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短編小説『伸びた日脚の畳み方』

「小田原城行こうぜ」
 あまりに長い時間それだけを聴き過ぎてそろそろ雨音が完全なるBGMとして可聴域の外へ飛び出しかかっていた頃、ネギッサンは絶望的とも言えるような低い声で言った。俺は気にせず読書を続けたが、気が変わるには十分なはずの時間を置いてからネギッサンはもう一度全く同じ台詞を繰り返した。
「行ってどうするんですか」
「小田原城に行ったという記憶を作る」
「時計見て下さい」
「かっけー時計持ってんな」
「どうも」
 茶色の小さなサイドテーブルにぽつんと載せられた木目にデジタル数字が浮かぶ置き時計は、現在時刻が17時半であることを示している。俺はネギッサンに頷いてみせ、また読書へ戻ろうとした。
「車の鍵」
 ネギッサンは俺の持っていた本を奪い取り、床に少し叩き付けるような置き方をした。活字達に代わって現れた大学の厄介な先輩の顔は、有無を言わせない凄みを持っている。
「ネギッサン」
「あい」
「居酒屋に行って適当な男でも引っ掛けてきたほうが楽しいと思います」
「めんどい」
「長距離ドライブより?」
「余地無しオブ議論」
「わけわからん……」
 六月三十日。今日は誕生日である。俺の部屋に当然のように入り浸っているこの人、根岸瑞穂 a.k.a ネギッサンの。俺は本日この人と二人で動物園へ行く予定になっていた。しかし生憎の雨でそれは流れた。雨の日は雨の日なりの楽しみ方が出来るのではないかと提案するも、彼女は「麺が伸びきった五つ星ラーメン食うみたいなもん」という分かるような分からないような喩えを用いて反対の意を表したのだった。
「そりゃあこの隙の無い顔面使えばいくらでも楽しいことは出来るだろうさ」
「ですね。それをしなさい」
「嫌です」
「なぜ」
「雨が降っているから」
「質問の答えになっていないので晩酌をしても良いですか」
「駄目ですね」
「そうですか」
 立ち上がって冷蔵庫を開け、よく冷えた缶ビールを手に取る。突き刺さるような視線を感じて出所を探ると、ネギッサンはただでさえ冗談みたいにでかい両眼を射出でも試みているのかという勢いで見開いていた。あんぐりと開いた口の大きさもちょっとしたホラーだった。
「お前が私に殺されたい願望を抱いているとは知らなかったよ、マレスケ」
 口を不必要に大きく開けたまま喋るせいでネギッサンの声はだいぶ間抜けである。俺は気に留めず平然とプルタブを引っ張った。
 ぷしゅっ。
 良い音で缶が開く。
「ひゅおあああああ」
 やばい音でネギッサンが鳴く。
 息を思い切り吸い込んでいるらしい。
 どういう原理なのか、デスボイスの一種である息を吐くのではなく喉を締めながら息を吸い込むことで音を鳴らすガテラルという手法と同じなのか、ネギッサンの喉から発せられる音は耳を聾する大音響となっていく。
「うるっ……うるさいです! ネギッサン! わっ、わかった、分かりましたよ! ほら、まだ飲んでないんで! 開けただけなんで! 車? ですか? 車で、小田原城? 行きますか?」
 片耳を手で押さえながら、中腰でネギッサンの元へ歩み寄る。缶の中を、ビールが溢れないように注意しながら見せた後、テーブルに置いて、空いた手で彼女の口を無理矢理塞いだ。
「ふぁあまみぁふぃみほーまう」
「……はい?」
 自分の口を塞ぐ俺の手をネギッサンは指差す。俺は手を離し、特にそんな必要は感じなかったが汚い物に触ってしまったかのようにわざと大袈裟に振った。ネギッサンは素早く俺の頭を叩いた後で「じゃあ私にちょうだい」と言って許可する暇を与えずビールを呷った。
