YA【人生は綱渡り!?】(5月号)
一限目の英語の時間が終わるまで、あと十分。壁にかけられた丸い時計で何度も時刻を確認して、山本辰巳は激しく貧乏ゆすりをしている。トイレにいきたい。もれそう。しかも、闘っているのは便意の方だ。腹がきりきり痛む。
辰巳には挙手をして、先生にトイレに行かせてくださいという勇気はない。そんなことしたら、ぼく、もれそうなんですと、クラスメイトに告白するようなものだ。幼稚園児じゃあるまいし、中二にもなってかっこ悪過ぎる。
どうしていつも、こうなるんだよ。時計の秒針を見る。早く回れ。短髪の額には、うっすらと脂汗がにじんでいる。次第に猫背になる。ぎゅっと、辰巳は目を閉じる。チクショー。チャイムはまだ鳴らない。
辰巳は毎朝、トイレにこもることに決めている。家族に文句を言われながらも、トイレごもりをするのは、授業中に便意をもよおさないようにする為だ。しかし、登校前に、すんなりとお通じがあるのは週の半分にも満たない。
キンコンカンコーン
「よしっ……」
心の声は、思わず外にもれてしまった。
英語の今泉先生が不愉快そうに、辰巳をにらむ。
辰巳はさらに縮こまる。まさか、五分延長とか言わないだろうな、ぼくだけ前に呼び出されて説教とか、無理だ、絶対に腹がもたない。どうしよう……、
と、次の瞬間、
カッシャーン!
斜め後ろの席の横井さんが、机の上からペンケースを落とした。
辰巳に集まっていた視線が、横井さんに移る。横井さんがペンケースを落とすのは毎度のことだ。今日は一限目の間に二回だ。周りの女子がペンを拾うのを手伝う。
「今だ……」
辰巳は前かがみのまま席を離れて、教室の後ろのドアから抜け出した。
トイレは廊下のつきあたりだ。誰もいないことを祈る。
ダーン!
力いっぱいドアを開けると、小便器の前の見知らぬ男子が飛び上がった。
ゲッ!
しかし、幸い、個室は三つとも開いていた。辰巳は一番手前の個室に飛び込んだ。予め、ベルトを外れ易くしておいて正解だった。便器に腰かけるとほぼ同時に、辰巳を苦しめていたモノは出ていってくれた。
「ふぅ……」
安堵の息をついて、トイレの天井を見上げる。
ようやく思考回路が動き出す。横井さんに助けられた。あのタイミングでペンケースを落としてくれていなければ……。想像しただけでも、辰巳は気が重くなった。
翌朝、辰巳は六時半に起きると、急いでトイレにこもった。途中、父親に邪魔されて一旦トイレを出た。そして、朝食の食パンを口にくわえて、再びトイレにこもった。それでも、ダメだった。
行ってきますとつぶやいて、玄関を出る。母親はさっきから、トイレでパンを食べたことを怒っている。人の気も知らないで。もちろん相談できる訳がない。傘を忘れたことに気が付いたのは、通学路の半分辺りに差し掛かった時だ。
ぽつぽつと、大粒の雨が降り出した。
と、ほぼ同時に、
ギュルルルーッ
腹がうなり声を上げた。キターッ、一番多いパターン。登校中、歩いていると腹がグルグル言い出す。しかも、今日のグルグルは激痛だ。通学路を逸れて、コンビニのトイレへ向かうべきか。それとも、学校まで我慢すべきか。
コンビニか、学校か。
選択の時は次の曲がり角。
と、一瞬、痛みが遠のいた。便意をもよおす腹痛に波があることくらい、辰巳はもうわかっている。イケる。このまま学校へ向かって一年生用のトイレに駆け込もう。
学校へダッシュする。遅刻する訳でもないのに、猛ダッシュで校門を駆け抜けて、早業で靴を履きかえる。一階の男子トイレへ飛び込む。鞄を床に放り投げて用を足す。間に合った……、学校で正解だった。
そう言えば今さっき、廊下で、笠間仁に声をかけられたような、
「タッちゃん、おはよー」
仁は小学校以来の友だちだ。親友だと思っているけど、ジンにさえ便意の悩みは恥ずかしくて話せない。
「なんで、そんなに急いでいるんだ?」
と、毎回、ジンは首をかしげるけれど、深くは追及してこない。
