YA【君が笑ってくれるなら】(6月号)
金原美星は長い前髪をかきあげて、右斜め前の時津相馬の様子を伺った。相馬はまだ試験の問題を解いている。
国語の漢字の試験は全部で二十問。左右に分けて、十問ずつ問題が刷られている。
美星が解らない問題は決まって左側の後半十問にあった。後半は一、二年生で習った漢字の復習問題だ。
「どうして思い出せないのよ……」
今日は、コウケンのケンの漢字が書けないでいる。悔しさが込み上げて唇をぎゅっとかみしめる。
もはや相馬の答案に頼るしかない。
美星は一年生の頃から、国語の漢字の書き取り試験が得意だった。
三年生のクラス担任が国語担当の山川昴先生になり、授業が始まってすぐの時間に漢字のミニテストを行うと宣言した。
美星はクラスメイトたちのブーイングに参加しなかった。ミニテストの平均点は本試験に加算されるという。
美星にとってはラッキーだ。
けれども、自信満々で臨んだテストは自分でも思いもよらない事態に陥った。三年生の授業で習ったばかりの漢字は書けるのだが、一、二年生の時に習った漢字に苦戦した。
思い出せずにイライラして天を仰いだ。
そのときに、偶然に相馬の答案を見てしまったことから、カンニングは始まった。
今までは自分と無関係のズルい子たちが行うことだと思っていた。二回目、三回目と繰り返す内に、美星の罪悪感は薄れた。
それどころか、美星はチャンスを伺っている。試験の制限時間の三十秒前になると、相馬は一問目から問題を見直すのだ。
そのときがカンニングのチャンスだ。
ほら、相馬の答案用紙の半分が机からだらりとはみ出す。
「あぁ、思い出した!」
見星は思わず声を出しそうなのをこらえた。漢字の輪郭がちらりと見えるだけで、大きなヒントになるのだ。
相馬はいつも美星が解けない漢字を書けていた。
イケナイことだと解っていても、必死に解答を書く。残り三十秒、迷っている時間はない。
指先が震えて文字が崩れる。この程度なら許容範囲だろう。
美星は解答を全て書き終えると怖くて顔を上げられない。首が痛くなるほど、机に張りついている。
「ばれてない、ばれてない……」
美星は心の中で唱える。
昴先生が巡回を始める。
「おーい、そろそろ終わりだぞ」
定年間近の昴先生の声が教室内に響く。
そののどかな声とは対照的に、美星の心臓はばくんばくんと高鳴っていた。
「おーい、金原くん、ちょっと」
授業後、昴先生に呼び止められた時、美星は廊下で固まった。
ヤバイ。
カンニングがばれたに違いない。
口の中に溜まった唾をごくんと飲み込む。その音がやけに大きく廊下に響く。美星がゆっくりとふりむくと、昴先生はにこにこと笑っていた。
一枚の用紙をつまむように持って、ひらひらと揺らしながら言う。
「これ、クラスメイトの分、コピーを頼めるかな?」
「あっ、はい」
美星は昴先生に歩みよる。
(なんだ、コピーか)
昴先生はお歳のせいなのか機械全般に弱い。ホームルームの前に生徒を捕まえてコピーを頼むのはいつものことだ。
美星はさっそく一階の職員室に向かった。
(あれっ?)
コピー室の鍵がない。誰か先客だ。
その足でコピー室に行き扉をノックした。
「失礼しまーす。昴先生にコピーを頼まれまし……」
美星はカンニングがばれていないと思い、完全に油断していた。
先客がこちらを見た瞬間、手に持っていた用紙を落とした。
「そ、相馬くん、何してるの?」
「あ、これ、頼まれたので……」
先客は、同じクラスの相馬だった。
美星は動揺を隠せなかった。相馬が手にしている用紙は美星が落とした用紙と同じ物だ。
中間試験のお知らせ。大文字の見出しのおかげで同じだとすぐに解った。(なんで二人に?)