「これで運転手決定な」
「ネギッサン、どうすか最近。足りてます? スリル、足りないんじゃないすか?」
「お前が勝手に一人で酔っ払い運転しておっ死ぬのは知ったこっちゃないけど私のこと殺したら宇宙エネルギー的にやばいぞ」
「出たよ……宇宙エネルギー……。好きですねそれ。ハマり過ぎじゃないですか。やばい宗教みたいで怖いんですけど」
「そう思うのは自由だけど私は来し方も行く末も永劫無宗教の無神論者なんだよなあ」
「語彙がおかしいんだよなあ。うさんくせえんだよなあ」
「ああはいはい、うるせえうるせえ。いいから行くぞマレスケ」
「へーい」
 断乎として拒否するという姿勢を貫こうとも、結局なあなあで絆されてしまうのは、別にネギッサンのことが異性として好きだからとかそういうことでは意外とない。彼女は俺からすれば同性の友人よりも気兼ねなくいられる友人だ。そこには、俺が年々自分で自分の性別が分からなくなってきている、というより、性別ってなんなんだとの主語が無闇に大きい思いが募りつつあるからというのが理由として存在する。しかも、それを唯一話してしまったことがある相手が彼女であるため、事態はしち面倒くさいことこの上無い。うっかりネギッサンと仲違いでもしてしまったら周囲に色々と吹聴されてしまうのじゃないかという恐怖は、付き合いを始めて一年が経つ今もあまり薄れてくれない。だからといって別に、居心地が悪いということはまるでない。俺達はたぶん、とても相性の良い友人同士だと思う。
 部屋を出ると、中途半端に冷めきらない空気が肌を恐る恐るといった調子で撫ぜた。思わず鳥肌が立った。
 貧乏学生にも優しいオンボロマンションにしては珍しく、俺の住んでいる所には駐車場がある。対して料金も取られないのでありがたく使わせてもらっている。車は大学を合格した時に親が浮かれて買ってくれた。出世払いだとか冗談めかして言っていたが、ちょうど俺が家を出る頃にようやく中古の平屋を買うことが出来たという親の経済事情を考えると、冗談として受け取ってしまって良いものか中々に迷う。
 黒の軽自動車、ネギッサン曰く「考えうる限り最も退屈な車」へ二人して乗り込んでエンジンをかけると、俺は助手席のネギッサンを眺めた。
「高いぞ」
「……え」
「鑑賞料、今のレートだとダウ二百ドル高」
「文学科がなんか言ってる……」
「お前も文学科だろうが。なーにをじろじろ人の顔見てんだっつーの」
「やー……なんで俺はこんな美人とこんな時間に二人きりでドライブに行くってのに微塵も興奮しないんだろうと思って」
「言うねえ。コッチだからじゃね?」
「違いますって。たぶん」
「違うやつはこういう時たぶんとか言わないと思うよ」
「それは、あれですよ。最近はほら、社会全体の理解が進んできてて、なんとなく感覚が誰でも分かるようになってきてるから。多様性が叫ばれる時代ですから」
「ふはっ。そんなん実際に叫んでる奴ひとりとして見たことねえなー」
「……多様性ぇー!」
「うるっせぇー! くだんねーことやってねーで早く車出せ!」
 ネギッサンは本気で怒鳴ると結構洒落にならない怖さがあるので、俺は素直に、気持ち急いで、車を発進させた。
 
 高速に乗るまでは、言っても本当に小田原までなんて行くわけじゃなくて適当な所でなんか美味しい物でも食べて帰ってくることになるだろうという気でいた。だけどいざ東名高速道路に入ってしまうと、そんなぬるいことをするのは間違いのように思えた。どうせなら小田原城の姿を一目見て帰るべきなのではないかと。城なんてまるで興味は無かったが、一応目的地として設定しているからには途中で断念すると後悔が残る気がした。出る前にスマホで検索した時には既に17時で閉館することは知っていたのに。
