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短編小説『唾棄』

 飼い殺しにされる犬の生涯について考えたりしているのは酔っ払って朦朧とした頭だからではない。どこからか聞こえ続ける遠吠えに耳を澄ましながら、地面から起き上がれない重すぎる身体を不自由に思った。もう今夜はここで寝てしまおう、笑いすら込み上げる諦念に包まれながら目を閉じた。しかしすぐに絶叫にも似た嬌声が私から眠気を奪う。どうにか上体を起こすと、地べたに座り込んではしゃぐ者等が見えた。雑居ビルの隙間、細く暗い路地に寝転ぶ私とは正反対の、街の灯りを吸収しながら何倍にもして光を振り撒いているかのような眩しさに溢れた若者の群れだ。特に目を惹いたのは群れの中心らしい女。真っ黒い革のジャケットにダメージの入った黒のスキニー。おまけに黒のラバーソールを履いているという時代錯誤的なまでにコテコテの出で立ち。少し距離があるので分からないがきっとピアスも沢山していることだろう。見ているうちにいつしか私の身体からは重さが消えていて、ふらふらと彼女の元へ歩いてしまっていた。
「うぉわっ! なんかやべーのきたぞ!」
 女の肩へ腕を回している男が初めに私に気付いて大声を上げた。黒尽くめの女も男の視線を追って私のことを認識したらしい。目が、合ってしまった。
 彼女の目の前にしゃがみ込む。思った通り。耳にはびっしりと金属が並び、口の端にまでピアスは付いている。少し濃すぎるほどの黒いアイシャドウに、深紅の口紅。驚きに見開かれる目にかぶさる睫毛は瞬きの度にバサバサと音がしそうな程に長い。
 じっと目を見つめ続けても彼女は少しもたじろぐことなく視線を返してきた。至近距離で本気のガンをつけてくる。まるで先に逸らした方が負けだとでも思っているかのような勢いだ。
「名前は?」
 一向に自分の眼力に慄かないどころかいきなりそんなことを言ってきた物だからさすがにいくらか恐れを成したらしい彼女は後ずさった。周りの男達とひそひそ何かを話し始める。大方、キマってるんじゃないかとかそんな話だろう。
「名前、教えてくれない?」
 私は気にせず食い下がった。
「意味分かんねーんだけど」
「お姉さん相当出来上がってるね、帰って寝たほう良いよ」
 女の両脇にいる男どもが口々に嘲りや適当に優しいフリをした言葉をぞんざいに転がしてくるが肝腎の女は口を開こうとしない。私はあなたの言葉を聞きたいのに。
「豚は黙ってろ」
 私が言うとしーん、と場は静まり返ったが、やがて男達は態度をすっかり変えて罵声を浴びせてきた。
「あーあーうるさいもう! アンタ達バカじゃない? なに酔っ払いにマジになってんのさ。やめよう、行こうほら」
 女は立ち上がって連れをいなしながら何処かへ去ろうとする。私は立ち塞がってそれを阻んだ。
「やっと喋ってくれた。でもまだ名前聞いてないよ」
 女はとうとう怯えを隠すこともやめて顔を青ざめさせた。男達も身の危険を感じ始めたのか、静かな殺気を漲らせている。
「ああ、まずは私からしたほうが良いかな。バンツバキです。坂って書いてバン。椿はまあ言わなくても分かるよね。はい、じゃあ次はあなたの番……あははっ! 今の、わざとじゃないよ?」
 立ち上がりかけた姿勢のまま固まっていた男のうちの一人が「とりあえず名前教えてやれよ、そうすりゃ満足すんじゃね?」と丸聞こえな耳打ちを女にした。女はうなずく。
「ムタアヤ」
「漢字は?」
「ムは……」
 ムタアヤは傍らの男に「何のムだあれ!」と訊くが「しらねーよ!」と即座に言われて私の方へ苛立ち紛れに向き直る。私はスマホで検索エンジンを開き「ムタ」と入力して変換してみた。
「これ?」
「あ、それ……」
 「牟田」という表記が正解らしいことを知り、同じようにして「アヤ」は「綾」であるという情報も得ることが出来た。牟田綾……坂椿も大概だがなかなか名前らしくない字面だ。
「ありがとう、それじゃあ牟田綾さん。一目惚れしました。付き合ってください」
 綾は「は?」という形に口をぽかんと開ける。男達は私の存在に慣れてきたのか、くすくすと笑い始めている。
