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自称シネフィルによる浅倉透「Landing Point編」の分析と邪推

浅倉透のLanding Point編については前回も書いた。

しかし、一週間経った現在に至ってもまるで熱が冷めやらない。仕方がないので、今回もつらつらと感想を書いていこうと思う。ただし、個人的に最も書きたいと感じた物語の核になる部分、ストーリー展開うんぬんというより浅倉透という一人の人間の中で起こっていたであろうと思われる事象については前回であらかた満足いくだけ書き切れたような気がするので、少し趣向を変えてみる。

タイトルにもあるように、私は広義(ココ重要!)のシネフィルだ。広義、と敢えてピントをぼかすようなマクラを置いたのは、本物のシネフィルと比べればお子ちゃまのようなものでしかないからだ。年に数百本もの映画を観ているわけでもなければ、作品群を体系立てて語れるだけの知識も持たず、技法についても詳しいとはとても言えない。だが一応何冊か脚本術や映画ならではの表現技法についての本を読んでいるし、これまでに1,000本前後の映画を鑑賞している。改めて自分自身のことを棚卸してみると、つくづく底が浅いことを思い知らされる。しかし偽ってもどうしようもない。今書いたことが隠し立てようもない私の、いわばスペックだ。映画や、その他様々な形式の物語を読み解く際に私が活用出来るのは、上記のような経験と知識でしかない。そのことを前提として、半端な若輩者が浅倉透LPを読んで(音についての言及が多いのでここは「見て」のほうが正しいかもしれない)気付いたことについて書いたものを確認してみてほしい。


アテンション、イエー

今回は浅倉透の「Landing Point編」における共通コミュの内容を順番に一つずつ取り上げていく。あらすじをなぞりながら丁寧に解説をするのではなく、上述のように各コミュ内で「気付いたこと」だけを抜き出して書いていくので、まだ浅倉透LPを未読の方はなんのこっちゃ分からない可能性が高いものになってしまうだろうことは申し訳ない。何なら読んだ人も「は?」ってなるかもしれない。本当に個人的な覚え書きみたいなものなので、どうかそこは御承知いただいて。

「そんなふうに終わるね」

カメラに収まる浅倉透

・開幕のSEはサイレン。いきなり不穏な気配が漂い、それからすぐに透が変わっていってしまう事物を羅列していくことで、今回が大きな変化の章であることを察知させられるというのは前回書いた通り。あれからまた改めてこの場面を見てみて、コーラが缶に変わったのは後に続く「オエイシス、イエー」での小さな事件がきっと原因なのだろうと予想した。

・「あっという間だったから、そこからは」という透の独白がある。他にも、LPには透が過去を振り返っているような視点で行われるナレーションがいくつか存在する。そのどれもが、声色としては微笑んでいるようなものになっているのは興味深い。少なくとも「未来」の浅倉透は、LPのこの時期をただ苦いだけの記憶とは思っていないらしい。それは今回の、LPの時点では透はもちろんプロデューサーもぼんやりとしか思い描くことが出来ずにいた透らしい「自由」を、いつかどこかで透が手に入れられることの揺るぎない証左ではないだろうか。

・後半でLP全体の種明かしのような名言を繰り出す、軽薄にも思える喋り方をする広告マンが登場する。「瞬きするだけでバチーンって音が聞こえてきそう」だと透のことを評する。この「バチーン」というのもストーリーの根幹を成す要素となるので、今回はこの広告マンがとにかくもう超重要キャラクターになっている。さりげなく。さすがは広告マンという名を与えられているだけはある。世の中を動かすものには種々あるが、その中でも広告は世の中を良くも悪くも自由に出来てしまう恐ろしい存在の代表といえる。そんなものをストーリーの中で背負って立っているのが彼(彼女、という可能性もある)なのだから、仙人か哲学者のような冴えた意見が出てくるのも思えば当然か。

・透が観た映画について、プロデューサーは「アクション映画って感じか?」と質問する。透はそれには答えず、プロデューサーも雑な訊き方をしてしまったことを詫びる。ジャンルに囚われるのは愚かだという感覚がここで示されている。ちなみに「アクション映画なのか?」ではなく「って感じか?」というセリフになっているのにはライターの腕とセンスを感じて惚れ惚れする。言い回しの細かい部分まで徹底的に考え抜かれている。これだからシャニマスのシナリオは恐ろしい。

・P曰く、透は「カメラに収めてもらう」のが好きらしい。この言い回しも絶妙に何らかの意図を感じる。「写真を撮ってもらう」のではなく「カメラに収めてもらう」なのだ。そう聞くと、何だか小さい箱の中へ透がギュッとコンパクトに詰められているような印象を受ける。つまり、写真という形で自分の姿を残してもらうことに、喜びを覚えているということなのだろうか。得体の知れない、数えきれないほど多くの要素を孕んだ「自分」は写真には映らない。写真には浅倉透というアイドルだけが映る。浅倉透のごく一部だけが。それはもしかすると、こちらが想像する以上に透にとっては安心することなのか。のちのコミュ「火」では、透はレンズに心の中で「おはよう」と挨拶さえしている。また、カメラは透が愛する映画という芸術を作り出すために最も重要となる道具でもある。その事実も、透がカメラに抱く親愛の念のようなものを助長しているのではないか。更に言えば、あまり詳しくないので後で別途しっかり調べなければいけないが、カメラはフィルムに像を焼き付けて残す機械だということも重要に思える。焼く。その行為も、ストーリーを通して確かな意味を持っていたのだから。