ジンは物事を深く考えない。ノーテンキという言葉がぴったりな性格だ。
辰巳は便器に腰かけたまま、雨に濡れた髪の毛を、学生服の袖でぐしゃぐしゃっと拭いた。ため息がこぼれる。学校のトイレの個室は入りづらい。中学生になってからは、特に人の目が気になる。出来ることなら、学校で大便をしたくない。
しかし、体は思い通りにはいかない。
と、そこに、
「おい、誰か、うんこしてるぜ!」
ドアの向こうから、聞きなれない声がした。
コンコココン、コンコン
ドアを叩く音とげらげら笑う声。
辰巳は慌てて、ズボンを上げた。
「おい、うんこ君、出てこいよ!」
そう言えば、今年の一年生の中に、いつも四、五人でつるんでいるガラの悪い連中たちがいる。
辰巳が息を潜めていると、ドンっと、ドアを蹴られた。ヤバイ。何度か、一年の不良グループが授業をさぼっているのを、見かけたことがある。
始業のチャイムまで、あと五分。
ドアの向こうの連中は朝のホームルームに出席するつもりなんてないだろう。このままだと遅刻してしまう。こうなったら、開き直って、出て行こうか。連中も、二年生が個室に入っているとは思ってないだろう。
待てよ、二年生と言っても、ぼくは体が小さい方だ。確か、連中の中にすごくでかいやつがいたような……。
トイレのドアの隙間から外を伺うと、またしても、ドコンとドアを蹴られた。辰巳の中の勇気は吹っ飛んだ。
「出てこいって言ってるだろうが」
辰巳は頭を抱えた。これが、一難去って、また一難と言うやつだ。毎日が綱渡りみたいだ。嫌になる。本当に泣きそうになった時だ。
「おい、おまえらも、うんこか?」
聞きなれた声がした。
ジンだ。ジンの声だ。
「な、なんだよ」
連中の声のトーンが落ちた。
「おれ、うんこがもれそうなんだよ。ちょっと、どいてくんない?」
バタン!
耳を塞ぎたくなるような音、水の音、ふぅ、すっきりしたぁ、と、ジンの独り言。
用を済ませると、ジンはドアを開けた。
「悪いな、先にうんこして。うんこなら遠慮するなよ。我慢は体に悪いぞ……、って、おい、無視かよ、どこ行くだよ」
連中が無言で立ち去る理由が、辰巳にはわかる。
悪臭だ。
「うえぇー」
辰巳は個室から飛び出した。
「なんだ、タッちゃん、おまえも、うんこしてたのかよ」
「おまえ、何食ったの?」
会話をしている場合ではない。始業のチャイムが鳴った。二人で階段を駆け上がる。
「おれのお気に入りの個室が閉まっているときには焦ったぜ」
「おまえ、一年生のトイレを使っているのか?」
辰巳が尋ねると、ジンはあっけらかんと答えた。
「だって、おれ、腹が弱いから。コウモンから最短距離の便器はチェック済み。おい、笑えよ、今のジョークだぜ」
笑えない。辰巳は呆れた。こんなに、危なっかしい綱わたりを楽しめるなんて。階段を上がりきり、二階のトイレに背を向けた時だ。
「きゃっ」
小さな悲鳴と同時に、辰巳の背中に誰かがぶつかった。立ち止まって振り向くと、横井さんが尻もちをついていた。どうやら、女子トイレから飛び出して、辰巳にぶつかってしまったらしい。
「なんだ、横井も……」
辰巳はジンの口を抑えた。
横井さんはまっ赤になった。ごめんねとつぶやくと、あわてて教室に走っていく。
デリカシーのないジンをこづいて、ふと、辰巳は気づいた。もしかして、トイレの悩みを抱えているのは自分だけじゃないのかも。
「こらーっ、遅刻だぞ」
後ろから担任の林田先生が歩いてきた。
「せんせ、うんこしてたんです。かんべんしてください」
「仕方ないなぁ、ほら、急げ」
ジンの言い訳に便乗して、辰巳も頭をぺこっと下げる。席について、ちらっと横井さんを盗み見る。どこかホッとしているようにも見える。
辰巳はこそっと、自分の腹の上に手をあてた。今日は普通に乗り切れそうだ。
新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。