「やったなー綾! 彼女、ははっ! 彼女出来たじゃん!」
「いや、うるせーよ! え、訳わからん、惚れたの? アタシに?」
「うん」
「はーっ……バンツバキ? アンタなんなの?」
「私が何か? なんだろね……とりあえず今は酔いどれOLか……なっ、あっ、まずい」
 無理して動きすぎた。私は綾めがけて思い切り吐いてしまった。彼女が上げた綺麗なハイトーンの悲鳴に犬が遠吠えを重ねるのが聞こえた。

 綾は忠告する男たちを羽虫か何かのようにしっしっ、と追い払って私に肩を貸しながら歩いた。数メートルごとに胃の内容物を側溝に撒き散らす私の背をその度にさすってくれる。思った通りだ。目の前で苦しんでいる人がいると放っておけないタイプ。なんて素敵。
 二人とも服から異様な臭気を発散させてしまっているのでタクシーや公共の移動手段を使う訳にもいかなかった。そうして綾はかなり悩みながらも会ったばかりの私を最終的に自分の部屋へ上げたのだった。
「バンさん、いくつよ? 大学生? クソな先輩にでも無理に飲まされちゃったカンジ?」
「椿でいいよ……ふふふ、二十七、私アラサー」
「げっ……なおさらだっせー。いい歳して酒の飲み方も分かんないんだ」
「綾は何歳?」
「……二十八」
「あははははは……」
 散々っぱら便器にしがみついたおかげでかなり体調は落ち着いたので私はヒョウ柄のブランケットがかけられたソファへ遠慮なく転がりながら綾の言葉にしっかり笑うことが出来た。
「嘘つきー」
「なんだよそれ」
「年上マウント取りたかったんでしょ? でも一個だけしか上にしないの控えめで可愛いね。あはは……こんな二十八歳いてたまるかよー」
「……十九だよ! 悪いか! 未成年だよ!」
「ふふふ……素直なのも可愛い」
 ちっくしょう……とぼやきながら綾は後ろ頭を掻く。そしてテレビの横にディフューザーや香水瓶らしい物と並べて置いてあった煙草の箱をひっつかみ、ジャケットのポケットからライターを取り出す。箱から取り出そうとして指で叩くがなかなか思うようにいかず乱暴に破ってしまったので煙草は床に散乱した。その中から一本を拾ってくわえる仕草も、火の点けかたも、不慣れなのが全く隠しきれていない。
「そういえば返事訊いてないね」
 私が言うと綾は煙をふーっと満足そうに吐き出してこちらを見た。私は続けて訊く。
「オッケーなの?」
「何の話?」
「家まで上げたんだもんね。オッケーか。ごめん、野暮なこと言った」
「だから何の話!」
「いいよいいよ、照れてるのも好き」
「……やっぱりこんなの拾うんじゃなかった」
「あ、そうと決まれば番号……いやラインのほうがいいかな。教えとく。あと合鍵もあげるね。冷蔵庫の物は適当に食べていいし、部屋にあるのは何でも使っていいよ」
「おいおばさん……もしかしてアタシら付き合うことになってる?」
「何をいまさらー」
「おっかしいだろうが! アタシ一言でもそんなこと言ったか!?」
「言葉にするのは苦手なんだよね」
「こいつマジでいかれてる……」
 苦笑しながら綾は流れるような黒髪を何度もかき上げては首を振る。私はバッグから財布を取り出し、万札を数えた。十枚の束がいくつか出来るのを綾は食い入るような目で見てくる。
「いくら欲しいかな」
「いくらって……」
「おばさんさ、おばさんだからお金いっぱい持ってるの。おばさんだから。おばさんだからあなたのような若く美しい女の子と付き合うにあたって相応の金銭の支払いはするよ。おばさんだもん」
「…………ありがとうございますお姉様ぁっ!!!」 
 綾は床に頭を激しくこすりつけながら叫んだ。

 初めて来た日、綾は私の部屋のあらゆる物に驚いた。二度目、綾はほんの少しばかり慣れてきた。三度目、四度目、と繰り返すほど彼女は私の部屋を行きつけの店のように、それから友達の家のように、そうしてやがて自分の家にいる時と変わらない安心しきった姿を見せてくれるようになった。しかし警戒心が緩みきった彼女は忘れてしまっていたのだろう。自分は決して安くは無い金額を私から受け取り「恋人」という仕事をしていることを。