・LPのコミュ「ラスト」のそれこそラストでは、透が「ラストは知りたくない」と言っていた。ところが、このコミュの最後では「今もラストを知らない。どうなったんだろう」というようなことがまたしても未来の透らしき視点から語られている。この不整合はライターの見落としなのかとも思わないこともないが、十中八九意図されたものだろう。本当は、透はラストを知りたいと思っている。でも知りたくないのも本当の気持ちなのだ。非常に人間らしい揺蕩の姿。

「街はつづく、人生みたいに」

寝落ちする浅倉透

・開幕のSEはページをめくる音。状況からして、CMの企画書が立てた音だろう。「そんなふうに終わるね」に続いて、このコミュもSEから始まる。実は浅倉透LPの共通コミュはすべて同様にSEから始まっている。ひとつだけ少し変わり種なものもあるが。今まで気付いていなかっただけで、シャニマスのコミュは大体そうなっているのだとしたら、特にこの気付きは意味を成さない。失敬。

・「人の生活や人生に寄り添う存在」という、建設会社らしき企業の目指すものは、まるでアイドルの目標のようだ。アイドルも多くの人々の生活や人生に寄り添っている。「街はつづく、人生みたいに」という少しばかり鼻持ちならなさを感じるコピーは例の広告マンが考えたものだろうか。透にとっての街とは、そして人生とは。なんとなく、今まで浅倉透という人にはある時突然いなくなってしまいそうなイメージがあった。人気絶頂の中、電撃的に引退し、伝説のアイドルとして後世まで語り継がれる、なんて、そんな未来が容易に想像できる危うさがずっとあった。だがここで「つづく」ということが強調され、浅倉透がつづいていくとしたらどうなっていくのかを考えさせられる。きっと本人やプロデューサーも、心のどこかで「つづく」ことについて何かを思ったのではないか。「つづく」のは難しい。やめるのは簡単なのに。つづくことの大変さとこれから透やプロデューサーはどう向き合っていくのか。

・エスカレーターは多分のぼっている。下りに見えないこともないが恐らくのぼりだろう。これも象徴的なイメージだ。

・眩しく日が差し込むビルから一転して、いきなり小さな丸い照明がぽつぽつと埋め込まれた映画館の天井が映る。この対比もなかなかに強烈。

・JKの一群が現れるとき、カギのような、もしくはキーホルダーなのか分からないが、ジャラジャラという音が鳴る。更に彼女たちはスマホをタップする音やバタバタというやかましい足音まで鳴らす。各コミュ冒頭のSEや「バチーン」など、全編を通して音が印象的に使われているだけに、ここでのJK達の立てる音にも意味はありそうだ。決して気持ちの良い音ではない。騒音とすらいえる。だが透は、初めのうちこそ少しばかり難色を示しているように見えたが、ストーリーの終盤には彼女達を恋しがっているような言動さえしてみせていた。常識的な感覚では嫌悪されかねない対象に抱く安心や共感が、ここでは明確に描かれている。透にとってこの映画館が「オエイシス」になり得たのは、彼女達の存在あってこそなのだ。

・JK達と自撮りをするとき「3、2、1」というカウントダウンの後、鳴り響くのはシャッター音ではなく銃声である。透が撃たれたわけではもちろんなく、シームレスにシアター内へ場面が切り替わるのだ。初見時「ソシャゲでこんな場面転換見たことねえ!!!!!!!!!!!」とつい心の中で叫ばずにはいられなかった。個人的に、浅倉透LPでのハイライトのひとつ。穿った見方をするまでもなく、写真に撮られることは銃で撃たれることと同じくらいの致命傷になる場合があるということを表す演出だ。「文春砲」なんて碌でもない言葉もあるのだし、芸能人は常に一枚の写真で身を持ち崩す危険と隣り合わせで活動をしているのは事実である。無論、清廉潔白な活動をしていれば写真なんぞに怯える必要もないが、どれだけ誠実に生きていたところで、悪意によって偏向報道をされてしまう危険は消し去り得ない。シャッター音に銃声が取って代わる演出は、そんなゾッとするような現実を我々に容赦なく突き付けている。

・「あさくらとうるいたょ ♯半目」というJKの投稿。これもカメラの怖さを物語る例の一つだ。「浅倉透」の読みは当然「あさくらとおる」であって「あさくらとうる」ではない。そのため、この投稿では透が本来の透とは違ったものとして世間に公開されてしまっている。そのうえ半目なのだ。まばたきすれば「バチーン」と音が聞こえてきそうなほどの強さを持つはずの目が半分しか開いていない。つまり、ここでの透は他のどこでも見られないある種とても貴重な透なのである。映画館にたむろするJK達からしか見ることのできない透。それが形になっていることにどれだけの意味があるのかは、言葉にするのが難しい。正直まだつかみきれていない。だが「とうる」と「半目」は間違いなく確かな意味を持つ間違いと失敗だろう。何なら「いたょ」なのも重要そうだ。

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