 雨足は特に強まることも弱まることもない。出掛けるのはちょっと億劫だなというラインを安定して保っている。気を滅入らせる雨量をキープし続けている。
 最近は日が伸びてきたとはいえ、こうもしっかり雨模様だとこの時間に見える景色はもう完璧に夜だった。段々言葉数が少なくなってきたように感じてネギッサンへ目を遣れば、無責任にも大欠伸なんかしている。
「ビール効いてきてません?」
「んー? んー……」
「寝落ちる直前の人じゃないすか」
「ふはは。ちょっと……うん、二分寝る」
「おやすみなさい」
「うん……」
 キレていいやつだな、と思ったけど、ネギッサンの態度はむしろ俺のやる気を高めた。こうなったら、この人より俺は小田原へのドライブを楽しんでやる。後になって半睡半醒だったことを悔やんでもらうために、俺は今日この日こんな時間に小田原城まで行ったって記憶を凄く思い出深い楽しい物としていつまでも覚えていてみせる。そんなことを思った。
 どうやらネギッサンの二分は普通の人間にとっての四十分であるらしく、休憩のために海老名SAで停車して俺が限界まで運転席のシートを後ろへ倒した時、久しぶりに助手席から物音が立った。
「……あ? お、有名なとこだ」
「ですよ。降ります?」
「ん……そうすっかぁ。やっべ、ねみぃ〜」
「外の空気吸えば目ぇ覚めますよ」
「……マレスケ、乗り気じゃなかったくせに。えらく元気じゃん」
「元気ですか? 俺? んなことないですけど」
「頼もしい限りだ。でも帰るまでに燃え尽きないように、ちょっとセーブしといて」
「はあ……了解です」
 よっし! と急に大きな声を出したかと思うと、ネギッサンは飛び跳ねるようにして車を降りた。彼女を見失わないために、俺もなるべく素早く車の外へ出た。
 雨はほとんど上がりかかっていたから、傘は車内に置いておくことにした。だだっ広い駐車場には、かなりの数の車が停まっている。ボックスワゴンや大型トラックは多いが、俺の車のような軽自動車はあまり見付からない。駐車場の広さへひとくさり適当な感動をしたのち、目線を足の向いている方へ戻せば、半円形のまぶしい巨大な光が待ち構えている。
 入り口が迫ってくると、その手前にあるテラス席を大勢の人が利用しているのに意識が向いた。テーブルと椅子がわらわらと無数に置かれているが、そこにはその全てを埋め尽くす勢いで沢山の人達が存在している。
 さらに、その近くにはいくつかの屋台のような物が建っていた。祭りの屋台と宝くじの店の合の子といった風情である。コーヒー、アイスクリーム、たこ焼き、おむすび……食べ物の店が多い。そんな中で目を惹いたのは「えびえび焼き」なる謎の恐らくは食べ物の名前が書かれたノボリと、サングラスの店だった。
「うわー究極の選択だ……」
「アホか。サングラスなんて買ってどーすんだよ」
「じゃあえびえび?」
「……グラサン食いたきゃお好きにどうぞ」
 俺達はどうも片付けを始めようとしている風だった屋台の主に声をかけ、なんとなく無理矢理といった風情でえびえび焼きを入手せしめた。よく見ればまだちゃんと空きがあったテーブルの一つも確保し、テラス席、といってもあまり清潔ではない白い椅子とテーブルが路上に置かれているだけではあるが、そこへ腰を下ろすこととなった。
 ぼーっと眺めているうちにも、車は緩やかなペースで、しかし間断なくやって来ては去って行く。さして高くない期待値をひょいと片足で跨いだかと思えばもう片方の足が引っ掛かって無様に転んでしまった、形容するならそんな味だったえびえび焼きを食べながら、何か話をするでもなく、俺とネギッサンはパーキングエリアを正しく使用した。遊ぶために行く場所ではなく、休憩するために寄る場所だというのが、パーキングエリアという存在の本質だと思う。ですよね夜のパーキングの住人達、と仕様もない問いかけを心の中でしてみたりもした。