「春子だけに決まってるじゃん。愛してるよ」
 真夜中に声がして目が覚めた時、ベッドの中で聞こえたのはそんな言葉だった。夜を通して幸福そうな綾の声と電話口からの鈴の鳴るような音声は私に寝たふりを強要してきた。結局その日は眠ることが出来ず、職場で何度も居眠りをしかけたせいで上司にしこたま怒られてしまった。仕事を終えると私は我が家へ電話をかけた。間もなく綾が出た。今日も泊まっていくつもりだという。最近はもう彼女はすっかり私の家の方が居心地がいいらしく、自分の部屋は友達に溜まり場として使わせているそうだ。あいさつ代わりに愛を伝えて電話を切り、私はその溜まり場となっている綾の部屋へ向かった。
 綾は私に鍵を渡してくれてはいないので、インターホンを押した。一度押しても何の反応も無かった。中からは騒がしい声が聞こえてくるので何人かいるのであろうことは間違いない。イラついてボタンを連打する。するとスピーカーから「うるっせえな!」という怒声が飛んできた。
「黙れ豚!!!」
 全身を使って叫び返せば、わずかな静寂の後にやかましい笑い声がした。そしてすぐにガチャン、という軽そうな扉の開閉音と共にいつか綾と一緒にいた男のうちの一人が姿を見せた。もしかしたら違うかもしれない。綾以外の顔はあまりよく覚えていない。
「豚。春子って誰」
「やっぱり豚姉さんだ! ははは! 久しぶり!」
 おちゃらけた様子で男は言う。私はコートに忍ばせていた剥き身のナイフを構える。小指側に刃が来るように構え、男の眉間に突き立てた。
「答えろ。春子って誰だ」
「なんだよ……危ないからしまえよ……」
 呆れたような素振りを見せるので男には見切りをつけ、奥へ進んだ。いてえええっ! と男が馬鹿みたいに大きな声を出すせいでリビングにいたもう一人のほうの男は様子を見に来ようとしていたらしい。廊下の突き当りにある扉を開けた瞬間、鉢合わせる形になった。
「あ! えー、あれ、なんか見たことある。誰ちゃんだっけ?」
 真っ赤な顔をして焦点の合わない目でニタニタと笑う男に私は今しがた汚れたばかりのナイフを突きつける。こちらは先ほどとは違い露骨に怯えを見せた。
「春子って知ってる?」
「はっ……え? なになになに、ですか、え? はるっ、春子ぉ? 春子って、春子? 雪下春子のこと言ってる?」
「雪下春子……漢字は雪の下の春の子か、きっと」
 表記にこだわりを見せたことで男は私のことを思い出したようだ。「綾……」と心配そうにつぶやく。自分の身よりあの子のことをまず案じるなんて意外にも優しいものだ。
「教えろ、雪下春子のこと」
 男は恐怖しながらも精一杯虚勢を張って私を睨む。豚にしては多少の思いやりを持っているようなのであまり手荒にはしたくなかったが、仕方がないのでナイフに仕事をさせた。男の勇気は敢え無く潰え、彼は雪下春子の住所、そして彼女と綾の関係について懇切丁寧に教えてくれた。

 雪下春子の家は綾の部屋からそう遠くない場所にあった。隣人が殺人者かもしれないこんなご時世に表札に名前を出しているのはある種の自信の表れのようにすら私には思えた。インターホンを押すのも煩わしく、扉をガンガンと叩く。程なくして姿を見せたのはかなり前に一時流行の兆しを見せた「山ガール」とかいう生き物の権化のような女だった。アースカラーにアースカラーを合わせたファッションで、ふんわりとした茶色のボブヘアは頭を動かすたびにふぁさふぁさと揺れる。
「誰ですかー?」
 それはこのタイミングで言うべき言葉ではない、と思ったが私はナイフを振りかぶった。悲鳴は上がるものの、雪下春子だろう女は子供がじゃれているようなのんきな様子で駆けていく。逃すまいと追いかけた先で、春子は鍋の蓋を構えて立っていた。内股の脚をぷるぷると震わせながら、腰が抜けないようにするのがやっとという雰囲気。
「お金ならっ……ありっ、ありませんよ! 帰ってくださーい!」
 誤解を解くのも面倒で私は彼女から鍋蓋を強引に奪い取る。「あわわ……」と春子は声に出しながら這う這うの体で壁際のベッドの上まで逃げた。あわわ、なんて。こんな女だけ? 綾、あなたはこんなのを愛しているの?
