気持ちと意思と殺意

被告人 「被害者Aさんの首を絞め、Aさんが亡くなったことは間違いありません。でも、殺すつもりはありませんでした。」
弁護人 「被告人に殺意はなかった。したがって、殺人罪は成立せず、傷害致死罪にとどまる。」

私が裁判官時代に経験した実際の刑事事件です。男女の別れ話のもつれから起こってしまった事件でした。

「殺人罪」と「傷害致死罪」は、いずれも被害者を死に至らしめた犯罪です。違いは「殺意」があったか否か。

刑法38条に「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」と書かれているため、殺人罪を犯す意思、つまり殺意が無ければ、殺人罪で罰することはできないのです。

殺人罪と傷害致死罪では、刑の重さに雲泥の差があります。

殺人罪  :死刑、無期懲役、5年以上の懲役
傷害致死罪:3年以上の懲役

そのため、殺人罪で起訴された事件では、しばしば被告人が殺意を否認し、「殺意の有無」が争点になります。

司法研修(裁判官、検察官、弁護士になる前の研修)やロースクールでは、どのように殺意の有無を認定するのか、その手法を徹底的に学びます。

「殺意」とは、殺人罪を犯す「意思」のことです。しかし、「意思」といっても、「気持ち」のことではありません。

他人の内面は見えませんし、意識の深層に無意識があるとすれば、本人ですら正確に気持ちを描写することは不可能でしょう。

法律上の「殺意」は、内面の気持ちではなく、つまるところ、外面の行為を評価する枠組みです。

裁判官と裁判員は、以下のような、出来るだけ客観的な状況から、被告人の行為を評価して、殺意の有無を判定します。
①致命傷となった身体の部位
②その傷の程度
③凶器の有無や種類
④凶器をどのように用いたか。

冒頭の刑事裁判では、「被害者の首に絞められた跡があり、これが致命傷になった。」「凶器は素手だが、首を絞め続けた」という客観的な状況が認定され、その結果、殺意が認定されました。

殺意は「意思」なのに、なぜ「気持ち」ではないのか。それは「実際に存在するかどうか」の違いです。

「気持ち」は、何らかの形で実際に存在しています。殺人犯の気持ちは、「ムカムカ」「メラメラ」「カーッ」といった、擬態語でしか表現できないような感情として、身体のどこかに存在しているのでしょう。

これに対し、「意思」や「殺意」は、どこかに実在するものではなく、法律学における便宜上の概念に過ぎません。

法律は「社会の秩序を保つ」「取引のルールを作る」「処罰する」といった社会的な必要から、人類が言葉と論理を使って創造した抽象概念の結集です。法律があるからこそ、社会が成り立ち、安心して生活できる。

そんな法律に書かれている言葉も実在するように思えます。

しかし、よく考えると、法律に書かれている言葉は抽象概念であり、実在するものではないことに気づきます。「殺意」という”身近そうな”言葉でさえ、実在しないのです。

法律、すなわち抽象概念の有用性は大いに利用しながら、同時に、実在しない抽象概念に縛られて自由さや柔軟さを失っていないか、常に振り返る必要があると考えています。
(了)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?