉ」とおろおろした。

祖父は涙を誘うためにこんなことを語ったのではない、本当に心から「いつ死んでもいい」と思っているのだということは充分分かっていた。分かっていたが、つい「私のためなら考えを改めてくれるかも」と思い、うつ病治療中であることを打ち明け、怖くなるから死ぬことは話さないでと駄々を言った。(後で祖父から祖母、そして母に話が回ってしまい「じいちゃんに余計な心配させるんじゃないよ」と叱られた。)

「何か目標があればもっと長生きしてくれるかも」とも思い、当時まだ男と付き合ったこともないくせに「私が結婚するまで生きててよ、ウェディングドレス姿見てよ!」と泣き喚いた。祖父は「分かった、分かったから、泣くなよぉ」とおろおろしながら私をなだめた。

それから10年後の冬。忘れもしない12月22日、仕事中の私のもとに母から連絡が入った。

「じいちゃん、大動脈瘤破裂で入院した」

穏やかではない漢字の羅列に心臓が跳ねた。急いでトイレへ行き、個室の中で「大動脈瘤破裂」についてスマホで検索した。検索結果は「動脈瘤は発見された時点で切除手術をする」という記事ばかりで、破裂後のことに触れたものは見当たらなかった。祖父はこのまま逝くのだと悟った。

間に合わないかもしれないと思いながら、仕事帰りに一人で涙ぐみながらツリーの形をしたクリスマスカードとさわり心地のいい犬のぬいぐるみを買った。最後に少しでも綺麗なものや心安らぐものに触れてほしかった。翌日は朝から夫に車を出してもらい高速を飛ばして1時間半、久々に田舎の澄んだ空気を吸った。

病室に入ると、涙目の祖母がベッドの横で祖父の手を握っていた。私に気づくと「ありがとね、ありがとね、お父さん、みんな来てくれたよ」と泣きながら立ち上がった。

私は自分が持つ祖父との思い出をすべて一気に語った。ポケモンの絵を褒めてくれたこと、ヤマメ釣りに行ったこと、海軍時代の教科書の数学問題を一緒に解いたこと、金婚式を祝う旅行に行ったこと、あちこち散歩をしたこと、去年の正月に二人で日本酒を飲んだこと。「私が全部覚えているから大丈夫」と、自分でも何が大丈夫か分からないまま、とにかく安心してほしい気持ちで語り続けた。耐え切れず涙があふれたが、祖父は一緒に泣くことも、微笑むこともなく、ただただ穏やかに聞き、特に何も答えなかった。

最後にもう一回見ておいてよ、と私の結婚式の写真を収めたアルバムを開いた。この年の夏、私は結婚し、石垣島で挙式したのだ。祖父は目を細めながら「うちにも、たくさんアルバムあるだよ」と言った。今思えば、最後に自分の家族の写真も見ておきたかったのかもしれない。真意を聞くすべはもうない。

私の両親と妹、叔父夫婦も集まり、午後は何となく世間話をして穏やかに過ごした。祖父の死の訪れは、今日かもしれないし年明けになるかもしれないとのことだったが、いずれにせよ確実に死ぬのだ。「いつか」来る死より「ここ数日で確実に」来る死の方が怖くないのが不思議だった。

それでも、面会終了時刻が近づき病室を出る時には再び涙が出てしまった。何とか笑顔を作って、前日買ったクリスマスカードを祖父の枕元に飾り、「来年は戌年だよ」と犬のぬいぐるみを手元に置いた。「ふわふわだよ、触ってリラックスしてね」と声をかけると、祖父は「おう、おう」と目を細めた。
「じゃあじいちゃん、帰るね。またね」――バイバイよりじゃあねより、またね、が一番しっくりくるなと思いながら病室を後にしようとすると、祖父はこちらを見て何かもごもごとつぶやいた。必死に口角を上げて「ん?なあに?」と聞くと、なんだ聞こえなかったのか、とでも言いたげに祖父はそっぽを向き「大丈夫だよぉ」とだけはっきり答えた。そうか大丈夫なのか、と妙に納得し私たちは病室を後にした。
この「大丈夫だよぉ」が、私が聞いた最後の祖父の言葉だ。

翌早朝、祖父は意識を失った。同室で寝ていた母と妹は4時ごろ偶然目を覚まし、20年来動かしていなかったオルゴールが2,3音鳴ったのを聞いたという。後で叔父に話すと「ああ、親父が落ちた頃だ」と言っていた。

冬の太陽がゆっくり山際を超えるころ、昨日と同様に家族みんなが病室に集合した。心電図モニターの音と、祖父のゆっくりした呼吸、そして祖母の「お父さん、お父さん」という涙声に迎えられた時、私はなぜか白い飛行艇に乗り込み、出発を待っている祖父の姿を思い浮かべた。エンジン音の中、静かに空を見ている祖父だ。

やがて心電図モニターの示す波動が小さくなっていき、直線を描いた。ドラマで見たそれは「ピ――――」と長く鳴っていたはずだが、実際には「ピピピピッピピピピッ」とけたたましく「異常」「緊急」を表現し、医者や看護師を呼んでいた。もういいよ、と思いながら私は「じいちゃん、お疲れ様!」と叫んだ。祖父のベッドを囲んだ全員が「お父さん、ありがとうね!」「親父お疲れ!」と92年を生きた祖父を涙声で労った――ところで、再びモニターに小さな波が現れ「ピ…ピ…」と鼓動を打ち始めた。