 ベッドに上がり込んで春子の胸にナイフを突き立てる。もはや彼女は声を出せなくなっている。
「綾の前から消えろ」
 春子は言葉の意味を少しの間理解できない様子だったが、やがてきっ、と私を睨みつけてきた。全く似ているところは無いのに綾の影がちらつく。そのことが怒りを更に高める。
「嫌」
 きっぱりと春子は言った。
「じゃあ死ねよ」
 みるみる彼女の目に涙が溜まっていく。まるっきり、泣くのを我慢する幼子でしかない。
「それも嫌ぁーっ!!!」
 今度は駄々っ子の癇癪だ。調子が狂う。本当にどうしてこれを奈々は愛しているのか一ミリも理解が出来ない。だが呆れて気を抜いていた私の隙を見て取り、彼女は逃げ出した。一瞬振り向いて片目の下まぶたを指で押し下げながら舌を出す余裕すら見せる。追いかけて外へ出たときにはもう姿は見えなくなっていた。

 今日のところはあの女にかかずらうのは一旦やめよう。そう決めて帰った私だったが、部屋で待っていたのは綾だけでは無かった。泣きじゃくる女を彼女は献身的に慰めている。泣き声まで鈴の鳴るような音だ。ふざけるんじゃない。
「椿! あ、えっと、友達が……なんか、この子、やべーのに家に上がり込まれたらしくて! ごめんな、勝手に入れちゃった!」
「へーそう、いいよ、大変だね」
「マジでさ……春子、アンタ警戒心なさすぎるんだよ! もっと自分のこと大事にしろ!」
 綾に嗜められると春子は一層声を高めて泣く。綾はそんな彼女に怒りながら謝る。美しい光景だ。愛する者同士の想い合い。私を見て絶望する春子が見たかったが、彼女はは激しく泣いているせいでなかなか気付かない。待つのも馬鹿馬鹿しいので買ってきた食材で晩御飯を作ることにした。と言っても大して料理が出来るわけではないのでメニューはシンプルなカレーライスだ。私が具材を煮込んでいる間もずっと二人は抱き合っていた。ひょっとすると彼女たちは何かを企んでいるのではないかと思い始めてしまう。そのくらい春子は一向に私という襲撃者を認めない。そうこうするうちに遂にカレーは完成し、私はテーブルに三人分並べた。
「カレー出来たよー。とりあえず食べたら?」
「あ、マジか……ありがとう。ほら春子」
「カレー……?」
 言われて春子はようやく綾の胸から顔を上げた。そしてキッチンに寄りかかる私と目がかち合う。彼女は目に見えて青くなり、悲鳴を上げた。時々声を止めて、悪い夢でも見ているかのように、今の状況が信じられないという顔をしてはまた悲鳴を上げる。
「落ち着け春子!」
「綾ぁっ! ばか! あの人! あの人だよ! 私を襲ったの!」
「……え?」
 綾は春子を撫でる手を止め、私を見る。
「椿?」
 どういうことだ、という誤魔化しを許さない目。そんな風に真剣に私のことを見てくれたのってそういえば出会った時以来じゃない? いろいろなことを貴女としたし、沢山のものを見て、見せてきたけど、こんなにしっかり私達が見つめ合うのはとても久しぶり。
「だっるいなー。いいやもう」
 私はスマホを取り出して電話をかける。答えろ! だの、逃げよう! だのやかましい二人を無視して用件を告げれば、五分と経たずに相手はやってきた。土足のまま上がり込んできた真っ黒いパーカーと黒いジーンズを履いた人間達は、怯える二人を目にも留まらぬ速さで物理的に黙らせて連れ去る。
 誰もいなくなった部屋で私はテーブルにつき、カレーを食べた。自分にしてはなかなか上手くいったほうだ。綾にも食べさせたかった、と思った。

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