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YA【元気ですか?】(2月号)


2016/2


p1

 
 教室の一番後ろの席で本を読んでいた山中咲良は、
「何か匂わない?」
 という声に本から顔を上げた。
 横井さんと安田さんがお互い、自分のセーラー服の袖に鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅いでいる。
 咲良は、ドキッとした。
 図書室で借りた本を鞄にしまうふりをして、こっそり自分もセーラー服の匂いを嗅いでみる。ほんわりと甘い花の香りが胸に広がる。良かった。お父さんの加齢臭は移っていないようだ。

 最近、咲良はお母さんに、お父さんの洗濯物と自分の洗濯物を一緒に洗わないでねと頼んでいる。
 お気に入りの柔軟剤をお小遣いで買って、制服を洗う時には、これを使ってねとも注文を出している。
「あっ、お味噌汁の匂いだ!」
 横井さんが笑い出した。
 安田さんが横井さんの裾に鼻を付ける。
「ほんとだ。朝ご飯の時に汁が飛んだんじゃない?」
「洗いに行こう」
 朝礼まであと少し。二人は時計を気にしながら、洗面台へ走って行った。

 咲良はため息をついた。
 洗えば消える匂いなら、まだましだ。お父さんの臭いはそうはいかない。特に、薄くなった頭皮から漂う臭いはなんとも例えようもない。お母さんは咲良の注文に文句を言いながらも分けてくれる。でも、忙しい時は、家族四人分、まとめて洗濯してしまう。
 しかも、水道代を節約する為に、洗濯にお風呂の残り湯を使う時がある。お父さんが入った湯だと思うと、咲良は気持ち悪くて仕方ない。入浴剤の粉をたくさん入れると、洗濯に使わないのを知っていて、咲良はわざと大量に入れる。
 横井さんと安田さんが戻ってきた。
「あっ、いい香り……」
 石鹸で洗ったのか、咲良の机の横を通る時、制服の裾から甘い石鹸の香りがした。ミルクかな。
 咲良は良い香りが大好きだ。今、シャンプーは百合の香りのを使っている。
 咲良は机に肘をついて、肩までの髪に指を通す。ほのかな百合の香りが漂う。もうすぐ授業が始まる。咲良は眼鏡についた汚れをとる為に、布を取り出した。そして、思わず顔をしかめた。お父さんとよく似た油の臭いがした。


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「その布を買う為に、わざわざ、隣りのスーパーまで行っていたの?」
 午後六時の門限に遅刻して、お母さんは機嫌が悪い。
「ただの布じゃないって、眼鏡拭きだって」
 咲良は口をとがらせて、夕飯のサラダを食べる。
 学校から帰って、近所のスーパーの百円均一のコーナーに行ったけれど、眼鏡拭き用の布は売り切れでなかった。どうしても早く新しい布に取り換えたくて、自転車を走らせた。
「ねぇ、これを見てよ!」
 咲良はキッチンの中のお母さんと、隣りの席の小学一年生の凛に白い石鹸を見せる。
「うわぁ! いい匂い!」
 凛は石鹸に鼻を近づけた。
「また無駄遣いをして、体を洗う石鹸なら家にあるでしょう」
 お母さんは揚げたての天ぷらを盛り付けた皿を手にテーブルに付いた。
 咲良は、げっと不満げな声を漏らした。
「なによ、あんた、天ぷら好きだったでしょう?」
 お母さんは、
「いただきます」と、芋の天ぷらにかじりついた。
 凛もすぐに真似をする。
「これ、何の油で揚げているの? オリーブ油?」
「そんな高い油で、てんぷらを揚げる訳ないでしょう。特売の普通の油よ」
 咲良も天ぷらをつまむ。
 やっぱり揚げたての天ぷらは美味しい。でも、冷めたら、安い油で揚げた天ぷらは、ぎとぎとになる。
 ピンポーン!
 家のインターフォンが鳴って、お父さんが帰って来た。
「ごちそうさまでした!」
 咲良は叫ぶと、食器も下げずに、二階の自分の部屋にかけ上がった。


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 咲良は大急ぎで風呂に入る支度をした。買ってきたばかりの石鹸を持って、一階の風呂場に飛び込む。
 お父さんより先に風呂に入る為だ。お父さんの入った後の湯に浸かりたくない。あっ、凛に声をかけるのを忘れた。
「リン、リーン! お姉ちゃんはお風呂に入るけど、一緒に入る?」
 脱衣所の扉の向こうから、信じられない言葉が返って来た。
「お父さんと一緒に入る!」
 咲良は絶句した。
 アリエナイ。あっそ、と心の中でつぶやくと、石鹸のパッケージをむいた。うわぁ、バラの香りが室内に広がる。それから、ゆっくり時間をかけて、咲良はお風呂の時間を堪能した。