 やがてぼちぼちと周囲にあった人影は減り始め、俺は休憩時間を終える頃合を感じた。そろそろ、とネギッサンに言うと、彼女は「タバコ吸ってくる」と言って立ち上がろうとする。
「あ、じゃあ俺もいいすか」
「お前、煙草やめたっつってなかった」
「それは……その通りなんですけど……」
 口籠る俺をネギッサンは呆気に取られたような顔で見ていたが、そのうちに「まあ、行くか」とかそんなことを言って席を離れた。追いかけながら俺が「とはいっても俺いま煙草ないんすけど」と、ちゃんと聞こえるようにと思って声を張って言ったら、ネギッサンは「あーあー持ってけいくらでも」と嫌に羽振りが良かった。
 
 喫煙所のドアは自動らしいのに何故かずっと開きっぱなしだった。中には頭にタオルを巻いたおっさんと、妙に若い、もしかしたらまだ未成年なんじゃないかと思うような童顔の男がいたが、彼等は俺達が入って来ると入れ替わるように火を消して出て行った。
 ネギッサンは壁に寄り掛かると、ズボンのポケットからライターと煙草の箱を取り出した。箱はかなり細長い。ピアニッシモの6mg。ネギッサンはだいたいいつもこの銘柄を吸っている。
「……ほいよ」
「あっ……ありがとうございます。今度返しますね」
「うん……いや別にいい」
 火の点いていない一本を口に咥えながら、ネギッサンは俺に箱を差し出す。そして自分のより先に俺の方へ火を点けた。途端に広がった甘ったるい煙の味には、何度も貰いすぎて今やもうほとんど抵抗感が無い。
 ネギッサンは少し念入り過ぎるくらいじっくり自分の煙草にも着火すると、深く息を吐いた。煙は一瞬だけふわっと舞ったが、煙が溶けた後も数秒間に亘って彼女は息を吐き続けた。
「夜だなあ……」
 ガラス張りの室内から、真っ暗な外を眺めて言うネギッサン。俺は少しだけ久しぶりなピアニッシモの甘さを味わいながら、彼女のことを少し観察した。
 初めて俺がこの人と会ったのも、そういえば喫煙所だった。大学内の喫煙所。入ったは良いものの肝心の煙草を切らしているのを忘れていて、ぼーっとベンチに座っていた俺に、この人は煙草を恵んでくれたのだ。今と同じ、ピアニッシモの6mgを。めちゃくちゃ美人で、そこからどうにかなれないかとつい期待しそうになったが、その時は特に何も言葉を交わさなかった。ただ感謝を述べたくらい。
 でもその後も度々俺達は同じ喫煙所で顔を合わせた。不思議といつも二人だけで、誰か別の人がいることも、後から入ってくることもなかった。そしてなんとなく適当に話すうちに、気付けばこんな、よくわからない間柄になっている。大学の交友関係ってのはどうも雑だ。そこが良い所だったりもするんだけど。
「ネギッサン、卒業したらどうするんですか。つーか、確かあれですよね、もう選考始まってる頃じゃなかったでしたっけ。就職の」
「お前さあ……今日は私の誕生日なんだけども。そういう……いわば現実から逃避するためにワレワレは今ここにこうしているのではないかね」
「そりゃ確かにそうなんでしょうけど……でも実際どうなんですか。全然ネギッサンのそういう話聞かないから」
「まあ聞かせる話ないもんな、聞くはずもなかろうよ」
「え……」
「してねえもん、就活」
「あ……え? あー……なるほど……俺、ちょっと、あのー、一人で帰っていいすかね……?」
「はあ……? あっそういうことか! バカ! 心中旅行のつもりは欠片もねえから安心してこの後も運転してくれ! 第一、発想が極端すぎるだろ。お前の頭ん中では就職orDIEなのかよ。アルバイトっつーシャバい選択肢がこの世にはあるし、最悪国のお世話になれば生き延びれるだろ」