「ちょっと、じいちゃん!復活?!」「もういいって親父!休め!」と今度はみんな笑った。息を吹き返した、と喜んだわけではない。この鼓動はただの余韻みたいなもので、もうみんな祖父がそのまま逝くことは分かり切っていたけど、最後にひと笑い取ったのだと大爆笑した。きっと祖父は、涙声の感謝の言葉より、いつもの笑い声が聴きたかったのだ。

よく晴れた12月24日の朝、祖父は亡くなった。

年の瀬の葬儀は、あっという間に終わった。私は生まれて初めて人の死と亡骸と、故人を偲ぶ様々な儀式と、遺灰を目の当たりにした。うつ症状の再発を私も、裏では母も心配していたが、なぜかそれは終始なりを潜めていた。
死んだ人って本当に冷たい、単に冬の寒さで冷えたとかそんなものとは違うんだ、と祖父の手や頬に触れて冷静に思った。祖父の亡骸はまじまじと見つめられるのに遺影を見ると泣けるのはなぜだろう、と黙々と分析した。想像していたほど残らなかった祖父の骨を見て火葬場の炎の強さに驚愕しながら、それを壺に入れた。

しかし、うつ症状が出なかったとはいえ相当なエネルギーを消費したのは確かだった。年末年始独特の浮き足だった雰囲気を微塵も感じられないまま、湿っぽく冬季休暇が終わってしまったので、翌週の土日に夫と温泉宿に泊まった。ここで気持ちを切り替えるつもりだった。

それなのに、旅行から帰ってもすっきりするどころか胸やけを感じ食欲は減退、倦怠感が抜けず生理が来なかった。眠ろうとすると呼吸が浅くなったようで息苦しい。自分では難なく祖父の死と葬儀を乗り越えたつもりでも、体は正直なのだ。内科か婦人科か、10年ぶりに心療内科か…まずどの医者に掛かればいいのだろうかと夫に相談した。

「それってさ…」

2月。祖父の四十九日の法要のために、家族は再び集まった。祖父の死後、しょぼくれて座っていることの多かった祖母が、礼服に着替える私に近づいてきて「おいで、カイロ貼ってあげる」とテキパキ動いた。ここ数年、私が老いた祖母を労わる側に回っていたので、こうして世話を焼かれると子供の頃に戻ったようでこそばゆい。そして嬉しい。
「あったかくして、大事にね、無理しないようにね」

私は、妊娠していた。夫は、近所の心療内科を検索する私に妊娠検査薬を渡してきたのだ。くっきりと現れた陽性のサインを見て、祖父の死によるものと思っていた体調不良はすべて妊娠初期症状だとようやく気付いた。内科でも婦人科でも心療内科でもなく産婦人科に掛かり、私はおたまじゃくしのような我が子の心臓の音を聴いて泣いた。

母曰く、晩年の祖父は「ちょっと生きるのに疲れていた」という。

「具合が悪かった訳でも、鬱々としていた訳でもないけど、時折ぼうっと遠くを眺めててさ。私、何度か『明日死ぬかもな』って思ったもん」

母の話を聞きながら私は10年前のことを思い出した。
そうだ、祖父はずっと休みたがっていた。家族や友人が逝くたび「俺も」と思いながら過ごしていた。
それなのに「いつ死んでもいい」と話したあの日から10年も生きて、私の「ウェディングドレス姿を見て」というわがままな約束を守ってくれた。しかも私に病む隙を与えないよう、長年連れ添った妻や子供たちに希望が湧くよう、曾孫の命の始まりを待って旅立ったのだ。

「親父、若いころからかっこつけでよ。みっともないとこ見せたがらないんだよな。死ぬ前最後に水飲んだ時も、口湿らせる程度だったのに『旨いなぁ』って酒飲んだみたいに気丈に言ってよ。最後の最後まで笑い取ってったしな」

叔父の言う通り、いやそれ以上に、本当にかっこいい祖父だった。

おたまじゃくしのようだった我が子は順調に私の胎内で育ち人間になり、そして生まれ、人生を始めて、今年で2歳になる。私はやっぱり死ぬのが怖いけれど、だいぶうまくあの恐怖をかわせるようになったと思う。あちこち駆け回り、泣き、笑い、常に成長していく息子から目を離してくだらないことを考えている場合ではない。私もいつか新しい命のために場所を譲るのだと思って、今は目の前の「生」に必死になっていればいい。どうしても不安なときは92年を歩みきった祖父の、説得力ある「大丈夫だよぉ」を思い出す。そう、万事大丈夫なのだ。

今年もお盆が来た。祖父は帰ってきただろうか。
いや、昨年末、祖父母宅に息子を連れて顔を出した時、「どうぞ」を覚えた息子が、祖母、叔父、そして誰もいないダイニングテーブルにお菓子を配っていた。生前の祖父の席だった。案外、いつでも軽くなった足取りでひょいひょい出かけて、その辺で見守ってくれているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?