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©️白川美古都


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 十二月中旬、高校受験を控えて、月ノ島中学校の三年生の教室はぴりぴりした緊張感に満ちている。
 村上笑子の顔にもチャームポイントのえくぼはない。二限目の数学と三限目の社会の間、わずかな休み時間に、笑子は英単語帳を開いた。昨日の夜、あわてて作ったのだ。

 笑子の目下の課題は、英単語を一個でも多く暗記することだ。
 一番の苦手は、英語の長文読解だ。
 英単語の意味がわからないから、文章の意味も理解できない。当てずっぽで答えを選んでも、四分の一の確立ではめったに正解しない。もちろん、本番では、そんないちかばちかの勝負は避けたい。
「あれっ、何だっけ……」
 単語帳の一ページ目の英語の意味がわからない。

 昨夜、声に出して書きながら覚えたはずなのに。あきらめて単語帳をめくる。環境汚染。そうだった。
 二ページ目の綴りはシーオーエヌエフ……、またしても思い出せない。休み時間が終わってしまう。
 答えをめくると、自信と書いてある。
(あー、覚えられない)
 キンコンカンコーン
 チャイムが鳴って、社会科の先生が教室に入ってくる。
 社会は得意科目だ。志望校の合格ラインに届いていないのは、とにかく英語だ。このまま英語の勉強を続けたい。
 けれども、よりによって、笑子の席は一番前だ。内職なんてしたらすぐにばれてしまう。
 後ろの席の子たちは内職しているのに。
「不公平だよ」
 思わずもれた大きな独り言に、社会科の先生が不思議そうな顔をした。
 笑子は急いで苦笑いを浮かべる。嫌な汗をかく。
「起立、礼、着席」
 上の空であいさつをする。
 
 最近、ずっと気持ちが落ち着かない。
(全部の高校に落ちたらどうしよう)
 笑子の成績では心配する必要もないことまで頭に浮かぶ。
 笑子の全科目の合計の成績は、全校生徒の真ん中より上位だ。
 それでも、不安な気持ちにさせるのは英語のせいだ。
「三才までに、お母さんがキッズ英会話スクールに通わせてくれなかったせいだ。私も美代と一緒に通っていたなら、こんなに苦労はしなかったはず」
 笑子は心の中でため息をつく。

 糸井美代は、笑子の幼なじみだ。母親同士はママ友で仲が良い。
 お互いに二つ年上の兄がいてよく似た環境で育ったが、決定的に違ったのは親の教育方針だ。
 糸井家では、最新の民間の教育を取り入れて、美代はいつもスクールや塾に通っていた。
 村上家では、勉強は義務教育だけで充分だと親がゆずらない。

 中学三年生になった今、美代は英語が得意で、海外旅行に必要な英会話くらい話せてしまう。
 苦手な数学は塾で特訓中だという。
(よし、背に腹は変えられない)
 笑子は英単語帳を社会の教科書の下に隠した。


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 先生が板書する隙にちらりと単語帳を見て、先生がこちらを見ている間は頭の中で意味を復唱する。
「テリブル、ひどい、ペイン、痛み、ストマック、胃、ストマックエイク……」
 胃痛。
 本当に胃が痛む思いをして、英単語を覚えていく。
 隣りの席の男子が、笑子の不穏な動きに気づいた。暗黙の了解で見逃してくれる。
 なぜなら、彼も社会の教科書に紙切れをはさんで見つめている。細かなメモが書かれているのが解る。何かを暗記しているのだ。
 不気味なほど静まり返っている教室に、社会科のオジサン先生の冗談が虚しく滑る。
 ガタッ……
 笑子の手も滑った。単語帳が床に落ちる。
「す、すみません……」
 笑子は急いで手を伸ばしたが間に合わなかった。
 先生が拾い上げて無表情で単語帳を眺めた。それから、無言で、笑子の机の上に置いた。


「ショーコ、ひやひやしたわよ」
 学校からの帰り道、美代は笑子の背中を軽く叩いた。
「だって、焦ったら、手がもつれちゃって」
 笑子はおどけてみせたが、内心は穏やかでなかった。速足で歩いているのは、美代の学習塾の時間に間に合わせる為だ。
「そういうミヨは、数学の問題を解いていたんでしょう?」
 笑子の口調は自分でもわかるくらい強かった。
 美代の顔が曇った。二人は曲がり角まで無言で歩いた。塾の看板が見えてくる。窓ガラスには、がんばれ受験生というポスターが外に向けて貼られている。
 近くに行くと、チラシの文字が目にとまった。
 まだ間に合う苦手科目克服、冬の特訓講座。その言葉は、もう時間がないといわれているように感じた。
「ミヨ、お願いがあるの!」
 笑子は美代の腕をつかんでいた。
「痛いっ、どうしたの?」
 美代は驚いて身構えた。
 笑子は恥を忍んで英単語が覚えられないことを相談した。これまで笑子は、塾に通う美代が羨ましくて尋ねられないでいた。
 美代は惜しみなく、塾で習ったというアイデアを教えてくれた。