「はあ……なんか、なんかなー。ネギッサンとそういうの、なんか結びつかない」
「それは喜んでいいのだろうか」
「さあ……? でも、死なないなら良かったですよ」
「うん、まあ……当分は死ぬ予定無いかな」
 水音が聞こえた気がして、目を凝らして外を眺めていると、雨がまた降り始めているらしいのが分かった。
「うははっ」
 急に腹をくの字に折って、ネギッサンは笑った。
「なんですか?」
「……やだなーと思って。私、いつかこの煙草吸った時に、こんな、今のこの感じを思い出したりすんのかなーって」
「え? わかんない、なんすか。どういうこと」
「ん、だからさ。いつかね? あー……そっか、前提から……。私がこの煙草を、この箱の吸い切ったらやめるとするじゃん。したら、えーと……それで、やめてだね、そっからずっと吸わないまま数年か数十年か経って。久しぶりにまた吸ったら、私はたぶん今のこの感じを思い出すんだなあと。それすっげえ嫌じゃん? ははは」
 バラバラの言葉達をバラバラなまま差し出し、咀嚼しながら口の中で料理しろと無理難題を課す。ネギッサンはよくそういう話し方をする。言っては悪いがかなり説明下手だ。今は眠気が覚めきっていないのも相俟ってなのかいつも以上にひどい。精度の低い翻訳をかけた外国の言葉みたいに聞こえた。
「じゃない? お前もそう思わん?」
「あー……あれですか、プルースト効果」
「んー、あ、そうかもしんない。臭いで記憶が喚び起こされるやつな」
「そうです。そういう話ですか」
「ですねえ」
「ピアニッシモの6ミリを吸ったら今日のこと思い出すようになるかもしれないっていう」
「そうそう。まとめるとそう。説明じょーず」
「どうも。ネギッサンはあれですね。“伝わる話し方”みたいな本読むべきですよね」
「ええ? 私ぃ? いまさら? いいよ別に。困ってねーし」
「周りは結構困ってると思いますよ」
「はいはーい。分かったよママー。ぼく勉強がんばるよー」
「……そろそろ行きますか。煙草ありがとうございました」
「おーう。私、ちょっとおしっこしてから行くわー」
「……はい」
 相手はネギッサンと言えど面と向かっておしっことか言われるの中々キツいなと思いつつ、俺は喫煙所を後にした。こんな時間に、こんな場所で、しかも半分夢うつつみたいな状態のあの人を一人にするのは危ないんじゃないかという気はしたが、変に気を回すと嫌がられるのは目に見えていたので後ろ髪を引かれる感覚はあえて無視する。いざとなればあの長身だ、並の男では太刀打ちできない強さくらいは余裕で発揮できることだろう。
 フロントガラスに打ちつける雨滴の勢いが看過出来ないものへと順調に変わっていくのを眺める間、俺はずっと、ネギッサンの無事を無意識に祈っていたようだった。すっきりした! と、文脈を考えるととても汚く思える言葉と共に助手席に帰ってきたネギッサンを見て、自分でも思った以上に安心してしまったから。
「どしたね。険しい顔しよって」
「……いや、別に。そいじゃあ行きますかー小田原城ー」
「いぇーい。ぜってえ閉まってっけどなー」
「あ、分かってたんすか」
「当たり前じゃん。んでも、出る前にも言ったろ? 小田原城に行ったって記憶を作るのが重要な訳。開いてよーが開いてなかろーが知らんのよ。私達が小田原城に行くのはそんなことじゃあ止められねえのさ」
「なんか俺達に明日は無さそうな勢いですね」
「ふへっ。下手すりゃボニーアンドクライドよりひどいかもな。なんたって絶望の国のどん底大学生ですもの。一寸先は闇よ、しかも落とし穴」