 しまった! と気がついた時には、もう遅すぎた。
 今日買った石鹸を、風呂の中に置いてきてしまった。凛に使われるのは構わないけれど、お父さんに使われると思うと、想像しただけで鳥肌が立つ。
 あたしの石鹸に触らないで。
 咲良は願いながら階段をかけ降りた。そして、脱衣所の手前で立ち尽くした。風呂場から楽しげな会話が聞こえて来る。
「お肌すべすべ、お父さんもすべすべ」
「お姉ちゃんの買ってくれた石鹸、いい匂いがするなあ」
 サイアク。
 凛はお父さんが大好きだ。
 咲良も昔はそんなに嫌いじゃなかった。いつからだろう。こんなにも、お父さんが気持ち悪いと感じるようになったのは。
 石鹸を使われた怒りが、沸々と腹の底から込み上げる。
「あたしの石鹸を勝手に使わないでよ! お父さんが使ったら、もう二度と使えないじゃないの。弁償してよね!」
 風呂場にはお母さんの買ってきたボディーソープがあるのに。
 少しの沈黙の後、
「ご、ごめんな、そんなに大事な石鹸だと思わなくて」
 お父さんの言い訳と、凛の謝る声がする。
「リンも、いつまでも、お父さんと一緒にお風呂に入るなんて気持ち悪い!」
 言い過ぎだとわかっていても、咲良の怒りは収まらなかった。
「何を騒いでいるの」
 お母さんがやって来た。
 咲良が石鹸を使われたと訴えると、ため息をついた。
「それなら、貰い物の上等の石鹸があるはずから、出してあげるわ。どこへしまったかしら? 洗面台の上だったかしら……」
 ガラガラッと、お母さんは脱衣所を開けた。
 そこには、ずぶ濡れの河童みたいな姿のお父さんがいた。咲良は悲鳴を上げて、顔を覆った。


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 ドンガラガッシャーン!
 一階から大きな物音がしたのは、真夜中だった。お母さんの叫び声が続く。
「ちょっと、大丈夫? こんな夜中に、何やってんの? 起きられる?」
 咲良は目が覚めた。
 一階へ降りて行くと、お父さんは客間の和室で、踏み台ごとひっくり返っていた。
 その横には、贈答用の箱に入った石鹸が散らばっている。どうやら、お父さんは咲良の為に、石鹸を探して出してくれていたようだ。
 お父さんはお母さんの問いかけに答えることもできない。うめき声を出しながら畳の上で倒れたままだ。
 さすがに、咲良は青ざめた。お父さんはギックリ腰で入院したことがある。その腰を強打したようだ。
「咲良、親戚のオジサンに電話してちょうだい。車を出してもらうわ」
「う、うん」
 親戚のオジサンは車で五分の所に住んでいる。
 咲良は居間の電話へ走った。

 事情を伝えると、オジサンと従兄弟のお兄ちゃんがすっとんで来てくれた。お父さんはオジサンの車に担ぎ込まれて、夜間診療の病院へ向かった。お母さんは、きちんと戸締りをするよう言い残して、病院へ付き添った。
「お姉ちゃん、お父さんは死んじゃうの?」
「ば、バカなことを言わないの。ちょっと腰を打ち付けただけよ……」
 そうは言っても、咲良の胸にも不安が込み上げて来る。
 風呂場でお父さんにぶつけた言葉が頭の中で繰り返される。やっぱり言い過ぎた。お父さん、傷ついたかな……。お父さんは、あたしの為に石鹸を取り出そうとして……。
 咲良は後悔した。
 お母さんに言われた通り、しっかり戸締りを確認して、凛を自分のベッドに寝かせた。電気を消して、咲良は凛の隣りに潜り込んで目を閉じた。まもなく、凛の寝息が聞こえだした。
 咲良は一人、暗い室内で目を開けた。眠れそうにない。
 それから、お父さんのことを考えた。お父さんは細身で背が低く、しばしばお腹を壊してトイレを占領する。黒縁の眼鏡をかけていて、いつも仕事で忙しそうにしている。
 食事中に携帯電話が鳴ると居間から飛び出して、廊下で携帯電話の相手にぺこぺこと頭を下げている。恰好悪い。すごく恰好悪いお父さん。それもこれも、咲良たち家族の為であることはわかっている。わかっている、けど……。
 咲良は布団を出て、カーテンの隙間から外を見た。外灯が、誰もいないアスファルトを照らしている。また、入院になるのかな。病院にお見舞いに行こうかな、でも、何をしゃべろう? いつの間にか、お父さんと普通に話すのが苦手になった。
 畏まって、元気ですか? なんて尋ねたら、お父さんは笑うだろうか。

〜創作日記〜
お父さん、ごめんなさい(笑

©️白川美古都



新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。