もしかして、男女別々にコピーを頼んだのだろうか……。
相馬は美星の落とした用紙を拾い上げた。
「相馬くん、何枚コピーするの? 男子の分だけ?」
美星は女子の分かもしれない。
「いや、全員分の三十二枚だと思って刷っちゃった」
相馬はうつむいて用紙を見つめている。
六月末から三年生の中間試験が始まる。
受験の年である今年の試験は、一、二年生の頃と緊張感がちがう。
相馬は用紙の字を読んでいるというより、何か考えているようだった。小柄で目立たない真面目な性格の相馬。黒の縁取りの眼鏡がとてもよく似合う。
美星と相馬は三年間、偶然、同じクラスだった。
そんなこと、これまで、美星は意識したことがなかった。生まれて初めてカンニングした日に気づいたのだ。
そういえば、影は薄いが、いつも同じ教室にいる相馬。勉強はずば抜けて優秀というわけでないけど、普通よりちょっと良い。こつこつ努力するイメージがある。
「き、きっと、昴先生が間違えたんだよね。僕に頼んだことをすっかり忘れて、金原さんにもコピーを頼んだんだね」
相馬は美星よりもわかりやすく動揺していた。
そのせいで、美星は幾分か冷静さを取り戻した。
これは偶然ではない。
昴先生がわざとコピー室で相馬と鉢合わせるように仕向けたのだ。カンニングをやめなさい、という警告だろう。
面と向かって怒らないということは、今までのことは見逃してくれるのだろうか?
そう思った瞬間、薄れかけていた罪悪感が込み上げた。
ズルイ自分。
小テストで少しでも加算点を稼いでおきたい。
いつも本試験では焦ってしまって凡ミスを繰り返す。クラスでの自分の成績の順番はだいたい真ん中くらいで相馬よりも下だ。当然の結果だ。
美星は一夜漬けが得意で、毎日こつこつと勉強しない。
相馬は被害者のはずなのに脂汗をかいている。ポケットから白いハンカチを取り出して眼鏡のガラスをふいた。
ホームルーム開始を告げるチャイムが鳴っても、美星は教室に戻れないでいる。
相馬も隣りに突っ立っている。
「相馬くん、先に教室に戻ってよ。頼まれたプリント、お願いしてもいい? 男子の分と女子の分も……」
「い、いいけど、金原さんはどうするの?」
「医務室にいく」
美星はこの後、昴先生の顔を見る自信がなかった。何か言われるかもしれないし何も言われないにしても、視線を合わせる勇気がない。
カンニングを認めて謝罪して減点されたらどうしよう……、なんてこの期に及んで情けない心配まで込み上げる。
本当に胃がキリキリと痛み出した。
「金原さん、どこか具合が悪いの?」
「いいから先に行ってよ!」
美星は一枚、自分の分の用紙をひったくった。
その瞬間、指先に熱い痛みが走った。
「痛っ!」
人差し指の先が赤い血で滲んでいる。用紙のふちで切ったみたいだ。口に指先を含むと苦い味がした。
相馬は一部始終を見ていたようで、美星が顔を上げると慌てて下を向いた。それから、
「ごめん……」
なぜか小さな声で謝った。
「相馬くんのせいじゃない。私ね、よく紙で手を切るの」
美星はてっきり怪我をしたことを、相馬がいっているのだと思った。
「いや、その……、僕は……」
相馬は口ごもってはっきりしない。
美星は相馬に背を向けて、コピー室の扉に手をかけた。相馬は意を決したように叫んだ。
「わざとなんだ!」
「えっ?」
「金原さんに見やすいように、わざと答案用紙の半分を机から出していたんだ。本当にごめんなさい」
美星は驚いてふりむいた。
相馬は理由を説明しようとして、また口ごもった。はっきりしない支離滅裂の単語を並べて、汗をふいてまた言葉を探して、その言葉に首をふって汗をふいて。そして、何を思ったのか胸のポケットから生徒手帳を取り出すと、美星に押し付けてコピー室を飛び出した。
美星は相馬の生徒手帳をぱらぱらとめくった。書き込みのないきれいな手帳に一ページだけ折り目が付けられていた。
メモ欄のそのページには、
「君が笑ってくれるなら」
黒のボールペンで言葉が書き付けられていた。
よほど力を込めて書いたと思われる字は紙が凹んでいた。
美星は相馬が試験の最中に何度か胸に手をやるのを知っている。それは相馬自身の緊張を解くためにやっていると思っていた。
(違ったんだ……)
相馬は美星の為に胸に手をあて祈っていたのだ。
悪いことがばれませんように。
「ごめんなさい……」
指先の血は止まったが、かわりに頬に涙がつたった。
カンニングの共犯という危ない橋を渡らせたのは、美星だ。相馬に謝らないと。
美星は生徒手帳を閉じると自分の胸のポケットにしまった。小さなノートは美星の胸にずっしりと重く感じられた。
新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。