「俺は絶対猛スピードで崖からジャンプしたりしませんからね」
「それは“テルマ&ルイーズ”だろうが。まあ、あれも良いよな。私は好きだ、あの映画の終わり方」
「……絶対、死ぬのは御免ですからね!?」
「びっ……急に大声出すな! だからそんな気は無いっつってんじゃん!」
「だってなんか怖いんすもん今日のネギッサン!」
「うーるさいからもうさっさと発進してくれ!」
「あー! 死にたくなーい!」
「死なねーってば!」
 なんだかまたお互い叫び散らしながらの発進になってしまった。しかし実の所、家を出る時も今も、二人揃って空元気で景気づけをしようとしているのは見え見えだった。

 さっき一旦止んでいたのは夢か何かだったのではないかと思うような豪雨のなか車を走らせ続けていると、茅ヶ崎海岸インターチェンジという所へ到達した。全くもって海など見えそうに無いが、カーナビは現在地のすぐそばに広大な海が広がっていることを教えてくれている。海老名SAを出てからというもの代わり映えのしない景色が続いていたのでこれには少し心が湧き立つ感覚があった。
「ネギッサン、海ですよ海」
「あ、ほんとだ。あるな。そりゃそうか。もろに湘南って感じだもんな、小田原って言ったら」
「小田原自体は湘南ではないらしいですけどね」
「そうなの? それは……どーでもいーな……」
「高校の時、知り合いに湘南出身のやつがいて、なんか言ってたんですよ。湘南は茅ヶ崎と藤沢のことだ、小田原まで行くともう湘南じゃない、って。それがなんか妙に頭に残ってて」
「うおー……海だー……。なんっも見えねえけどデータ上ではワレワレはいま海に限りなく近い場所にいるー……すっげー……まったくテンションが上がらねえー……」
「……なんかそれらしい曲でもかけますか」
「ん? あー……じゃあ……」
 スマホをいじるネギッサン。何をかける気だろうかとちょっと考えて俺が「パスタは作ってもらわないでくださいね」と言ったら「大貧民でキレるの無し?」と返されたので予想は的中したらしい。ここでジャパニーズレゲエなんかかけられても怠さが増すだけなので牽制して良かったと思った。
 結局、ドライブも佳境に差し掛かった今頃になってBGMとして採用されたのは、定額配信アプリのプレイリストという無難も無難な物だった。その名も「雨の日」というタイトルのリストであるらしい。下手に気分を盛り上げようとしてくることは無さそうな名前なのには安心したが、いよいよもって陰気な道行きの暗さが極まりそうで軽く笑ってしまった。
 二、三知らない曲が流れた後、GRAPEVINEの「It was raining」がかかった。ミドルテンポの、どこかの雑誌言う所の「ダークサイケデリア」ってやつだ。核心を掴めそうで掴めない歌詞、メロディもドラマチックだが盛り上がりきるということはない。
 車内が不思議な曲による不思議な雰囲気に満たされる中、車はいよいよ本格的に海沿いの道へ入る。国道134号。相模川を跨ぐ湘南大橋。
 こうもあからさまだと、いくら真っ暗でも流石に海を海だと認識できる。データ上の情報ではなく、生身の自分が生の海から近い場所にいることを実感する。あんまり熱心に窓外を見過ぎたせいか、安全運転はどうした、気が変わったのか、とネギッサンに諭された。
「お前そんな海好きなん? 意外だな」
「反動ですよ。ずっとつまんない景色だったから、なんか無性に海を拝みたいんです今」
「そうか……ちょっと寄ってく? 帰りにでも」
「そこまでではないです。つーかそうだ、帰り、どうしますか」
「どうするって何」
「正直に告白すると俺もう結構ヘトのヘトです」
「うーわ、だらしなぁ……」
「海老名まで持つか……持った所でその後運転し続けられるか……」
