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短編小説『伸びた日脚の畳み方』

「小田原城行こうぜ」
 あまりに長い時間それだけを聴き過ぎてそろそろ雨音が完全なるBGMとして可聴域の外へ飛び出しかかっていた頃、ネギッサンは絶望的とも言えるような低い声で言った。俺は気にせず読書を続けたが、気が変わるには十分なはずの時間を置いてからネギッサンはもう一度全く同じ台詞を繰り返した。
「行ってどうするんですか」
「小田原城に行ったという記憶を作る」
「時計見て下さい」
「かっけー時計持ってんな」
「どうも」
 茶色の小さなサイドテーブルにぽつんと載せられた木目にデジタル数字が浮かぶ置き時計は、現在時刻が17時半であることを示している。俺はネギッサンに頷いてみせ、また読書へ戻ろうとした。
「車の鍵」
 ネギッサンは俺の持っていた本を奪い取り、床に少し叩き付けるような置き方をした。活字達に代わって現れた大学の厄介な先輩の顔は、有無を言わせない凄みを持っている。
「ネギッサン」
「あい」
「居酒屋に行って適当な男でも引っ掛けてきたほうが楽しいと思います」
「めんどい」
「長距離ドライブより?」
「余地無しオブ議論」
「わけわからん……」
 六月三十日。今日は誕生日である。俺の部屋に当然のように入り浸っているこの人、根岸瑞穂 a.k.a ネギッサンの。俺は本日この人と二人で動物園へ行く予定になっていた。しかし生憎の雨でそれは流れた。雨の日は雨の日なりの楽しみ方が出来るのではないかと提案するも、彼女は「麺が伸びきった五つ星ラーメン食うみたいなもん」という分かるような分からないような喩えを用いて反対の意を表したのだった。
「そりゃあこの隙の無い顔面使えばいくらでも楽しいことは出来るだろうさ」
「ですね。それをしなさい」
「嫌です」
「なぜ」
「雨が降っているから」
「質問の答えになっていないので晩酌をしても良いですか」
「駄目ですね」
「そうですか」
 立ち上がって冷蔵庫を開け、よく冷えた缶ビールを手に取る。突き刺さるような視線を感じて出所を探ると、ネギッサンはただでさえ冗談みたいにでかい両眼を射出でも試みているのかという勢いで見開いていた。あんぐりと開いた口の大きさもちょっとしたホラーだった。
「お前が私に殺されたい願望を抱いているとは知らなかったよ、マレスケ」
 口を不必要に大きく開けたまま喋るせいでネギッサンの声はだいぶ間抜けである。俺は気に留めず平然とプルタブを引っ張った。
 ぷしゅっ。
 良い音で缶が開く。
「ひゅおあああああ」
 やばい音でネギッサンが鳴く。
 息を思い切り吸い込んでいるらしい。
 どういう原理なのか、デスボイスの一種である息を吐くのではなく喉を締めながら息を吸い込むことで音を鳴らすガテラルという手法と同じなのか、ネギッサンの喉から発せられる音は耳を聾する大音響となっていく。
「うるっ……うるさいです! ネギッサン! わっ、わかった、分かりましたよ! ほら、まだ飲んでないんで! 開けただけなんで! 車? ですか? 車で、小田原城? 行きますか?」
 片耳を手で押さえながら、中腰でネギッサンの元へ歩み寄る。缶の中を、ビールが溢れないように注意しながら見せた後、テーブルに置いて、空いた手で彼女の口を無理矢理塞いだ。
「ふぁあまみぁふぃみほーまう」
「……はい?」
 自分の口を塞ぐ俺の手をネギッサンは指差す。俺は手を離し、特にそんな必要は感じなかったが汚い物に触ってしまったかのようにわざと大袈裟に振った。ネギッサンは素早く俺の頭を叩いた後で「じゃあ私にちょうだい」と言って許可する暇を与えずビールを呷った。
「これで運転手決定な」
「ネギッサン、どうすか最近。足りてます? スリル、足りないんじゃないすか?」
「お前が勝手に一人で酔っ払い運転しておっ死ぬのは知ったこっちゃないけど私のこと殺したら宇宙エネルギー的にやばいぞ」
「出たよ……宇宙エネルギー……。好きですねそれ。ハマり過ぎじゃないですか。やばい宗教みたいで怖いんですけど」
「そう思うのは自由だけど私は来し方も行く末も永劫無宗教の無神論者なんだよなあ」
「語彙がおかしいんだよなあ。うさんくせえんだよなあ」
「ああはいはい、うるせえうるせえ。いいから行くぞマレスケ」
「へーい」

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