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「ちょっと、なにこれ?」
 笑子の母が冷蔵庫の扉を指さした。
「なにって、見ればわかるでしょう? 英単語よ。これから、どんどんチラシの裏に書いて家中に張り付けるから、よろしく」
 笑子は美代から教えてもらった暗記方法を実践しているのだ。
 目につく場所に英単語を書いたチラシを貼って、とにかく何度も繰り返して読んで頭の中にインプットする。
 冷蔵庫にはかなりの頻度で立ち寄る。牛乳を飲むとき、小腹がすいたとき、十個の単語を暗唱する。
 おかげで、冷蔵庫の英単語はマスターした。
「よろしくって、こんなことしたら、お客様を呼べないじゃないの」
 母が食卓の椅子の背もたれに貼られたチラシをはがす。
「はがしたら、ダメ! お客さんなんて来ないでしょう?」
 笑子は母の手からチラシを奪い、ついでに暗唱して再び椅子に貼った。
 なんかいい感じだ。
 頭の中に新しい英単語が入る。

「あのさ、これ、なんとかならないか?」
 兄もやってきた。
 手には、笑子がトイレに張り付けたばかりのチラシを掲げている。
 笑子は頭を抱える。
 受験生に協力的でない家族を持つと大変だ。

「貼るのはいいけど、単語のチョイスを考えろよ。砂漠、植物、枯れてしまった、世界遺産、破壊、生ごみ、リサイクルって……」
 進学校に進んだ兄がすらすらと翻訳する。
 確かに、気持ちのいい単語ではない。
 笑子は久しぶりに声を出して笑った。


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 翌日、笑子は美代にかけよった。チラシの効果を伝えると、良かったねと美代は微笑んだ。
 そのとき、初めて、美代が元気のないことに気づいた。
 笑子が美代の顔をのぞきこむと、うっすらと目の下にクマが見えた。
(もしかして、美代にも悩みがあるの?)
 笑子の視線に気づいて、美代が話し出した。
「私、中学受験に失敗しているじゃない。あの日、アクシデントが重なったの」
 それとなく笑子は母から話を聞いてはいたが、詳しいことは知らない。
 
 詳細はこうだった。
 朝、セットしていた目覚ましが二つとも鳴らず、美代と兄と母親まで寝坊した。
 父親は年に数回しかない出張で不在、朝食のパンは焦げて牛乳は賞味期限が切れていた。
 結局、朝食をろくにとらずにタクシーを呼んで試験会場に向かったが、渋滞にはまった。
 そして、試験会場に遅刻した。

「あの日を思い出すと眠れない夜があるの。だって対策のしようがないから」
 美代はため息をついた。
 確かに、どれだけ勉強しても、不運には勝てない。

「効果があるのかわからないけど、オマジナイを知ってるよ」
 笑子の申し出に、美代が聞きたいと食いついた。
「トイレの消臭スプレーを靴下にかけるの」
「えっ?」
 本当の話だ。
 笑子の兄は、高校受験の日、誤ってトイレの消臭スプレーを自分に吹きかけてしまいそのままの制服で受験した。そして、運良く合格ラインぎりぎりの進学校へ滑り込んだ。
 兄が得意げにその話を繰り返すので、村上家では、なんとなく、勝負事の前に消臭スプレーを足元にかけている。

「お兄ちゃんがかけたのはキンモクセイの香りだよ」
 笑子が付け加えると、美代が首をかしげた。
「それって、別にトイレ専用でなくてもよくない?」
 沈黙の後、二人は吹き出した。
 それから、もっとアクシデントの対策を考えた。

 目覚まし時計を十個用意する。
 食パンを二斤買っておく。
 サンタクロースにお願いする、初詣にいく、御守を買う、玄関に塩を盛る。
 だんだん神様、仏様頼みになってきた。

 それでも、話すことで気持ちが落ち着いたのか、美代の顔に笑みが戻った。
「聞いてくれてありがとう」
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
もうすぐ授業が始まる。
 二人は目を合わせてにっこりした。
 一緒に頑張ろうね。言葉にしなくてもわかる。
 最強の心の支えは友情だ。

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〜創作日記〜
12月号のテーマを書き尽くしてしまって(サンタクロース、冬休み、雪とかね)、受験の不安にしました。
私自身は推薦入学という安全な道を歩んだので、本当の不安は実感していませんが、頑張って想像しました。

イラスト:tepotepo様

新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。