「あーそう……」
 ネギッサンは海の方を見つめて何も言わなくなってしまう。いざとなったら車中泊ですかね、と俺は言ってみたが、彼女は反応を見せない。
 小さめに流れていた音楽はまたも全く知らない物へと変わり、何とも言えない据わりの悪さはにわかに強まる。雨はさっきまでと比べると若干勢いがなくなっている。目的地までの所要時間は、カーナビによれば二十五分ほどらしい。
「なんか……悪かったな」
「え?」
「いや……誕生日なのに、って思っちゃって。誕生日なのに何もないの味気なくて、無理言った」
「えぇ……まさか反省してるんですか。手遅れですよもう」
「うん……」
 様子がおかしいと思ったらそんなことを思っていたのかと、素直に驚いてしまった。呆れる気持ちもあるが、それ以上にここまで来てようやくまともな感覚が芽生えるこの人はつくづく変わった人だなという感動にも似た思いがある。
「別に謝らなくてもいいですよ。なんだかんだ楽しいし。それに、そう、誕生日じゃないですか。一年に一度の日なんだから、多少ワガママ言ってもバチは当たらないでしょう」
「そうか……それもそうか。私一年中ワガママしか言ってねーけど」
「思いましたけど。まあ、いいじゃないですか」
「お前、いいやつだな……」
「知らなかったんですか」
「そしてムカつくやつだ……」
「どうも。……あ、そういえば」
「なんだよ」
「なんで動物園だったんですか、そういや聞いてない」
「え? あー。なんでってそりゃあ……なんでだろうな?」
「ねえ? 謎ですよね」
「一週間前の私に訊いてくれ。何故か無性に動物園で誕生日を過ごしたかった私に」
「人間社会に疲れたんすかね。自然回帰願望的な」
「あー……あるかもな。最近どいつもこいつもろくでもねえから。金とか政治なんかの話するやつが増えた。そういう段階に来てんだからしゃあないのは分かってんだけど。何が悪い、誰がひどい、そんな話したいなら私じゃなくてニュースサイトのコメント欄に常駐してるやつらの所にでも行けよって思う」
 ネギッサンは伸びをする。車の天井を押し上げているみたいな姿勢で、重たい息を漏らす。
「正しいことなんてあんのかな。私には何もかも間違ってるように見える」
 告白と呼ぶべきか覚めきらないアルコールによる他話事と呼ぶべきか定かでない彼女の言葉は、俺が返答をしなかったせいで夜の帳に吸い寄せられるようにして消えた。絶対に聞こえるはずもないのに、時折波の音がしたような気さえする沈黙は、小田原市内に入るまでついぞ破られることは無かった。
 しかし、海沿いのくせに山中を走っているのとそう変わらない度合いだった闇を抜けると、気分はいくらか軽くなった。人の灯りというのはやはり安心感を生んでくれるものだ。
 ややあって、カーナビが目的地へ到着したことを報告する。確かに目の前には現代の建築物には滅多に使われないタイプの時代がかった石塀の姿があった。ただ、周囲をぐるりと回ってみても無論開いている入り口はどこにもないのだった。だがありがたいことに駐車場は閉まっていなかったので、報徳二宮神社というらしい神社の入り口横に設けられた駐車場へ車を停めた。他の車は一台も無くて、貸し切りですよ、と言ったらネギッサンは呆れたように笑って俺を見た。
「九時。思ったよりかかったー……。でも着きましたね、小田原城」
「うん」
「どうですか、念願の史跡は」
「いやこっからじゃ何も見えんし。降りようぜ。入れはしなくても、周り歩くのはオッケーだろ」
「そうすね」
 涼しさを期待したが、外はじめっとして蒸し暑かった。だがそれでも確実に都内とは暑さの種類が違った。もしかしたら思い込みかもしれないけど、東京より少しは空気が澄んでいそうだった。雨もいつの間にか止んでいる。
 人通りはそれほどなく、車もそんなに通らない。久しぶりに田舎の気配を感じたせいで、小田原なんていう縁もゆかりも無い場所へ一方的な懐かしさすら覚えた。
「この木、たぶん桜だよな。春だったらきっとこの辺めちゃくちゃ綺麗なんだろうな。良かった、春じゃなくて」
「桜嫌いなんすか」
「お前と見る桜はおそらく嫌いだな」
「なんだそれ……ひょっとしなくても俺ひどいこと言われてます?」
「あっはは。嘘嘘。誰と見ようが、桜なんて楽しめねえよ。キモいじゃん」
「キモいですか、桜」
「キモいよ。間近でじっくり桜の花見たことある? ブツブツだぜ。トライポフォビアを殺せる」
「マジすか。そんなんだっけ」
「私は花がついてない木のほうが好きだよ。ワビサビがある感じで」
 ワビサビはいいが、俺達はどうやらあまりよくない道を選択してしまったらしく、歩くほどに歩道の幅は狭まっていく。マップを見ても悪手を打ったのは明らかだった。とはいえ今更引き返すのも面倒だし、知らない道を歩くのはお互い嫌いではないようだったのでそのまま進んだ。行き止まるわけでも、城から遠ざかってどこか別の場所へ行ってしまうことになるわけでもなさそうだったし。
 肝心の城の姿は、ワビサビもへったくれもない目隠しのためと思われる高木のせいでまるで見えない。高木が途切れれば見えるかと思ったが、夜闇の中では普通の木でも充分に目隠しの機能を果たすのだった。
「誕生日、嬉しいですか」
「ええ? いきなり何」
「おめでとうございますって言われても、嬉しくないかもしれないと思って」
「……ほんと、お前は変に優しいというか、キモチワリーというか」
「ひどい、キモチワリーことないでしょ」
「優しすぎんのはキモチワリーよ。トライポフォビアを殺せる」
「ははっ……いやいや、やめてくださいよ」
「なんかな……あれだ。結果あれな、動物園来れた感じだな」
「全く意味分かんないすけど」
「動物目線つーか。檻から、あー……檻を……檻の存在を再認識したみたいな。けだしワレワレは小さな檻の中でキャイキャイ鳴き喚く哀れな生き物なのだよ。哀れでかわいい、愛嬌だけが取り柄の」
 ネギッサンのエンジンがここへ来て謎のフルスロットル状態になっているのは分かったが、それ以上のことは何一つ分からなかった。これほどぐちゃぐちゃに言葉を吐かれては咀嚼のしようもない。
「結果オーライ。あーあ……なかなか、思いがけず味わい深い誕生日だ、まったく」
「そうですか……まあ、楽しめたみたいで良かったです」
 『青橋』と刻まれた橋を渡って少し往くと、ようやく目当ての物は全貌を見せてくれた。小田原城。ライトアップも何もされていないし、微妙に遠くからしか見ることは出来ないけど、確かな魅力がそこにはあった。来て良かったと思えるくらいにはその姿は非日常的だった。
 ネギッサンと俺は二人並んで馬鹿みたいに上を見上げた。でかい。高層ビルを見ても巨大だなとは思うが、城のでかさはビルとは質を異にしている。流石、あんまよく知らないけど、戦国時代の人間の野望やら何やらで出来た建築物というだけはある。きっと修復工事をされてはいると思うけど、新しい時代にゼロから作られた訳ではないだろう。数百年前の成分はまだふんだんに残されているはずだ。生で見る城って物には、ついそんなことを考えてしまう迫力があった。
「動物園すね、確かに。どこもかしこも」
「おー……そうそう、そういうこと。説明じょーず」
 ぱちぱち、とネギッサンは肩を縮めてキャラに似合わぬ可愛らしい拍手をした。

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